その剣の意味(18)
結論から言うと。
勝敗は一瞬で決した。まともな勝負にすらなっていなかった。相手はカイラルを狙ってなどいなかったのだから。
突っ込んだ瞬間、目の前を何かが遮った。それが両手を広げたセリアだと気づいた時には、もう遅かった。腸をえぐるようなザトゥマの一撃が、セリアに深々と食い込んでいた。
カイラルはとっさにセリアを受け止めたが、勢いは殺せない。二人は重なって吹き飛ばされた。頭を打ち付けないようにするのが精一杯だった。二人分の体重を載せた背中への衝撃は、十分な痛手をカイラルに与えた。
「馬鹿野郎……何で出てきた」
「ち……がう」
白目を剥きかけていたセリアは、必死で言葉を絞り出した。
「私は、何も……いつの間に、あんな」
「しゃべるな。そのまま寝てろ」
痛みに耐えながら、どうにかセリアの下敷き状態を脱する。何が起こったというのか。彼女は後ろに下がっただろうに。そもそもこの狭い路地で、脇を一息で抜けて前に躍り出るのは無理だ。これがあの殺人鬼のセカイ法なのか。
「どこを見てやがる」
混乱するカイラルをザトゥマの蹴りが襲う。転がるようにしてかわした瞬間、またも奇妙なことが起こった。一瞬途切れた意識が繋がった時、カイラルの視界からザトゥマが消えていた。相手が動いたのではない。自分がザトゥマに背を向け、全力で駆け出していたのだ。
「女見捨てて逃げてんじゃねーよ」
ザトゥマは一息で距離を詰め、カイラルの首根っこをつかんで力任せに引き倒した。倒れ伏すカイラルの横っ面が蹴り飛ばされる。最早立つことさえ許されない。執拗な蹴りの嵐が叩き込まれ、とどめとばかりに無防備な背中が踏みつけられた。か、と息を吐き、カイラルは動く力を失った。
「シャロンの言うことも当てにならねえな」
カイラルを見下ろしながら、ザトゥマは服の埃を払った。
「死の気配を読む力ってのは、極めれば未来予知に等しいとか言ってやがったが……目覚めたての死神様じゃこんなもんかねえ。お前、本当にあの鎧に勝ったのかよ」
そうだ。あの黒い嵐を呼べば、何とかなるかもしれない。猛禽の頭を持つ障壁屑を葬った時は、ほとんど暴走だった。ハイリを撃退した時も、負けられないという一念だけで発動した。三度目の正直、自らの意志で使いこなせないか。
力を解き放とうと意識を集中して、カイラルははたと気づいた。横にはセリアがいる。ここで力を使えば巻き添えを食わせてしまう。いや、彼女だけの問題ではない。表通りに出れば、まだ人は大勢歩いているのだ。あれだけ大きな力を、この狭い路地に留められる保証がどこにある。
カイラルの狙いと躊躇に、ザトゥマも気づいたようだ。意地悪く笑い、「偉いねえ」と皮肉った。
「そんな生ぬるい調子じゃあ、いつか寝首かかれるぜ。みんな腹に一物持って動いてるんだからよ。なぁに焦るな、お前とはまたやりあう時が来る。その時は遠慮なく殺しあえることを願ってるぜ。……ああ、ついでだ。ミンツァーから伝言。【穴】の調査は二日後だ」
二日後。今日はもう終りに近いから、実質明日しか時間がない。
「行ってみりゃわかるがな、あそこはこのセカイで一番危険な場所だぜ。その体たらくでどこまでついてこれるかな。ま、ぺーぺーのセカイ使いだろうと貴重な戦力だ。せいぜい気張ってくれや」
殺意も怒気もすっかり抜けた様子で去ろうとするザトゥマ。しかしカイラルは「待て」と食い下がった。
「お前ら、は、何を考えてる」
「言ったろ。【穴】の先へ進出するってな」
「違う」
動くこともままならない中、カイラルは必死で口を開いた。
「お前らは、あの街を、どうしたいんだ」
ザトゥマはしばらく黙っていた。ふぅむ、と夜空を仰ぎ、やがて「いいとこ突くね」と振り返った。
「なるほど。お前にとっちゃ、それが核心なんだろうな。随分視野の狭い話だけどよ。いいぜ、教えてやる。……ぶっちゃけた話、俺らはあの街に復活してもらっちゃ困るんだよ」
薄々予想はしていた。だがその言葉は、カイラルの心を深く突き刺した。
カダル=ハーウェイは、リバーブルグを復興させることで、このセカイにおける物語の進行を食い止めようとしている。そのためにはカルテルの力のみでは不足と考え、復興連盟を立ち上げた。利権しか眼中にない連中を取り込んでも、復興さえ果たせればそれでいいと。しかし、まったく異なる理由で参加している一派がいた。それがミンツァー社だ。
彼らの目的は、あの【穴】を通り、このセカイの外へ進出すること。そして世界を支配している連中を打倒し、【閉塞世界】を破壊すること。そのためには戦力が必要になる。ザトゥマやシャロン、ナクトといった連中と手を組み、カイラルに協力を持ちかけたのも、その一環だろう。世界と戦うという点では、カダルと共通している。ただ、目指す方向が違うだけだ。
では彼らにとって、リバーブルグの復興はどういう意味を持つのか。
聞けば、キエルは十年前の事件が原因でセカイ使いとしての力を授かったという。自分もそうだ、とザトゥマは語る。
街があの状態にあることで、様々な事象が起こり、セカイ使いが出現し、物語が進行する。だからこそ介入する余地も生まれる。小火のうちに消し止められては、空を焦がす大火にはなりえない。ミンツァーは火を煽り、セカイを焼き尽くす戦火と成すことを望んでいるのだ。
街は復活しない。あの男が復興計画に絡んでいる限りは。
「カダルの爺もそれをわかってて、だけど俺達の力を借りないわけにはいかねーのさ。皮肉なもんだろ? ま、それは俺らも同じなんだがな。うちの会社だけじゃあ、あの街全体の調査を堂々とはやれねえ。持ちつ持たれつってやつよ」
そしていつか、どちらかがどちらかを切り捨てる。双方が戦力を集めているのは、来るべき日に備える意味もあるのだろう。そんな爆弾を抱えた状態で、復興連盟は維持されているのだ。
ザトゥマはしゃがむと、カイラルの頭をつかんで自分の方を向かせた。
「あの街は餌なんだよ。俺やお前みたいな社会のカスを釣るためのな。わかってるだろ? 同類」
「ち、がう」
「違わねーよ。いい加減自分が人間社会の敵だって認めろやセカイ使い。……ああ、そう怖い顔すんなって。別に俺らも、あの街を復活させる気がないってわけじゃねえ。用が済んだら手伝いくらいはしてやるよ。その時に、このセカイが今の形で残ってるとは限らねーけどな」
カイラルは何か言い返そうとしたが、力が入らない。
「まあ、俺個人の希望を言うなら、できればあのままで残しといてほしいんだがな。俺は今のリバーブルグが気に入ってるんでね。あの街の腐った空気は悪くねえ。お前も同じじゃねーのかい?」
「何を、言って」
「だってそうじゃねーか。まるで地面から湧いてくるみてーに死体が転がってるもんなあ。趣味の土葬ごっこができなくなったら困るだろ? 墓守君」
その言葉が、カイラルの残る力と怒りを爆発させた。頭をつかむ手に組みつき、そして文字通り食らいついた。肉が破れ、血が吹き出す。思わぬ反撃を受けたザトゥマは、反射的にカイラルの腹を蹴る。カイラルは口を離すと、ばたりと崩れ落ちた。
「調子こいてんじゃねーよ穴掘り野郎」
殺人鬼の額に青筋が浮かぶ。一度消えかけた殺気が舞い戻ったが、これまでとは明らかに臭いが違う。可愛がろうとした猫に噛みつかれた時のような、あまりに幼稚な怒りから来るものだ。それ故に、あっさりと発散することを望んでいるのだろう。原因を叩き潰すことによって。
「お前、やっぱ今死んどくか」
ザトゥマが血の滴る拳を握りこんだ時である。
真っ黒な何かが辺りを覆った。道も建物も、月明かりさえも消えた。夜の闇とは根本的に違う。生あるものを一切認めない、死の力がすべてを包み込んでいた。
あらゆる光を飲み込む空間に沈んでいるのは四人。墓守と刑吏と殺人鬼。そして巨大な死神だった。
死神は何もしない。カイラルの上に佇んでいるだけだ。しかしザトゥマは反射的に飛び退いた。その顔には、確かに死の恐怖が浮かんでいた。次の瞬間には、死神も死の空間も消えていた。ほんのわずかな時間だったろう。だがそれは、今しがたまで一方的な蹂躙を続けていたザトゥマから、戦意を奪い去るに十分だった。
「……てめえ」
ザトゥマは動かない。ここで引けば事実上の敗走である。この男は殺人鬼ではあるが、弱者をいたぶるのみならず、強者との命のやり取りも楽しむ類だ。先に仕掛けておきながら相手の力に怯えて逃げるなど、矜持が許さないのだろう。
ふと、ザトゥマはカイラルの目を見た。そして引きこまれた。死の色に染まった瞳だ。カイラルもザトゥマをじっと見ていた。それが残された力でできる唯一のことだった。彼自身、気づいていないのだ。あの死神と同等の死の圧力を、自分の目が放っていることに。
しばらく睨みあった後、ザトゥマは声を上げて笑い出した。
「いい、いいねえ! その目! 最高じゃねーか! ああ、確かに俺はビビった! 今日は俺の負けだよ! お前あれだな、そのうち睨むだけで人殺せるようになるぜ!」
殺人鬼は喜びに打ち震えていた。長い間探し求めてきた『同類』を見つけられたことに。一転して敗北を認めるほどに。
「お前、死体を埋めるより作る方が似合ってるぜ。俺が保証してやるよ」
それは本心か、それとも皮肉か。どちらにせよ、カイラルには到底受け入れられない言葉だった。
「おい、何やってんだ!」
路地に怒声が飛び込んできた。悪友達だった。三人がいなくなったことを不審に思い、探し回っていたと見える。一人は大通りへ叫んで助けを呼び、残る者達は近寄ってきた。騒ぎになるのはごめんとばかりに、ザトゥマは反対側へ逃げ出した。
「待ってろよ」カイラルの横を通り抜ける時、ザトゥマは口の端を釣り上げて言った。「必ず俺と同じ側に引きずり込んでやる」
殺人鬼は悠々と去っていった。カイラルは助け起こされながら横を見た。セリアはどうにか自力で立ち上がれるようだ。安堵したカイラルの意識は、セリアが駆け寄ってくるのを認めながら、ぷつりと切れたのだった。