魔女の贄(5)
マリアナは珍しく焦っていた。
何もこの忙しい時に。早めに儀式を切り上げて、どうにか作業の遅れを取り戻そうと思っていたのに。その矢先にこれか。
何よりも、二人きりの部屋で格好つけた台詞を吐いた直後に、転がり込んできた神官が叫んだ時の気恥ずかしさといったら!
責めは自分にある。千年近くも世界の観測を続けていながら、過去に何度も同じことがありながら、この事態を引き起こしたのだから。だが、最初からわかっていたのだ。あんなものを制御しきることは、誰の力を以ってしても不可能だと。実際、コロキアム生全員に、この事態を引き起こした前科があった。ディオンにも、フォルスにも、オズワルドにも、詠子にも。
今や行方知れずとなっている、我らが偉大なる指導者でさえも。
だから今の状況も、ある程度は仕方のないこと。
そうでも思わないと、やっていられないのだ。
聖殿地下の観測室に入ったマリアナの目に飛び込んできたのは、絶望的な光景が映し出される画面であった。間違いなく過去最大規模の障壁崩壊。壁間通路側の崩壊に止まっているのは不幸中の幸いだが、範囲が広すぎる。例え今から修復にかかろうと、応急処置が完了する前に完全崩壊を迎える箇所が出るのは時間の問題だった。それもよりによって、自分の直轄地であるこのセカイの真上で。
通信担当の神官が、さらに厄介な続報を伝える。
各所で剥がれ落ちた壁面が障壁屑化、及び暴走。巡回部隊と戦闘に突入したとの由。
画面の上でもそれは確認できた。劣化した塗料のように脱落した壁面から、ぼこぼこと手足が生え、人の形を成してゆく。あるものは斧を携えた少女であり、あるものはずるずると這い回る少年の上半身であり、あるものは純白の翼で飛翔する天使であった。
戦闘が開始される。セオリー通りの一斉遠距離攻撃から、各個撃破へと移るセカイ使い達。だが戦況は芳しくない。斧女と斬り交えた戦士は力ずくで吹き飛ばされ、天使と撃ち合いになった翼の術士は素早さに翻弄された。動きが鈍い少年の上半身には数人が飛び道具を放ったが、異形の右腕に蠢く無数の目から放たれた光線により、全員まとめて薙ぎ払われた。
マリアナは奥歯を欠けるほどに食いしばった。後から後から湧いてくる相手に引き換え、こちらは限られた戦力しか保持していない。ここ最近は、セカイ使い個別の戦闘力でさえ差を詰められているというのに。
神官長が戦力の追加投入を提言する。直属の神官達を向かわせるべきだと。だがそれは、これと見込んで引き抜いてきた無二の友人達を危険に晒すことになる。マリアナにとっては耐え難い苦痛であった。量産型のセカイ使いを失うのとは訳が違うのだ。
だからといって、このまま放置するわけには――。
マリアナが決断を迫られた時であった。
障壁屑の群が一瞬にして消し飛んだ。続けざまに起こる爆轟に飲み込まれ、人の形をしたものが次々と粉砕される。
間髪入れずに、戦列の崩れた障壁屑の群へと踊りかかる者達がいた。迷彩服に身を包んだ銃士あり、長刀を携えた剣士あり、アルメイド一族と同様の術士あり。そして彼らを指揮するのは、蝙蝠の翼を生やした黒衣の女である。
知能を持たない人形の群が、外見は種々雑多ながらも統制の取れた働きをするセカイ使い達の手で押し返される。いや、圧し潰される。
血飛沫が飛ぶ中、マリアナは指揮官の女を拡大表示した。見られている気配を感じたのか、顔だけをこちらに向ける女。その表情がいやらしく歪む。神官の一人が思わず声を上げた。女の顔は、我らが神子様と瓜二つではないか――。
彼らの正体を察して舌打ちするマリアナに神官が告げる。
「ディオン様より入電。『貸し一つだ』とのこと」
同じコロキアム生からの援軍であることを示していた。
状況は一変した。当分の間はこれで持つだろう。ディオン配下のセカイ使い達は、少数ながらも絶大な戦闘力を誇る。しかし彼らは、どこまでも援護以上のことをするつもりはないようだ。援軍は敵の群を適当に蹴散らしてゆくだけで、殲滅しようという動きも、障壁の修復にかかる様子もない。後は自分達で何とかしろ、ということか。
生き残った羽虫を潰すだけなら、投入済みの戦力で事足りる。これ以上彼らの手を借りるのは、こちらとしても願い下げだ。とはいえ、すでに十分すぎるほどの借りを作ってしまった。これを返せるのはいつのことになろう。
考えただけで頭が痛くなる。だが現実は意地が悪い。額をさすったマリアナに、さらなる頭痛の種が与えられた。
神官より再び入電の報告。送り主は詠子だった。思わず顔をしかめるマリアナ。神官は一瞬躊躇した後、添付されていた動画を再生した。
『阿呆。お前がチンタラやっているから、あたしの仕事が増えたでしょう。せっかく気分よく湯治を楽しんでいたのに、湯冷めしたわ』
長い黒髪に青白い肌の女が、女官に服を着せられながらしゃべっている。背後では慌ただしく人が行き交い、怒号も飛んでいる。女の表情に怒りは見られず、ただ侮蔑の色だけがあった。
『この期に及んで戦力を出し惜しみするとか舐めてるの? 自分に代役がいないことくらい理解できてるわよね? この上足を引っ張るようなら、監査人を派遣できるよう会議で進言するわよ。精々気張りなさい』
ずどん、と爆音が走った。中の人物に代わって爆轟を叩きこまれた画面は、無残な姿を晒している。破片と煤まみれになった神官達が、青筋を浮かべる主の顔を見つつ、ため息混じりで機器の修復にかかった。
閉塞世界を形作る障壁はただの壁ではない。コロキアム六人の閉塞力の結晶であり、世界そのものの制御装置なのだ。一つの力の供給が狂えば、全体の均衡を乱し、その力の供給者のみならず、他者の負担までもが増す。今回、特に割を食ったのは詠子だったというわけだ。しかもその原因が、マリアナ一派の作業遅延だというのだから、文句を付けられても仕方のないところではある。
だが、それでも。
踏み込んでいい領域を間違えていないかあの女は。
監査人を派遣? 馬鹿にするにも程がある。忙しいときには他者の手も借りよう。その借りを返すために雑用の肩代わりもしよう。しかし、セカイの構築の方法にだけは、決して他人の口を挟ませない。それが絶対の掟のはずだ。その掟を否定するなど、悪い冗談を通り越しているだろうが。
少しでも効率のよい方法を探ろうと、こちらがどれほどの手を打ってきたと思っている。十数年前にも、あれこれと策を巡らせ、強力なセカイ使いを生み出そうとしたのだ。まあ、結果は大失敗に終わったのだが――。
そこまで考えて、マリアナの脳裏にある企みが閃いた。
謀略と呼ぶのもおこがましい、単なる悪戯である。しかしあの詠子に一泡吹かせるには、これ以上の方法はあるまい。何よりも、かつての失敗の遺産を活用するところがミソだ。
「あの、神子様」
困惑する神官長。我らが神子様は今日、どうにも様子がおかしい。怒りのあまり物にあたったかと思えば、今はにやにやと笑っている。声には出せるはずもないが、不気味だ。
マリアナは後始末を神官長に任せ、意気揚々と観測室を後にした。
見ているがいい。今に声も出ないほど驚かせてやる。
誰も口にはしないが、わかっているとも。閉塞世界が完成した暁には、六人の中で生き残りを決める戦いが始まるのだ。ならば、今から仕込みを行って何が悪い。我ら一族が魔女と呼ばれた、その理由を教えてやろう。ただ黙々と決まりに従っている連中の、目にものを見せてやろう。