介入の狼煙(11)
そのまま向かってくると思いきや、ハイリは一転して後ろに下がった。黒い霧が危険と見て、遠距離戦に徹する気だ。驚くべきはその速さだった。金属の鎧を着込んでいながら、一息に十数メートルの跳躍。あっという間に百メートル近い距離が空く。カイラルは走ったが、とても追いつけるものではない。
ハイリの――ラナ家一門の行使する主なセカイ法は、肉体強化である。
自らの肉体を組み換え、金属と生体部品による戦闘用の体を作り上げるのだ。鎧も着ているのではなく、一体化していると言ってよい。生み出された土と金属は自在に形を変え、ある時は槍に、ある時は斧に、そしてある時は矢となる。ラナ家の者達は、壁守たるアルメイド一族の最前線として、最も屈強な肉体を誇っていた。
どうにか距離を詰めようと疾走するカイラルを、ハイリが迎撃する。槍が振られると同時に、いくつもの岩の楔が出現し、砲弾のごとく襲いかかってきた。
その直前、カイラルの脳裏に異様な世界が映った。視界の一部に薄っすらと影が差す感覚。誰に教わったわけでもないが、カイラルは直感で判断した。そこに入ってはならないと。
影の差した場所を避けるように動く。飛来した岩の楔が、カイラルの周囲をすり抜けていく。背後で壁が吹き飛ばされる轟音。体勢を立て直しながら、カイラルは確信する。これがハイリの言った死の力。今の自分は、より確かに危険を予測する能力を手に入れつつある。
さらなる岩の砲弾が襲い来る。カイラルは可能な限りかわした。黒い霧が防いでくれるとは考えなかった。果たしてどの程度まで信頼できるものなのか、今の自分にわかるはずもない。しかし二度三度とかわすうち、視界の大部分に影が差した。安全な場所に全身を入れるのは無理だ。つまり一部は確実に被弾する。ならばもう、黒い霧に懸けるしかない。
わずかな空白に無理矢理体を押し込む。かすめるようにして岩の楔が通り過ぎる。黒い霧に触れた岩は、ひびが入り砕けはするものの、飛び道具としての威力を完全に失ってはいない。凝縮された閉塞力は、簡単に消えてはくれないということか。
みしりという感触。犠牲にしたのは左腕だった。脆くなっていたとはいえ、投石の直撃を食った腕は、もうまともに上がらない。
痛みに一瞬目を閉じ、それでも進もうと開いた時、カイラルの動きは止まった。
ハイリが目の前にいた。ほんの瞬きの間に、残っていた距離を向こうから詰められていた。すでに槍を振り抜く体勢に入っている。黒い霧が突破可能と判断し、一気に決着をつける気か。
ぎりぎりのところで、カイラルはのけぞった。それしか避ける術がなかった。槍が霧に触れる。表面が剥がれ飛んだが、形状は全く崩れない。先程砕いた槍とは、込められている力が違う。
刃の先が脇腹を切り裂く。カイラルは背中から倒れそうになるのを必死でこらえた。槍がもう一度迫ってくるのが見える。血を吹き出しながらも、食らってなるものかと体をひねるカイラル。しかし、自覚したばかりの能力が絶望を告げる。その視界は、完全に影の中だった。
かわしきれない。
もう危険の予測など関係なかった。事前にどう動こうと、その後で反応したハイリの攻撃が間に合ってしまう。
「これが地力の差ってやつさ」
勝利宣言とばかりにハイリが言う。
なおも足掻こうとするカイラルに、槍の一撃が叩きこまれた。
最後の最後で力が爆発したのだろうか。体を薙いだ槍は亀裂が走り、砕け散った。しかしそれは、衝撃を十分に抑えてはくれなかったようだ。カイラルの体は大きく吹き飛び、地面を転がった。
「どうやらその黒い霧も、食える閉塞力には限界があるみたいだな。力を込めた一撃なら、破れないこともない。きちんと修練を積んでいれば、また話も違っただろうが」
残った柄が天に向けられる。金属が蠢き、槍は瞬く間に元の形状を取り戻した。
「いくらあんたが死の力の使い手だろうと、所詮は目覚めたばかりの赤ん坊だろう。あたしとやりあうには程遠い。一度は退かせただけでも上出来さ」
答えはない。カイラルは地に伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
「これでわかっただろう。どちらにせよあんたにセリアは任せられない。言った通りあの子は連れて行く」
冷徹に言い放ち、カイラルの横を一瞥もくれずに通り抜ける。そのまま悠然とセリアへ近づこうとして、ハイリの足は止まった。
黒い霧が消えない。それどころか、自分の行く手を阻むかのように、目の前に広がりだしている。確かに手心は加えておいたが、まだ戦意が残っていたか。ならば完膚なきまでに叩きのめすまで。そう思って後ろを向いたハイリは、光景の変化に目を見開いた。
カイラルの姿がない。いや、おそらくはそこにいるのだろうが、見ることができなかった。黒い霧は、すでに背後を覆い尽くしていた。
とっさに前方へ走ったハイリを、さらなる死の力が襲う。降り出した黒い雨は、酸のように鎧を溶かしていく。駆け抜けようとしたが間に合わない。霧は上下左右を塞ぎ、逃げ道を完全に封じた。槍を振るい、霧を払おうと試みるも、闇が虚しくかき回されるばかりだった。
辺りが闇に沈んだ。雨が打ち付け、霧が体を包む。鎧が触れた端から分解されていく。再構築をかける間もない。剥き出しになった肉体を、死の力は容赦なく侵食した。
「ぐ、う……!」
ハイリが膝をつく。何故こうなった。対処できない力ではなかったはず。それがどうだ。先程までとは比較にならないほどに巨大な力。どうして突然引き出されたのか。
(ああ……そうか)
死の力だからだ。ついさっき、自分が語っていた死の閉塞力の性質。重要なことを忘れていた。性質が『死』そのものであるが故の特性。死の閉塞力を危険たらしめている理由の一つ。
死の力は、死が近づくほどに増していくのだ。
危機に陥って力が増幅されるのは、どのセカイ使いでもあり得ることだろう。しかし、死のセカイ使いのそれは桁が違う。まさしく跳ね上がる。手加減などしている場合ではなかった。とどめを刺しておかねばならなかったのだ。死のセカイ使いを追い詰めるだけ追い詰めて放置するなど、愚行中の愚行だったというのに。
自分の甘さを呪いながら、ハイリは意識が侵されていくのを感じていた。