介入の狼煙(6)
体が揺れている。誰かに抱えられて走っているのか。爽やかな風が通りすぎていくようだった。やがてそれは止まり、体がそっと降ろされた。ゆっくりと目を開ける。視界に入り込んだ人物を見て、セリアは鎖で縛られたままの剣を構えつつ飛び退いた。
「誰」
「ナクト=コースト、です」
小男が黒眼鏡を外した。若い。まだあどけなさの残る顔立ち。歳はセリアと同じくらい、いや、一回り若いほどだろう。
「よろしく」
腰を九十度に折り曲げて言うナクト。そのまま十秒近くも固まっていた。持ち上げられて再び見えるようになった顔には、敵意がまったく感じられない。どこか茫洋としていて、半分眠っているようである。
「……よろしく」
セリアも思わず挨拶を返してしまった。緊張を削がれたが、彼が自分を拉致したことに変わりはない。建物の中に突然出現した蜘蛛の群れ、それを使役していた彼。蜘蛛を操るセカイ使い。戦って勝てる相手ではない。
自分はどこかの廃墟にいるようだった。先日の、あの街の中かもしれない。だだっ広くがらんとして、人の気配は感じられない。遮るものが何もない分、かえって逃げ出すのは難しいだろう。単なる追いかけっこでは、負けるのは目に見えている。
「私を、どうするの」
「さあ。俺、連れてこいって言われただけ」
「誰に?」
「私よ」
背後から声がした。聞き覚えのある声だった。忘れるはずもない。セリアはとっさに構えを取り、振り向いた。果たしてその人物はいた。
「話が違うわね。まったく口が利けない状態だと聞いていたのだけれど。それとも強姦されかけたショックで回復したのかしら」
「ふざけ、ないで」
「冗談よ。そう怖い顔をしないで」
皮肉めいた言い方だったが、表情には出ない。先日自分を襲い、さらに男達を使って辱めようとした女。相変わらず感情のない声を発している。ナクトのぼんやりとした気配とは似て非なるものだ。
「あなたは、何者なの」
「私はシャロン=エルロイ。その子の養母、ということになっているわ。一応」
「そんなこと、じゃない。あなたは、知りすぎている」
「知りすぎ?」
「母様の、名前」
ああ、とシャロンが相槌を打つ。
「そういえばそんなことも言ってしまったわね、エレナの子」
黒い風が渦巻いた。避けようとするセリアに容赦なく襲い掛かり、その体を拘束する。苦悶の表情を浮かべるセリアに、シャロンはつかつかと歩み寄った。
「心配しなくても、今日のところは帰してあげるわ。あなたはただの餌だから。色々と聞きたいこともあるけれど、そしてそれは私にとって容易だけれど、今はなし。序盤から調子に乗りすぎると、展開を制御しきれなくなるかもしれないから」
「わけの……わからないことを」
「あなたは何も知らなくていいのよ。あの神子の手駒として使い捨てにされるためだけに存在する一族の、さらに出来損ないの落ちこぼれは」
シャロンの手がセリアの顔を這い、喉元へ至る。力が込められ、細い指がセリアの首へ食い込んでゆく。じわじわと血を止めるように。抵抗もできない悔しさを噛み締めながら、セリアの意識は徐々に薄れていった。
がくりとセリアの頭が落ちた時、それは起きた。
建物の陰から、何かが鳥の群れのように突っ込んできた。瞬時に編まれた糸の壁がそれらを受け止める。糸はぎりぎりと音を立てて湾曲し、後一息で食い破られるところだった。勢いを失った飛来物がぼたぼたと落ちる。楔状になった岩塊であった。
シャロンは頭上に敵意を感じた。セリアの首根っこを掴んで後ろに飛ぶ。わずかな差で、天井を突き破り、巨大な何かが降ってきた。轟音とともに、今しがたまで立っていた地面が抉られる。土煙の中、巨躯をゆらりと持ち上げた乱入者は、ぎらりと目を光らせて言った。
「その子を置いていってもらおうか」