介入の狼煙(5)
階段を上り切った後、足音は入り口の前で止まった。内部の気配を探っているかのようだ。ルネにも閉塞力の流れが感じられた。抑えてはいるのだろうが、強い。敵意はないが、さりとて友好的でもなく、何より重い。動揺するルネを椅子に座らせ、ダウルは小声で「大丈夫だ」と言った。「いつも通りにしろ」と。
ルネが再び金髪丸顔に変わると同時に、入口の扉が開く。来客は挨拶もなしに、ずかずかと診察室へ踏み入った。ダウル、そして見ず知らずの若者の姿を認め、
「突然助手を雇ったと聞いて来てみれば」
キエルは呆れ顔に言った。
「やっぱりこういうことだったのね」
ルネがセカイ使いであることは、当然知れる。閉塞力を嗅ぎ逃がすような相手ではないことは、ルネにもはっきりとわかった。
「誰を雇おうとわしの勝手だろう」
「私に黙ってることはないでしょう。この大変な時に、身内が隠し事してるなんて……」
「あの」
ルネは震えながらも、険悪な会話に割って入った。
「何よ」
「せ、先生は悪くないんです。僕が、なるべくひっそり隠れてたい言ったからで、その」
「名前は?」
「え、らっ、るっ……ルーク=トライトンです」
「……どこかで聞いたことがあるような名前だけど」
それはそうだろう。ダウルの愛読書から、適当に人名を抜き出して繋げただけなのだから。案外こういうのはバレないものだと言っていたが、どうにも怪しそうだ。ルネは引きつった笑みでごまかすしかなかった。
「キエル。そやつはここにいたいと言っとるんだ。放っておいてやれ」
「あのねダウル、私はあなたの心配をしてるの。その子、セカイ使いなんでしょう? あの【森の魔女】の縁者なんでしょう? 慣れ合いができる相手じゃないのよ」
「そうでもないぞ。お前の時に比べれば百倍安全だわ」
ダウルの言葉に、キエルはぎょっと目を剥いた。何か言い返そうとしたようだが、わずかに顔を赤くし、目をそらしてしまった。口を尖らせながら、ぶつぶつと文句を言っている。どこか子供のような顔だった。ルネには何のことかわからなかったが、どうも先程の言葉は、この女性にとっての急所だったらしい。
「今のルークは、あの時のお前と同じだ。誰かが受け入れてやらなきゃならん。わかるだろう」
「だったら尚更私が……」
「そうやってまた、何もかも一人で抱え込むつもりか。カイラルより先にお前が潰れるぞ」
キエルは逃げるように、背を向けて部屋の入口へと歩いた。
「お前だって、積極的に壁守と敵対したいわけじゃあるまい。それはお互い様だ。腐っても敵同士、打算がないとは言わんさ。だが、こやつはここにいたいと言ってくれとる。それでいいんじゃあないか」
ルネは無言で頭を下げた。キエルは振り向かない。だが、まったく隙のなかった気配に、迷いが生じているのは確かだった。
沈黙が続く。それを打ち破るようにベルが鳴った。
こちらヴェルニー診療所、と受話器を取るダウル。残る二人は微動だにしない。そこへ「事務所からだ」と受話器が差し出された。
難しい顔で電話を受けるキエル。だが、それはすぐに凍りついた。みるみるうちに顔色が変わり、真っ赤になると同時に受話器が叩きつけられた。
「――本当にどいつもこいつも!」
叫んだキエルが一気に部屋を駆け抜け、外へ飛び出そうとした時である。
一瞬の内に、どろっとした何かが壁ごと扉を覆い隠した。同じものが自分の体にまとわりついてこようとするのを、キエルは際どいところで防いだ。重力によって弾かれたそれは、びしゃりと音を立てて飛び散った。
ゲル状の肉、とでも言うべきものだった。赤と白の斑模様が、不気味に蠢きながら家中を侵食し、飲み込んでいく。流動しながらも一定の形を保ち、青黒い血管が走っている。
診察室からダウルとルネが姿を現した。肉は、ルネの足元から広がっていた。
「上出来だ」とダウルが言った。「無茶ぶりだなあ」とルネがぼやいた。
「まったく間が悪いな。人が友好的な空気を演出しとる時に」
「……驚いたわ。私は父親に売られたのかしら」
「勘違いするな。示し合わせたわけじゃあない。ただ、クインシーのやろうとしとることは読める。それとわしの考えが合致しただけのことだ」
「クソ親父」
ルネの上半身が吹き飛んだ。爪状の重力波が肉を薙ぎ払い、壁を吹き飛ばす。肉片が頬をかすめたが、ダウルは表情を変えない。
「ここで戦ろうというのなら止めやせんがな。こいつのセカイ法はちょいとばかし厄介だぞ」
肉の壁から、ぼこぼこと何かが生える。ルネの上半身だ。五体現れたそれらは、肉の壁を、床を、天井を、滑るように移動して襲いかかってくる。
そのすべてを粉砕してゆくキエル。しかし、いくら打ち砕こうとも、新たな分身が次々と生える。肉の壁に開けた穴も、瞬く間に修復されてしまう。
建物が崩壊する覚悟ですべてを一斉に潰すしかないのか。
キエルが力の流れを変えた時、一瞬の無防備が生じた。
真下から生えた手が、キエルの足を掴んだ。意識がそれる。真上から分身が覆い被さり、顔の半分を塞ぐ。それを逃すわけもなく、右から左から、一斉に飛びかかってきた。絡みついた分身は、再び融け合って一体化。肉は全身を覆い尽くし、服の隙間から入り込み、さらに耳や口から中に侵入しようとしてくる。百戦錬磨のキエルも、これには血の気が引いた。
そうこうしている内に、残された下半身からもルネの体が再生していた。その表情は暗い。しかし、おどおどするばかりだった先程とは明らかに違っていた。
「……決定的ね」
どうにか動く口でキエルが吐き捨てる。もう友好的な関係は望めない。今後、ダウルはともかく、ルネを攻撃するのに躊躇はしないだろう。敵意のこもった視線を受けながら、ルネも言葉を返した。
「すみません……でも、僕にもアルメイドの者としての矜持がある。自分の立ち位置くらいは、自分で決めたいですし。ダウル先生に、お味方します」
勝負が決まったのを見届け、ダウルは落ち着き払って言った。
「茶でも淹れてやろう。今少し……三十分ばかりくつろいでから行け。何、あいつはそう簡単にくたばりやせん」