介入の狼煙(3)
部屋の外に飛び出したカイラルは、怖気の走るものを目にした。
人の頭ほどの大きさをした、巨大な蜘蛛だった。廊下を、壁を、天井を埋め尽くさんばかりに蠢いている。どこからこれほどの数が沸いて出たのだろう。つい先程までは影も形もなかったはずなのだ。
衛兵達は、体を白い糸のようなもので縛り上げられ、転がされていた。蜘蛛がその上を這い回っている。抵抗できた様子もない。ロゼッタは無事だったが、腰を抜かしている。
廊下の突き当りにセリアはいた。ただし一人ではない。手足をだらりとさせ、侵入者に抱えられていた。背広を着た小柄な男。見覚えがある。ミンツァーの護衛の片割れだ。
「カイラル君!」
「ロゼを頼む!」
ペリットに叫び、カイラルは小男に挑みかかる。しかしそれよりも早く相手は動いた。向けられた手から白い奔流が放たれる。とっさに身を翻すカイラルだったが、狭い廊下ではかわせるはずもない。為す術なく糸に絡め取られると、今度は猛烈な力で糸が引っ張られた。窓を突き破り、カイラルの体はボールのように放り出された。
三階の高さである。過去の最高記録は七階。廃墟での乱闘中に落ちたのだ。あの時は半死半生だった。それに比べれば、どうということはない。手足の自由が利かないという点を除けば、だが。
このままでは受け身すら取れない。一、二秒後には地面と合体だ。危機に反応し極限まで圧縮された思考の中で、血だるまになった自分の姿が浮かび上がる。
向かい側の建物のひさしが目に入った。手を伸ばせば届く。しかし糸まみれの腕は言うことを聞かない。反対向きなら足を引っ掛けられただろうに。
脳が稲妻の速さでこれまでの情報を検索する。糸。糸さえ何とかできれば。この程度引きちぎれないのか。駄目だ。今まで出会った中で最も頑丈な物質に思える。ナイフでさえ歯が立たないかもしれない。一体何で出来ているのだ。
糸を放った小男。奴はおそらく真っ当な人間ではない。セカイ使い。自分と同じ、閉塞世界に囚われた愚か者。そうだ。自分はセカイ使いだった。これはセカイ使い同士の戦いなのだ。セカイ法を行使しなければ、丸腰も同然ではないか。
ほとんど停止した脳内時間の中で、カイラルは目を閉じ、深く息を吸う。
まぶたの裏を、あの死神が横切った気がした。
ぼっ、と音を立てて、糸の塊が弾け飛んだ。腕が伸びる。指先がかろうじてひさしにかかった。雨で濡れたひさしはあっさりと手をすり抜ける。しかし足は地面を向いてくれた。着地の瞬間、体をひねり衝撃を全身に分散させる。舗装された道の上を一回転。雨に混ざって割れたガラスが降り注いだ。
異変を察知した私兵達が駆けつけてきたが、狙いすましたかのように上から巨大な網が投げ落とされる。網に捕まった私兵達がもがく横で、カイラルは薄っすらと目を開けた。そこへ音もなく舞い降りる小男。セリアを抱えた彼は、雨に打たれながら立ち上がろうとするカイラルを見るや、首を傾げた。
「お前、何した」
男にしては少し高い声だった。
「その糸、普通の力じゃ切れない。でもお前、切った。ていうか、壊した」
小男の言うとおり、糸はばらばらに吹き飛び、破片はどろりと溶けて地面に染み込んでいた。右から左、そしてまた右と、きっちり斜め四十五度に首を動かす小男。その振る舞いはどこか気だるげである。
「返せ」
ただ一言を告げるカイラル。その体から、黒い霧が漏れ出していた。
「同じだ」
ぴたりと真ん中で首を止めた小男がつぶやく。
「シャロンと同じだ」
小男は背を向け、地面を蹴った。目にも留まらぬほどの勢いで壁を駆け上がり、屋根の上を猫のように疾走する。
「待ちやがれ!」
カイラルは全力で駆け出した。上からペリットが何事か叫んだが、聞こえないふりをした。勝手な外出を禁じられたことなど、すでに頭から消えていた。