介入の狼煙(2)
腕立て腹筋スクワット、一通りのトレーニングを終えて、カイラルはようやく体に異状がないことを実感できた。念のためしばらく安静にするよう言われているが、聞けるものではない。食事もいつも通りとれているし、むしろ倒れる前より調子がいいくらいだ。今すぐにでも殴り合いに参加できそうな具合である。
といっても、当分その機会はあるまい。外出は禁じられているし、キエルからの呼び出しも来ていない。おかげで日がな一日、軽い運動やら読書やらをして時間を潰すしかなかった。
「それにしてもお前、本当にやるな」
汗を拭きつつカイラルが言うと、セリアは頬を赤くした。これはからかうでもなく本心から出た言葉だ。まさか腕立て百回についてくるとは思っていなかったので、差し向かいで黙々と同じメニューをこなすセリアを見ながら、カイラルは目を丸くしていたのである。
二人は寝る時以外のほとんどの時間を一緒にすごしていた。お互い暇潰しの相手にはちょうどよかったし、話すこともまだ山ほどある。セリアはどんな些細な話題にも食いついてくるし、飲み込みも恐ろしく早いものだから、カイラルの方が先に参ってしまったくらいだ。
そして今日、体調が万全なのを確認し、カイラルは挑んでみることにした。
あの力の再発動に、である。
世界の姿を思い浮かべる。実際に自分が見てきた世界でなくとも構わない。世界とはかくあるべきという形を想像する。自分はその中心に立っていると考える。他には誰もいない、自分と世界があるだけ。世界との直接対話。世界との同一化を図る。
セリアはカイラルの手を握り、セカイ法の基本を伝えていた。もちろん実際にセカイ法を行使したことはない。だが、使うための訓練だけなら、何度となくこなしてきた。それを教えることはできる。後はカイラルが自力で感覚を身につけるしかなかった。
ダウルに言われた通り、ここで暴発でもすれば大変なことになる。だからこそカイラルは、自分からあの力に触れてみると決めたのだ。忌まわしい死の力に。また感情に任せて死体を生み出してしまわないために。例えそれが愚か者の力であろうと。
脳裏に思い浮かぶのは、崩壊した街と、地面に突き立つ無数の墓石。カイラルにとっての世界は、滅んだリバーブルグそのものだった。その中を一人で歩き回る自分の姿を想像しながら、全身の力を抜く。しかしいくら繰り返しても軽い浮遊感が得られるのみで、あの黒い霧も出なければ、死神が現れることもなかった。
「駄目だな、やっぱり」
「……ごめん、なさい」
「何でお前が謝るんだよ。俺が下手くそなだけだ」
こんな落ち着いた状況では、力の出しようもないのかもしれない。今度キエルにでもコツを聞いてみようと思った時、扉が叩かれた。
「やっほー、遊びに来たよー」
「や、カイラル君。よかったよかった」
満面の笑みでやってきたのは、ロゼッタとペリットであった。
「何だ、思ったより元気そうじゃない」
「そっちもな」
「目を覚ましたと聞いて、すぐにでも来たかったんですが、しばらくは会わないように言われてまして。事情は聞きましたが、本当に無事でよかった」
「気にせずに仕事優先しろよ。あんたも大変だろ今」
「まあ、そちらは何とか」
ペリットは後ろにいるセリアにも、帽子を取って笑いかけた。剣の恩人である彼を覚えていたものか、セリアも戸惑いながら会釈を返した。
「事後処理は一段落といったところです。確認できた限りでも、行方がわからなくなっている方が数名いるようで……元からこちらで把握できていなかった住人を含めれば、被害はさらに増えるかもしれません。あとはキエルさんが今後のことをどう判断するのか」
「死体は?」
一方的に話すペリットを遮り、カイラルはその一言を放った。誰の、とは言わせない。この男はすべてわかっているはずである。すでにキエルから知らされてはいたが、カイラルはこの男の口から聞きたかったのだ。自分が作り出した死体の顛末を。
しばらく押し黙った後、伏し目がちにペリットが言った。
「すべてミンツァー理事に引き渡してあります。一応は復興連盟関係者ですし、変死体でもあるということで、カルテルの人間も立ち会って検死を済ませてありますが。……あの黒猫だけは元通り埋めておきました。野良犬の餌にはなっていませんよ」
「そうか」
ペリットは帽子を深く被った。目元を隠しただけでは足りず、背を向けた。絞り出すように、祈りは捧げておきました、と言った。悪かったな、とカイラルは返した。
「――ああもう!」
重い空気を打ち破るように、ロゼッタが叫んだ。
「あのね、もしあんたが死んで帰ってきてたら、墓に蹴り入れてたわよ。その子を守るためだったんでしょ? あんな奴ら殺されて当然とは言わないけど、あんたやその子の命の方がずっと重いわ。だからあんたのやったことは正しい。あたしが保証してあげる。……でなきゃ、あの子猫も浮かばれないわ」
ロゼッタの目は潤んでいた。彼女にとってカイラルは、あの化物を前に別れた時、一度死んだ存在だったのだろう。それが生きて戻ってきたことに難癖をつけるのは、例え本人であろうと許さない。無粋な御託を寄せ付けぬ想いがそこにあった。
そうだな、と呟き、溢れそうになった涙をカイラルはぬぐってやった。
「あの猫、こいつを助けるために向かっていってくれたんだ。それに、助けただけじゃない。俺もこいつのお陰で助かったんだ。――セリア」
セリアの手を取って引き寄せる。おどおどと頭を下げるセリア。ロゼッタはその顔をまじまじと見ると、にやりと笑った。
「聞いてたより美人ね」
「何だよ」
「手ぇ出してないでしょうね」
「馬鹿言うな」
セリアが顔を真っ赤にする。ペリットはくすくすと笑い、カイラルは勘弁してくれと頭を抱えた。
「そういや、キエルはどうしてるんだ? 目を覚ました日に会ったっきりなんだ」
「ええ、確か今は……」
言いかけて、ペリットが目配せをする。ロゼッタはセリアを誘って部屋を出た。念のため奥に移動し、ペリットが耳打ちする。
「ダウル先生に会いに行っているはずです」
「いつものことじゃねえか。何でひそひそ話を……」
嫌な予感がした。カイラル自身、これまであずかり知らなかった真実を聞かされたばかりなのだ。キエルもダウルも、まだすべてを語ってくれていないと見ていい。
「いや、君と直接関係ないとは思うんですがね。実は、あの日ダウル先生が戻ってきた時、妙な――」
部屋の外から悲鳴が響いたのは、その時である。