ある商人の記録・5
「これはこれは……先日はどうも、失礼いたしました」
ようやくに見つけた尼僧は、深々と頭を下げた。
「連絡先もお伝えしませんで……いえ、語っているとついつい、あちらの世界へ没入してしまいまして」
初めて出会ったあの日、再会の日取りも決めずに別れてしまった商人は、次の日から尼僧を探し回った。最初は例の酒場の前で張っていたのだが現れない。中に入って義手のバーテンダーにでも聞こうと思ったのだが、出入りの客が誰も彼も義足をつけていたり白状を持っていたりで、気後れしてしまった。その後、彼女が顔を見せる場所の情報はいくつか掴めた。が、仕事の合間を縫って探し続けたものの、どれもハズレ。そして五日目の今日、ようやく建物から出てきた彼女を捕まえたのである。
連れ立って先日の酒場へ行き、しばらく仕事の話をした。今日は数人の客と女給がいて、冷えた飲み物を運んできてくれた。しかしこの女給、注文を取るときですら言葉を発せず、盲目の尼僧とは手指を絡ませたりテーブルを叩いたりして意思疎通を図っている。彼女、口がきけないらしい。客に対しても微笑み一つ見せず、物憂げな表情を崩さない。ただ、
「美人でしょう?」
にやりとしながら尼僧が言った。肯定はしておいた。清楚な雰囲気の美しい女性なのは確かだった。尼僧が耳打ちする。
「連れ出すのは金額しだいですよ」
こちらが妻子持ちであることをわかっていて、意地悪をしているのか。商人は苦笑いでごまかした。嫌な冗談だと思ったが、実際時たま客を取っているのだそうだ。
しかし、盲目の人間に美人も何もわかるものなのだろうか。
「見目で判断はできませんがね。触ってみればわかります。他の方が美人だという顔、不細工だという顔、色んな顔を触ってきましたよ。その形状を覚えてしまえばいいだけですから」
言うや、尼僧は商人の顔を掴んだ。といっても柔らかく、輪郭から目鼻の形をなぞるように動かしている。
「一般の感覚で言えばまあ、地味な顔……ですかね。しかしこの美醜の感覚というのは、あくまで見える人の話ですから。私からすれば知ったことではありません。触り心地はいいですよ。私好みの顔です」
商人はなるほどと思いつつ、尼僧の感覚に驚いてもいた。彼女にとって顔かたちとは、触覚で理解するものなのだ。もちろん、それの立てる音も放つ匂いも、視覚以外のあらゆる情報を駆使して理解しようとするのだろう。何よりもまず視覚に頼って生きている人間とは、根本的な部分でずれがある。
住む世界が違う。素直にそう思った。
「まあ、こうした感覚を理解していただけるとは思っていません。こちらも視覚情報とやらは永久に理解できないでしょうからね。……ですが、私達が共有できるものなど、他にいくらでもあるのですよ? それを忘れて別世界の住人のように扱われるのは、いささか心外ですね」
商人はどきりとした。胸の真ん中に、指をずぶりと突き入れられたような痛みがあった。こちらの心を見透かされている。いや、そう思うように話を誘導されていたのか。
「現に私達はこうして、語り合うことでお互い理解を深めようとしているのですから。いえいえ、気落ちなさらないでください。あなたは至極真っ当な方です。ですがそれ故に恐ろしい。他者との間の壁は、いとも容易く形成されてしまう。わずかな思想や感覚の違いによって。私はそれを、具体的な身体の欠損で表現したに過ぎない。覚えていらっしゃいませんか? 閉塞思想の基本は『キミとボク』。周囲に壁を作れば作るほど、閉塞世界に囚われていきますよ」
冷や汗が止まらなかった。商人は我知らず視線を逸らしていた。閉じられたままの尼僧の目を見ることすらままならない。
「……さて。先日の続きを始めましょうか。少年と少女が出会い、物語が芽生えました。これからどんな枝葉が伸びていくのか……見届けてくださいますように」