病み上がりの闇(5)
熱い湯が心地よい。全身に浴びていると、嫌な感情が何もかも洗い流されていくようだ。
純粋にありがたかった。ここに来てから、何もせずに一日三食寝床付きという生活だったが、部屋からは用足しの時くらいしか出られなかった。体を拭くための湯とタオルは与えてもらえたが、髪はボサボサのままだったのだ。
自分が得体の知れない誰かであるということくらいはわかっている。何をされようと文句を言える立場ではない。この数日間は、そのための覚悟を決める時間でもあった。だが、あのキエルという女性に会って、緊張は多少和らいだ気がする。決してこちらを歓迎している様子ではなかったが、手の温もりはどこか安心を与えてくれた。まるで母親のような。
セリアは蛇口を閉めた。髪から雫がぽたぽたと落ちてゆく。側の鏡には、変わらない自分の顔が写っている。カイラルとも、キエルとも同じ人間の顔。
彼女は自分を異セカイの住人と呼んだ。何故知っている。閉塞世界の仕組みを理解している人間は限られているはずだ。
彼女は壁守なのか。だとすれば、何故自分を始末しない。各セカイに常駐している壁守の役目は、世界の真相に近づいたり、異セカイから紛れ込んできたりした異分子を排除することだ。崩壊が収束した以上、セカイの外の情報は必要ない。自分を生かしておいても余計なリスクが高まるだけだろうに。
もしかすると、その『真相に近づく』側の人間なのかもしれない。それで自分に協力を求めようとしているなら辻褄が合う。残念ながらハズレだ。自分は大した情報も持っていない、どころかセカイ法も使えない出来損ないだ。役に立ちそうもない。
脱衣所に戻ると、真新しい服が用意されていた。着てみると、質素だが動きやすい。自分にはおあつらえ向きだ。見た目が慣れないのは仕方ないだろう。
その横に、鎖で雁字搦めにされた剣が置かれていた。
カイラルと別れ、ここに連れてこられる途中、取り上げられそうになった。向こうの言い分が正しいのはわかったが、これだけは他人に預けるわけにはいかなかった。頑なに抵抗していると、まあまあと割って入った男性が、あっという間に縛り上げてしまった。これならいい、ということだった。受け入れて頭を下げると、礼ならカイラル君に、と言って笑った。男性はペリットと名乗っていた。
カイラルはどうなっただろう。自分を預けた瞬間、その場に倒れてしまった。側にいたかったが、それは自分のわがままだ。できることなど何もない。無事でいてほしい。この数日間、それだけを祈り続けていた。
剣を持って部屋に戻ると、キエルがいた。
「あら、さっぱりしたわね」
微笑んだ彼女は、セリアを部屋に押し込めると、
「言った通り話を聞かせてもらうけど、私が相手じゃただの尋問になっちゃうでしょうしね。別の人間を用意するわ。そいつに色々話すこともあるから、少し待ってちょうだい」
そう言って足早に出ていった。
一時間ほども経っただろうか。部屋の扉が動いた。そっと様子をうかがいながら入ってきた人物の姿に、セリアは目を見開いた。知らぬうちに体が動いていた。
「よう……」
気恥ずかしそうに声をかけようとした人物は、言い切らないうちに固まった。セリアが猛烈な勢いで抱きついていた。動けないのは驚きのためだけではないだろう。ぎりぎりという音がする。苦痛を訴える声を聞いて、セリアは我に返った。恐る恐る上を見上げ、自分が羽交い絞めにしている人物と目があった瞬間、セリアは顔から火を吹いた。相手を吹き飛ばして扉に体当たりをしようとしたが、間一髪で腕をつかまれる。
「待て待て待て! 逃げるな、落ち着けって! ……ああ? 違う、脱走じゃない、大丈夫だから入ってくんな! 何も変なことしてねえ! 誤解だよ!」
二人の引っ張り合いは、その後しばらく続いた。