病み上がりの闇(1)
リバーブルグでは、雨がしつこく降り続いていた。新興市街の建物の一室で、カーテンの隙間から外を覗く男がいる。
「この中で仕事とは、しんどそうだな」
ダウルがぼやく。障壁崩壊から数日、壊れた世界は元に戻っていたが、脱出した街の住人達は未だ帰還していない。復興連盟は、総出で街の安全確保や行方不明者の捜索にあたっていた。十年前に比べれば随分と優しいが。
振り返った彼の前に、二人の人間がいた。
ベッドで眠るカイラルと、それを見つめるキエル。
あの日、キエル達が見守る中、夜明けとともにカイラルが壊れた世界から脱出してきた。そのまま糸が切れたように倒れ、以来目を覚ましていない。念のため一通りの検査を受けさせたが、あちこち怪我をしている以外は、肉体的な異状はほぼ見当たらなかった。
あるとすれば、ただ一つ。
彼の目は、死人のそれになっていた。
「因果なもんだな。これも血か」
ダウルがつぶやいた。
「このままこいつも、自分が見とる幻と同じ運命をたどるのか」
「馬鹿言わないで」
「わしは現実的な話をしとる」
ダウルの言葉には容赦がなかった。
「十年前、わしらは救えなかった。それと同じ力を授かったこいつを、今救えるという根拠がどこにあるんだ」
二人の脳裏に同じ光景が浮かび上がる。
道の真ん中で、腐りもせずに干からびていった死体。それを遠巻きに見つめる人々。
「決定的に違うものが一つあるわ」
キエルは息子の顔をそっと撫でた。
カイラルは少なくとも、力に飲まれてはいない。使いこなすという段階からは程遠いものの、暴走はせずにすんでいる。あの障壁屑を倒した時も、正確に敵だけを捉えていた。恐らくは、母を守ろうとしたために。
「何より、命に別状はないんでしょう」
「今のところは、だ。魂を削る力に変わりはない」
「だったら希望はあるわ。十年前のことはただの事故だった。でも、きっとそれが伏線となって、この子を中心とする物語が始まったのよ」
今はさしずめ、序章が終わったところ。これからが本番だ。
「カダルはどう言ってきた」
「私に一任する、と。必要なら金も人もいくらでも動かせって」
事後処理のことではない。カイラルと、彼が持ち込んだ『もう一つの問題』についてだ。ハーウェイ・カルテル総代表、カダル=ハーウェイ。今回の件は、晴れて彼のお墨付きとなったわけだ。それを知る人間は限られているが。
セカイを揺るがす一大事になることはわかりきっている。今のうちに準備を進める必要があった。
「さて、と」
「会うのか」
「もちろん」
カイラルが目覚めない今、その『もうひとつの問題』の相手をしてやるべきだろう。
キエルは同じ建物の中の、一番奥にある部屋へと向かった。部屋の前は、武装した私兵が厳重に固めている。キエルは扉をゆっくりと開けた。
窓のない狭い部屋。その真ん中で、一人の少女が椅子に座っている。
キエルの顔を認めると、少女はおずおずと頭を下げた。
「気分はどうかしら」
少女は口を開かない。ふるふると、肯定とも否定とも取れない首振りをしたのみである。
カイラルに背負われて彼女はやってきた。服装からしてアルメイドの者であることはすぐにわかったが、追い返すことはできなかった。二人が脱出した瞬間、壊れた世界は消え去ってしまったのだ。それを待っていたかのように。
駆け寄ったキエルに少女を預け、カイラルは開口一番に言った。こいつを頼む。それきりあの状態だ。
「うちの下っ端がああ言うもんだから、こうして面倒見てるけど。自分が招かれざる客だってことはわかってるわよね」
剥き出しの敵意をぶつけると、少女は身を固まらせた。怯えた子犬のような様子に、キエルは思わず苦笑を漏らした。
「言葉は通じるのがせめてもの救いかしら。大人しくしていてくれれば、悪いようにはしないわ。できれば友好を深めたいところね。シャワーでも浴びる? その後でゆっくり話を聞かせてちょうだい。あなたがどこの誰なのか、あの壊れた世界で何を見てきたのか。……ま、それはともかく」
キエルが右手を差し出す。少女は戸惑いながらも、震える手でそれを取った。
「今後ともよろしく、異セカイの住人さん」