ある商人の記録・4
しばらくの間、尼僧は何も言わなかった。語り疲れたという様子ではない。今しがたまで語っていた世界に、思いを馳せているような。
音を立てて茶を飲み干し、長い息を吐くと、
「今日はここまでにしておきましょう」
そう言って尼僧は立ち上がった。商人が財布を取り出すと、自分が持つと返された。義手のバーテンダーが無言で頷いた。
商人は一礼し、入り口で彼女を見送った。その時、ふと疑問が浮かんだ。
扉に手がかけられた時、背中に向かってただ一つ問うた。実話なのか、と。
「実話だと思いますか? こんな荒唐無稽な話が」
至極当然の答えに、商人は縮こまった。確かにそうだ。自分は何を言っているのか。
しかし尼僧は、笑いもせずに振り向いて言った。
「実話だとするなら、あなたに忠告してあげることができます」
商人の顔を汗が伝った。先程までと変わらない声だというのに、とてつもない重圧を持っていた。そして感じた。尼僧の体から、何か得体の知れない気配が放たれているのを。
「お気をつけ下さい。閉塞思想は誰もが持ち、いつ囚われるかわからないものです。人間社会との繋がりを拒絶して、世界そのものと同化しようなどという考えはね。閉塞神話は、そしてこの物語は、決して絵空事ではないのです」
ばたりと扉が閉まる。商人は木製の扉を見つめたままつっ立っていた。
夢の中にいるような気がしてならない。と同時に、あの物語はやはり実話ではないのかと思えてきた。夢と現実が曖昧になる。一体どちらのリバーブルグが本物なのか。
恐る恐る取っ手に手をかける。この扉を開けたら、壊れた世界が広がっていないだろうか。シャベルを持った少年や、剣を携えた少女が通り過ぎて行かないだろうか。
意を決して扉を開ける。途端に眩しい陽の光が目を貫き、思わず顔を背けた。扉の向こうには、変わらぬ街の雑踏が存在していた。
現実に引き戻された直後の、ぼんやりとした頭で商人は思った。
そういえば、次に会う日を決めていなかったな、と。