魔女の贄(1)
神子は小さな叫びとともに跳ね起きた。早めに床に着いたというのに体は重く、下着はべっとりとした寝汗を吸って気持ち悪い。喉の渇きを覚えたので枕元の水差しに手を伸ばし、直接口を付けて何の味もしない液体を流し込む。
時計に目をやると午前五時。起きるには少し早いが、寝直すにはいささか時間が足りない。下着を替えるのも億劫だったので、世話役の神官が来るまで暇を潰そうと煙草を取り出す。寝台の上で寝起きの一服をくゆらせている内に目が覚め、物思いにふける余裕ができた。
ここ最近、あの頃の夢をよく見る。今日の場面などは何度遭遇したかわからない。自分はその場におらず、遠く離れた場所で送られてきた映像を見ただけだというのに、やたらと鮮明に映し出される。それだけ、あの人の姿が魂に焼きついて離れないのだろう。
閉塞世界学コロキアム。
学生の同好会にも劣る奇人変人の集団に過ぎなかったこの組織が、世界の命運を左右する日が来るなどと、誰が予想し得たろう。生まれ育った家の都合で、魔術妖術の類の知識を持ち合わせていた神子にとっても、それは同じであった。
教授は人間社会を嫌っていた。個人が社会に抑圧されることなどあってはならぬと信仰していた。社会に打ち勝つためには、それらすべてを内包するもの、世界との直接対話を行う他ないと考えた。即ち神話の時代の再来を望んでいた。ただの一個人が、神から賜った力で世界を揺るがす時代を。
そしてそれは実現した。こともあろうに、神の側からの接触によって。
学内でもアンタッチャブルな存在として、薄汚れた研究室でくすぶっていた教授に、何故あれほどの力が与えられたのか。理由はわかっているが、それ自体に納得のいかないところはあった。教授本人は神の啓示を受けたのだと狂喜していたが、暇を持て余した神々の遊びというやつだろうか。それにしても適当にサイコロを転がしたものだ。何もあんな危険思想の持ち主でなくともいいだろうに。
力を得た教授は、それを自らの野望成就に利用することに、何の疑念も抱かなかった。世界を飛び回り、仲間を集め、計画を練った。すべては己が思想に人類を巻き込むために。
そしてあの日、世界は作り変えられた。細切れにされ隔離され、閉鎖性を極度に高められたセカイでは、かの閉塞神話に倣った物語が、今も繰り広げられているのだろう。
それから。
「早千年、か」
「神子様、お目覚めですか?」
「開いています。どうぞ」
古めかしい木製の扉が開き、世話役の神官が一礼して入ってくる。つかつかと窓に歩み寄りカーテンを開放。しかし明り取りは望み薄と見える。今朝はあいにくの悪天候、灰色の雲がセカイの果てまで続く鬱屈した空模様である。
「嫌な雲ですね。今日は大事な儀式の日ですのに」
「天気に難癖をつけても仕方がありませんよ」
軽く会話を交わしながら、神官の仕事ぶりをぼんやりと眺める神子。風呂場で湯を張ってきた神官は、水差しを換えるべく寝台へ近寄るなり、眉をひそめて言った。
「悪い夢にでも遭われたのですか。お顔の色が優れませんが」
「いえ、別に」
「……ひどい寝汗ですね。朝食の前に禊をお済ませになって下さい。汗まみれの神子様を神聖な場にお送りするわけには参りません。さあ」
「ええ、どうもすみませんね」
半ば追い立てられるようにして、神子は寝所を出、風呂場へと足を運んだ。
閉塞世界は始まりと終わりを繰り返している。漂っては消える浴室の湯気のように。細かく分割されたセカイは、物語を生み出し続ける箱庭だ。物語が終焉を迎える時、始まりを超える閉塞力が放たれ、新たな物語の礎となる。一種の永久機関として、この世界は千年近くもの間機能してきたのだ。それの維持こそが、この世界の創り主である神子らの役目であった。
やや沸かし過ぎなほどの湯船に身を浸し、顔を強く洗う。神子は頭を悩ませていた。人手が足りない。しばらく前の大規模な事故で、駒をいくつも失った。ここに至って、閉塞世界はますます安定を失いつつある。必然、駒の消費も増えるとわかってはいたが。
手足となるセカイ使いの確保に、神子も随分と苦労した。物語の完結したセカイから引っ張ってくるだけではとても間に合わない。直轄地であるこのセカイを【牧場】として使い、それなりの成果は上げていたが、しくじることはままある。十年前などは痛い目を見た。
今日は収穫の日である。次の一年を戦う駒の選定の場であり、時折側近を選び出す場であり、そして十年前の遺物の現状を観察する場でもあった。この箱庭で暮らす者達にとって、いまだかつてなかった事態が起きる。それをただ流すのか、それとも手を差し伸べるのか。どちらでもいい。役に立ちさえすれば。
「あと少し。あと少しなのよ」
神子の独り言が、湯気の漂う浴室に響いた。
結局この日、神子は朝食を取ることもなく、朝の空いた時間を湯船で過ごした。出立の時刻ぎりぎりになって、ようやく湯船から上がり、自室へ向かうと、神官が正装を用意して待ち構えていた。
時間がないこともあり、言われるがままに純白の衣装へと袖を通す。しかし、どうにも神官の挙動が不審に思えてならない。時折こちらの顔を覗き込んだかと思えば、化粧の手を止め、鏡に映りこんだ顔をまじまじと見つめたりもしている。
「何か」
「いえ。これから人前に出られるにしては、妙に御機嫌がよろしいと思いまして」
「そう見えますか」
「だって、笑っていらっしゃる」
言われて鏡を見る。それでようやく気づくほどではあるが、口元が緩んでいる。意識して感情を殺そうとしても、鏡の中の自分はどこまでも笑っていた。
「そうですね」
化粧を終え、一通り準備を整えた神子が呟いた。
その脳裏に、今一度あの頃の情景が浮かび上がる。
「自分と同じ志を持つ者達が、同じ力を得られる世界を作る」
教授は【世界の意志】と弟子達にそう宣言した。そこから閉塞世界の名が歴史に刻まれた。人間社会を拒絶し、世界との直接対話を選んだ者達は、世界を書き換える力を授かり、社会を蹂躙した。同じく【世界の意志】より力を授かった、思想を異にする者達との戦いを制し、彼らは新たなる世界の構築者となったのだ。
彼らこそがセカイ使い。神の候補生。
神子は思う。教授は確かに、狂人と呼ばれても仕方のない人物であったろう。しかしその思想は、確実に神子の魂を捉えていた。すべてに賛同したのではないにせよ、他のどのような御高説よりも、神子の魂を揺さぶった。それは神子にとって光明であり、未来への道筋であった。仲間達も同じ想いを抱いていたはずだ。皆、教授と同じく自己の内での葛藤に苦しみ、くすぶっていた矮小な人間であったが故に。千年の昔、一念発起して家を出、異国の学び舎に通ったことを、神子は英断であったと信じている。
この千年は歴史の境目であった。それももうじき終わる。記念すべき千年祭まで後わずか。閉塞世界は完全なる永久機関として確立され、新たな歴史が幕を開けるのだ。それまでにはいかなる犠牲を払おうとも、閉塞を維持しなければならない。神の座に列席する最終試練として。
「何だかんだ言っても、自分の血を引く者達の成長した姿を見るのは楽しいものなのですよ。それに」
言いつつ、鏡台前の椅子から立ち上がり、正面から神官と向き合う神子。
その一瞬、穏やかな表情の中に、凍りつくような冷たさが身を潜めていたことを、神官は見逃さなかった。そして恐怖した。わかってはいても――どれだけこの女性の身近に仕え、その隠された本性とやらを知っていても――その発露を目の当たりにすると、冷や汗が流れるのを抑えることができないのだった。
数十年前、今日と同じ儀式を体験し、神子の側近に抜擢され、不老長寿の肉体を与えられて奉仕の日々を送る彼女は、自分に言い聞かせた。
忘れるな。普段がどれだけ頼りなげであろうとも。
ここにおわす女性は、たった六人で世界を変貌させ、それを千年もの間維持している、恐るべき異能者集団の一角なのだ。
神官の気持ちを知ってか知らずか。
「今年の新成人は、何やら癖の強い人が多いようですから」
神子ことマリアナ=アルメイドは、優しげな笑みを湛えて言った。
扉が撥ね開けられる音とともに。