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放たれた殺意(5)

 全力で走った。猛烈な頭痛と吐き気に襲われながらも、カイラルは壊れた世界を駆け抜けた。どこかに感じられる死の気配を追って。それを止められると信じて。


 いつのまにか、馴染みのある建物が視界に入っていた。その裏手に、強い気配がある。教会裏の墓地に回りこんだ時、カイラルはその正体を知った。


 少女がいた。地面にへたり込み、恐怖に支配された表情をしていた。周囲を男達が囲んでいる。ロゼッタを襲っていた、あのごろつきどもだった。少女の服は一部が破り取られている。何をしようとしていたのかは明白だった。


「何やってんだお前ら」


 激しい呼吸を抑えながらカイラルが言う。巨漢は半笑いで返した。


「またお前かカイラル。つくづく鬱陶しい奴だ。で、何しに来た?」

「どけ。その女に用がある」


 その一言で二、三人は顔が青くなった。痛めつけてやったのが昨日の今日では当然の反応だろう。しかし親玉格の巨漢だけは、まじまじと相手を眺めた後、口元を歪めた。


「無理するなよカイラル。お前フラフラじゃねえか」


 見抜かれた。脳味噌は足りないくせに余計な勘ばかり冴える奴だ。何か言い返してやりたいところだがそれすらもきつい。何しろ立っているのもおぼつかない状態なのだ。余計なことは考えずに連中を叩きのめせばよい。


 とにかく始めようとシャベルを地面に突き刺し、ナイフを抜く。しかし今の彼は無力だった。五指に力が入らない。震える手からナイフが滑り落ちて転がる。乾いた金属音が消えた時、カイラルは己の置かれた状況を思い知った。


 最悪だ。


 それ見ろ、と哀れむような目を向ける巨漢。脅えていた取り巻きも、流石に身の安全を確信したのか安堵の表情を浮かべ、それは次々と嫌らしい笑みへ変貌を遂げる。


 最初に飛び掛ってきたのは小太りの男。先日脇腹を切り裂いてやったあの男だ。まだ傷が痛むのかぎこちない走りでのろのろと迫り、短い脚で蹴りを放つ。普段なら余所見をしていてもかわせるほどの足払いで、カイラルの体は容易く崩れ落ちた。男達が下卑た笑い声を上げる。


 一方的な私刑が始まった。地に伏せるカイラルに蹴りの嵐が叩き込まれる。それでも手加減しているように思えるのは、急所を狙ってこないからだ。たっぷりと時間をかけて嬲るつもりか。まったく、趣味がいい。


 後頭部を衝撃が襲った。まともな一撃が入ってしまったのか。一瞬意識が飛びそうになるが眠ることなど許されなかった。何か液体を頭に掛けられ、強引に現実へ引き戻される。臭い。道端の缶か何かに溜まった汚水のようだ。ロゼッタの時といい、水難の相でもあるのか。


 腐臭を堪えつつ目を開けると、男達の足の間から少女の姿が拝めた。その表情は怯えを通り越して呆けているようにも見える。それはそうだろう。何せ自分は二回続けて『助けに入ったはいいがあえなく返り討ちに遭う情けない男』を演じているのだ。さぞ滑稽に映っているに違いない。自分が嬲られている内に逃げてくれればまだ立つ瀬もあるが、巨漢を始め二、三人の男が逃げ道を塞いでいるのでそれも不可能。彼女はこの私刑を見届けるしかないというわけだ。これほどの屈辱があるか。


 男達はまだ飽き足らず責めを続けようとするが、制止する声があった。あの巨漢だ。


「待てよ。どうせならもっと面白くしよう」


 巨漢が手を振ると男達がどき、視界が開けた。その先にへたり込んだ少女がいる。無言で交わされる視線。目が合った瞬間カイラルは視線で訴えた。


 どうにかして逃げろ。


 それを引き剥がすかのように巨漢が少女の腕を掴み上げた。


「昨日といい今日といい、お前はちょっとばかし格好つけすぎだぜカイラル。たまには無様なやられ役になってもらわねえとな」


 嫌な予感がした。頼む。それだけは言うな。


 必死で祈るも虚しく、考えうる限り最悪の言葉が襲った。


「今からさっきの続きをやってやる」


 今度こそ、カイラルの顔から血の気が引いた。この外道は、自分の乱入によって中断されたおぞましい行為を再開すると言っているのだ。自分の目の前で。


 言葉にならない叫びを上げ、巨漢へと突進するカイラル。しかし野太い腕によって容易く返り討ちにされ、地面に叩きつけられたところを取り巻きの足が踏みつける。腹ばいの状態で背を踏まれ手足を踏まれ、身じろぎすら封じられる。気分は潰れた蛙だ。


 少女も手足を振り回して暴れる。それも巨漢にとっては蟻の抵抗で、もがく様子を楽しんでいるようですらある。


 じっくり見ていろと言わんばかりに、巨漢が少女の服を剥ぎ取りにかかった時である。


 陰から飛び出し、巨漢に踊りかかった者がいた。野太い腕に小さな牙を突き立てたそれは、相手が悲鳴を上げて腕を振り回しても放そうとしない。あの黒猫であった。


「このクソ猫!」


 二度もこの黒猫絡みで痛い目を見た巨漢の怒りは頂点に達した。力任せに猫を掴み剥がし、墓石へ叩きつけたものである。小さな体をしたたかに打った黒猫は、墓石を赤く染めながら、ずるずると地面に落ちた。


 飛び散った血が顔にかかる。


 まだ温かいそれは、やがて冷たくなってゆくだろう。どれだけ願おうと、その体が動き出すことは永遠にないだろう。彼がそうなるべき理由など、あるはずがないというのに。


 黒猫の姿と、あの幻の中の死体が重なる。


 カイラルは、一つの感情が膨れ上がるのを悟った。


「……す」


 怒り、苛立ち、情けなさ、悔しさ。そのいずれでもない、今まで否定し続けてきた最もおぞましい感情。それは言葉となって、口から漏れ出た。


「ん? 何か言ったか」


 巨漢がカイラルの頭をつかんだ。


「殺す。殺してやる」

「ほお、面白い。やれるもんならやってみろ」


 カイラルの頭に蹴りが叩き込まれる。それで大人しくなったカイラルを尻目に、巨漢は行為を再開しようと少女の方を向いた。


 と、他の連中が巨漢の背の方向を指差し、慌てふためき始めた。何がどうしたと振り向いた彼の目は、驚愕に見開かれた。


 黒い人間だった。ゆらゆらと蠢く炎のような体を持つそれは、墓地の中にたたずんでいた。


 一人、また一人と増える。地面をすり抜け、墓石の下から染み出てくる。瞬く間に数十人を数えた彼らは、寝床で狼藉を働く連中を逃すまいと迫ってきた。


 先程までとは一転、囲まれる側に回った男達は、情けない悲鳴を上げるばかりである。と、より近い異変に気づいた一人が、大慌てで飛び退いた。他の連中も、すぐに続く羽目になった。


 カイラルの体は、再び黒い霧に包まれていた。その背後に見える巨大な影。


 大鎌を携え、ぼろ布をまとった黒い炎の体。


 死神だ、と誰かが言った。


「何だ、何なんだてめえらは!」


 巨漢が懐から拳銃を抜いた。恐らくは、先日の報復のために用意したものだろう。しかし新たな得物も、その威力を発揮せずに終わった。死神に向けて続けざまに放たれた弾丸は、かすり傷一つつけることなく、黒い体に吸い込まれていった。弾切れを知らせる音がかちかちと響いていた。


 男達が何もできない中、カイラルは体を引きずってシャベルの元までたどり着き、それを杖代わりに立ち上がった。男達に向けられたのは、一筋の光も映らないほど真っ黒に染まった、死人の目であった。


 恐るべき視線を受け、巨漢はついに正気を失った。拳銃を捨ててナイフを抜き、獣のような咆哮を上げて突進した。


 黒い霧が収束する。黒く塗り上げられた右腕は、背後を守る死神のそれと同じものへ変貌していた。そこへ走る閃光。黒い稲妻が右腕から立ち昇った。


 右腕が持ち上げられる。死神が異形を相手にそうしたように。


 カイラルは叫んだ。ただ、殺意を解き放つために。


 ナイフを寸前でかわし、膨れ上がった右腕を、巨漢の顔へ叩きつけた。激突の瞬間、轟音とともに稲妻が弾け、すべてを黒く染め上げた。


 どれほどの時間がたったのだろう。黒い光が薄れてゆく。接したままの二人がそこにいた。黒い霧も死神も消え、右腕も人間のそれに戻っていた。巨漢はというと、頭を鷲掴みにされ引き倒されるような体勢ではあったものの、変化は見られない。


 カイラルがゆっくりと手を離し、一歩二歩と後退する。明らかにされた巨漢の顔を見て、取り巻きどもは悲鳴さえも飲み込んだ。それは、真っ黒に塗り潰されていた。


 固まった巨漢の体が、壊れた石像のように倒れる。


 地べたに倒れ伏した男は、二度と立ち上がることはなかった。

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