放たれた殺意(4)
少女は猛烈な喉の渇きで目を覚ました。薄っすら目を明けると、黒いものが目に入った。ちょこんと座ってこちらを見ている。少女の目覚めに気づいたのか、短く鳴き声を上げた。黒猫だった。先程と同じ猫だろうか。
背もたれ替わりの岩に手をかけて立ち上がる。少し休んだおかげで、多少は楽になっていた。遠くに壊れた世界が見える。まだ崩壊からは立ち直っていないようだ。どれほど眠っていたのかはわからないが、かなりの時間は経過しているはずである。よほど修復に手間取っているのだろう。いつまで同じ状況が続くのか。
ぼんやりと周囲を見回した少女は、映った光景に目を見張った。そこら中に同じような大きさの石が並んでいる。どれも四角い板のようで、表面には何か文字が刻まれている。前に花の置かれたものもあった。自分が何を寝床にしていたのかに気づき、少女は岩から飛び退いた。表面は泥まみれになっている。汚れていない服の端を使って清め、主とは方式が違うであろう祈りを捧げた。
墓地とその近くにある建物を含め、この周辺はほとんど被害を受けていないらしい。壊れた世界に囲まれてはいるが、かなり距離があるようだ。たまたま崩壊から逃れて、ぽっかりと空いた隙間というわけである。
少女が歩き出すと、黒猫は後ろについてきた。建物を観察しつつ、反対側に回ってみる。廃墟という感じはしない。屋根の頂点には十字架がついている。入り口と思われる大き目の扉が一つあった。鍵が壊れているらしく、半開きになっていた。その前で建物を見上げていると、空腹を知らせる音がなった。思わず周囲を確認すると、猫と目があった。首を傾げる猫。少女は頬を赤くした。
少女の体は休息を求めていた。浅い眠りだけでは足りない。水と食料も欲しい。建物を探ってみるべきか。黒猫はしゃがみこんで目を閉じている。好きにしろ、とでも言っているようだったので、そうさせてもらうことにした。
念のために剣を抜き、息を殺して中に入る。神経を研ぎ澄ませてみるが、人の気配は感じられない。一部屋一部屋確認しながら歩き回っていると、台所らしき部屋に出た。水道もあるようだ。我慢できずに蛇口をひねる。今の状況で機能するのか不安だったが、清潔な水が勢いよく出た。手を洗い、水をすくって口へ運ぶ。冷たい。水が喉元を通り過ぎると、生き返った心地がした。そのまま部屋をあさり、パンや燻製の肉、果物も発見。悪いとは思いつつ、すべて綺麗にたいらげた。
空腹が満たされると、もう一度眠ってしまいたい衝動に駆られた。何をする気にもなれなかった。ただ、時が過ぎるのを待つしかないと諦め始めていた。
ふと思い立って、肉や魚の燻製をいくつか持ち、入り口へ引き返した。黒猫は変わらずそこにいた。燻製を差し出してやると、しばらくもそもそとかじっていたが、やがて放り出してしまった。猫には塩気が強すぎるのかもしれない。
周囲の探索を再開する。猫はついてこなかった。来たのとは反対の方向へ進み、ぐるりと回りこんで墓地の側へと戻った。目を引いたのは、入り口以上に大きくしっかりとした扉だった。扉のある建物は、先程までいた場所とは別棟になっているようだ。扉を開けてみると、建物の他の部屋とは明らかに雰囲気の違う空間が広がっていた。
見る限り、そこは日常生活を送るための部屋ではなかった。整然と並んだ長椅子、高い天井、装飾された色ガラス窓。何かの儀式を行う場所かもしれない。様式は違えど、自分が成人の儀に参列したあの神殿に近いものを感じる。
その空間の一番奥に、一際存在感を放つものがあった。
十字架に磔にされた人間の像だった。恐らくは、この空間の象徴と思われた。知らぬうちに足が引き寄せられる。処刑された人間の像を飾る理由など、少女には思い当たらない。ただ、彼が罪人とは思えなかった。どこか、穏やかな神々しさが感じられるのだ。
間近で像に見入っていた少女の意識は、扉の開く音で現実に引き戻された。振り返ると、入り口に一人の女が立っていた。
「お久しぶりね」
女はそう言ったが、何と返せばいいのかわからなかった。こんな女は知らない。歳は三十前後といったところだろう。ほんのわずかに緑を感じられる黒髪に、眼鏡をかけている。服装からしてアルメイドの者ではない。知っているはずがないのだ。
だが、どことなく他人とは思えないような気配を、女は醸し出していた。
「まさかこんな形で再会することになるとは思わなかったわ。まあ、可能性はゼロではなかったのだけれど」
言いながら女は近づいてくる。少女は剣の柄に手をかけた。明らかな敵意を感じて。
「だからあなたがここにいることには驚かない。あの子を再び抱けたことにも驚愕しない。誰に感謝もしないわ。信じる神だっていないものね。自分の悪運も捨てたものではないと思うだけよ。ただ」
女の姿が消えた。少女は直感だけで横に転がった。わずかに遅れて、少女がいた場所の床が抉り取られた。穴の前にゆっくりと立ち上がった女の腕には、何かが渦巻いている。黒い風、とでも表現すべきものだった。少女は一目で悟った。それが、あの少年の授かった力と同質のものであることを。そして、女が死人の目をしていることを。
「あの子とあなたの、その後。それだけが理解できない」
剣を抜いた少女に、黒い風が襲い来る。弾けるような音と共に腕から放たれたそれは、長椅子をいとも容易く破壊した。少女はまたも直感を頼りに避けた。少女が転がる。直後にその場所が破壊される。そんなことを何度か繰り返した。女は動いてすらいない。わざと外しているのは明白だった。嬲り殺しにするつもりなのか。
「そういう兆候はあったのだけれどね。あの子は優しい子だもの。でも気は弱い方だったし、私や他の大人達の言うこともよく聞いていたから、行き過ぎることはないと思っていたのに」
長椅子が半分以上粉砕された時、少女は壁際に追い詰められた。右腕をこちらへかざす女の姿が目に映った。
「お前もあの女も、二人そろって私達の邪魔をする」
黒い風が渦を巻く。少女は窓を突き破り、外へと転がり出た。休む間もなく、教会の裏手へと駆け出す。勝てる相手ではない。壊れた世界へ逃げ込んで撒くしかない。だが墓地へと入った時、背後から黒い渦が襲った。竜巻は少女を吹き飛ばし、剣を奪い去った。落ちたのは遥か墓地の彼方だ。次を食らえばやられる。どうにか立ち上がろうとする少女。その体が、がくりと崩れ落ちた。疲労ではない。怪我のせいでもない。突然力が入らなくなったのだ。
それがあの黒い風によるものだと気づいた時には、動くのもままならなくなっていた。振り向けば、女がゆっくりと迫ってくる。少女はずるずると、這うようにして後ずさりした。
「ここで殺すのは容易いけれど、そしてその方が確実なのだろうけど、それでは私の気持ちが鎮まらないのよ。だから」
少女の背中に、墓石以外の何かが当たった。上を見ると、男がこちらを向いていた。一人だけではない。何人もの男達が、逃げ道を塞ぐようにして立っていた。自分がこれから何をされるのか。それに気づいた少女は総毛立った。
「私と同じ苦痛を味わってもらうわ、エレナの子」
抑揚のない声で言い残し、女は黒い旋風と共に消えていった。