放たれた殺意(2)
二人は逃げに転じた。あの数を相手になどしていられない。しかし重力の加護を受けた足でも、振り切るには至らなかった。いくらかは追いついてくるし、新たに立ち塞がるものもいる。
右から飛来する矢を迎撃した瞬間、獣の半身を持つ屑が反対側から飛びかかってきた。間に合わない。そう思った時、屑の体は両断された。割って入ったザトゥマの腕の一振りで、腹部をごっそりと持っていかれていた。
「あんたに死なれちゃ、俺が神父に疑われるからな」
高揚感に溢れた顔だった。キエルは目も合わせず、次の矢をつがえた弓使いの屑を重力の爪で握り潰した。
数だけではない。襲ってくる屑の質が上がっている。
先程は無慈悲な行為にただ怒りをぶつけたが、あの少女を手にかけたことは、それ以上の意味を孕んでいた。彼女がアルメイドの者だとすれば、壁守に真っ向から宣戦布告したようなものだ。壁守の大半はセカイ使い、例え末端であっても、殺害されること自体が異常事態と言ってよい。閉塞世界は今、その原因である自分達を排除しようとしているのだ。
止まるわけにはいかない。ロゼッタの報告があってから、もうかなりの時間が経過しているはずだ。すでに手遅れかもしれないが、それでも確かめに行かないと気がすまない。知ってしまったからには、見捨てるなどできるものか。
周囲が溶けかかった屑の残骸で埋まる。最大加速で突っ切ろうとした時、それは来た。
稲光が走り、雷鳴が轟いた。衝撃で地面が揺れる。思わず閉じた目をゆっくりと開いたキエルは、信じ難いものを見た。
鳥の翼とかぎ爪を持った屑だった。人の形をしてはいたが、頭部だけは大きく違った。胸から生えた猛禽の頭、その頭頂部に人間の顔があった。先程まで群れていた屑どもの親玉らしかった。周囲には時折、空気が爆ぜる音とともに電流が迸っている。
しかし、目を奪われたのは屑の姿形ではない。その嘴がくわえているものだった。
少女だった。服装からして、やはりアルメイドの者と思われた。嘴が食い込んだ胸から、血が滴り落ちていた。下半身は人の形をしていない。木炭のように黒く焼け焦げ、片足はすでに失われていた。
ザトゥマはようやくご馳走にありつけたような笑みを浮かべた。だが、それもわずかな間だった。ぐしゃりと音を立てて、屑が重力に握り潰された。目を逸らしつつかすかな声で、ごめんなさい、とキエルが言った。巻き添えを食った少女の亡骸は、原形をとどめていなかった。
「何故……」
口をついたのがそれだ。殺人鬼が目を奪われているのとはまったく別のことに、キエルは引き付けられていた。
今の光景は、あってはならないものだ。
障壁屑が壁守を襲うなど。これでは共食いではないか。免疫細胞が医者を攻撃しているようなものだ。キエルは背筋が寒くなるのを感じた。間違いなく、想像よりも遥かに悪い事態が起こっている。
ザトゥマが叫んだ。我に返ったキエルが状況を認識する一瞬のうちに、宙を埋め尽くさんばかりの稲妻が走った。肉塊に成り果てていた少女は、今度こそ完全に消滅した。
二人は無事だった。とっさに展開された重力の壁が雷撃を捻じ曲げ、防いでいた。際どかった。一瞬遅れていれば、少女と同じ運命をたどっていた。
屑の肉体は、まるで粘土のように蠢き、いくらもしないうちに元の形状を取り戻していた。
自分の番とばかりに屑が攻勢に出る。口から放たれる雷撃の奔流、そして全身からの放電。どれほど力の蓄えがあるのか、途切れることなく続いている。再び力を行使するキエル。屑は瞬時に圧壊したが、それでも雷撃は止まなかった。閃光の向こうでは、屑が当たり前のように再生していた。
キエルは舌打ちをした。厄介だが、根競べを挑もうと力を込める。
そこで、彼女の意識はぷつりと切れた。
それがまた繋がった時、キエルは崩れかけた体を支えられていた。腕を掴んでいるザトゥマが舌打ちする。ほんの数秒のことだったろう。それでも、重力の壁が消えなかったのは奇跡的だった。
キエルはようやく、自分に余力がまったくないことに気づいた。
これまでに無理をしすぎた。予定を上回る長時間の探索に、無数の屑との戦闘。完全な体力切れだった。
どうする。ここで攻撃に力を注げば、壁が消えてしまうかもしれない。一瞬でも穴が開けば、無数の雷撃がなだれ込んでくる。一巻の終わりだ。
それでも、このまま防戦一方というわけにはいかない。これではいずれ押し負ける。ならば、次の一撃に懸けるしかない。ここで決めるしかないのだ。このキエル=ヴェルニーが。
ザトゥマが何かを言っているようだが、耳は貸さなかった。手を屑の姿に重ね、それが相手を握り潰す様を思い浮かべる。キエルは意を決し、一気に手を握り締めた。
屑は平然としていた。重力の爪は不発に終わったようだった。最早攻撃を放つ余裕もないのか。一瞬、覚悟を決めた。しかしキエルは、何かおかしなものを感じた。力が放たれた感触は確かにあった。放ったはずの力が消えたかのようだ。
その理由は、すぐに知るところとなった。
轟音とともに稲妻が落ちた。屑の放ったものではない。闇を集めたような黒い稲妻だった。二人と屑を分かつように降ってきたそれは、重力の壁と雷撃をまとめて掻き消した。地面には、焦げ跡とは違う黒い傷が残った。いつの間にか、周囲には黒い霧が立ち込め始めている。
乱入者の気配を最初に察知したのは屑だった。猛禽の頭が向いた先を二人も見た。
黒い霧を纏いながら、誰かがやってくる。重い足取りで、何かを引きずっていた。すかさず雷撃を浴びせる屑。しかし一筋も届くことなく、黒い霧によって飲み込まれた。
屑は大きく飛翔すると、全身に稲妻を走らせた。それを口に収束させ、一気に吹きつけたものである。相手は稲妻に包まれた。が、いくらもしないうちに、黒い霧が稲妻の檻を破り始めた。それどころか、稲妻の奔流をたどりながら、屑へと向かっていくではないか。
両者を結ぶ線が半分以上黒く染まった時、さらなる異変があった。
雨である。稲妻や霧と同じく、光を吸い込むような色をしていた。それは局所的に、屑の周囲にのみ降り注いだ。黒い雨粒を全身に受けた屑は、途端にもがき苦しみだした。迸っていた電流が消え、稲妻の奔流も霧散した。押し合う相手がいなくなった黒い霧は、一気に屑へと迫り、その体を包み込んだ。
屑は落ちた。飛ぶ力を失っただけではない。その翼は虫に食われたように穴だらけになっている。頭頂部の人間の顔は、血の涙を流していた。
地面に叩きつけられた屑は、ぴくりとも動かなくなった。雨が上がり、黒い霧が晴れてゆく。
これで決着かと思われた時である。人間の顔が、大きく目を見開いた。途端、屑の体から、爆発にも似た雷撃が放たれた。わずかに漂っていた黒い霧を弾き飛ばした雷撃は、波濤となって翼を奪った相手に襲いかかった。無駄な足掻きに終わるとも知らずに。
稲妻の波濤が届くことはなかった。相手を包むように現れた何かが、それを防いでいた。
黒いぼろ布だった。正確には、それを纏った巨大な人型の半身であった。どこかぼんやりとして、実体があるのかは定かではない。ぼろ布が揺らめくと、その下からのっそりと腕が現れた。蠢く黒い炎が、かぎ爪を持つ腕の形を成している。白い骨が薄っすらと透けて見えた。
黒い腕が大きく伸び、鎌首をもたげた蛇のような姿を取る。屑はすでに、睨まれた獲物だった。蛇が襲う。死の鉄槌が大地を揺らした。
人型の姿が薄れてゆく。後には黒い爪跡のみが残った。屑は肉片一つ残さず、この世から消え去っていた。
まさしく死神の腕。
それを放った人物の姿が、今はっきりと見えてきた。
「カイラル」
変わり果てた息子に、キエルはすがり寄った。何を言っても答えは返ってこない。目には一切の光が宿っていない。探さないと、という声が漏れた。
「駄目よ、これ以上の単独行動は許さないわ」
折れるほどの力でカイラルの腕を掴む。その手に焼けるような痛みが走った。思わず飛び退いて手を見る。手の平が真っ黒に染まっていた。それはものの数秒で色あせていったが、カイラルの身に何が起こったかを確信させるには十分だった。呆然と立ち尽くすキエル。去ってゆく息子の背中を、ただ見ているしかなかった。
その間に割って入った者がいる。拳を握り、殺気を漲らせていた。
「何をする気なの」
「俺はあいつを連れ戻しに来てやったんだぜ。獲物が目の前にいるのに見逃すいわれはねえな。ま、手足を折るくらいは勘弁してくれや。それとも、ああなっちまった以上、ここで始末するかい? キエルさんよ」
「馬鹿言わないで」
本望が後者なのは疑いようもなかった。思わぬ相手との殺し合いを楽しみたいだけなのだ、この男は。だが、今は頼るしかない。
ザトゥマが構えを取ると、禍々しい閉塞力が溢れ出た。ぶつけられる殺気にも、カイラルは反応を示さない。ザトゥマはますます笑みを歪ませた。
握り固めた拳が放たれる。
だが、それはカイラルに対してではなかった。横から飛来した何かを迎撃したのである。相殺されて落下したのは、白い糸の束であった。閉塞力が消える。廃墟の陰から、人の頭ほどの大きさをした八本足の生物が這い出てきた。放ったのとは別の糸を引いている。
「ナクトの蜘蛛じゃねえか」
慣れた様子で、ザトゥマはかがんで手を差し出した。飛び乗った蜘蛛は、小気味のいい拍子で足の一本を叩き始めた。それが何十回と続くうちに、ザトゥマの眉根がぴくりと動いた。口を開きかけたのは、この場にいない蜘蛛の主に思わず何かを言おうとしたのか。蜘蛛が足を止めてすぐ、ザトゥマは渋い表情で立ち上がった。
「……どういうこった」
「何が起こったの」
「悪い、俺帰るわ」
突然の方針転換だった。殺気はすっかり消え失せている。キエルは再び息子の方に目をやった。もう、その姿は見えなくなりつつある。
「無理すんなよ。止められるなら、さっきとっくにやってただろうが」
見透かしたようにザトゥマが言う。悔しいが、その通りだった。当てにしていた男が戦いを放棄するのなら、自分にできることはもうない。
ザトゥマはすでに、蜘蛛の糸をたどって駆け出している。恐らくは出口までの最短距離だろう。キエルは動揺を隠すように、脇目も振らず走った。
当初の目的など、どうでもよくなっていた。息子は、恐るべき力に魅入られてしまった。自分には止めることなどできない。もう、何をしようとも構わない。ただ、無事に帰ってきてほしかった。
どうか、神のご加護を。
キエルはそう祈り続けた。