邂逅、悪夢にて(6)
シャロン=エルロイは壊れた街の中にいた。
夜中に閉塞力の波動を感じて目を覚まし、マンション最上階の窓から外を見ると、リバーブルグの方から青白い光が漏れていた。直後にミンツァーから連絡、リバーブルグで障壁崩壊らしきものが発生したとの由。受話器を放り出し、一瞬で服を纏って夜空に飛び出していた。車も電車も待っていられないのだ。全速力で飛行したのは久しぶりだった。着地した後、しばらくは動けずにいた。
指示を聞かずじまいだったが、恐らくは同じ行動を命じられただろう。障壁に最も精通しているのは自分なのだ。復興連盟としての仕事はミンツァーに、護衛は他の二人に任せておけばいい。あの男のことだから、指揮権は部下に渡してこちらに向かっているかもしれないが。
例の『穴』が再び開いたとの予想はあっていたが、状況は十年前と異なるようだ。上空からは、巨大な刃物でずたずたに切り裂いたように、細長い光がいくつも走っているのが見えた。そのうちの一つは川の南側、新興市街にまで及んでいる。街は大混乱だろう。
危険を承知で崩壊箇所に突入したのはいいが、移動は困難を極めた。歪んだ空間の中を歩き回るのは、道なき道を進むが如くである。時には急傾斜をよじ登り、つい先程通った場所が頭上に来ていることもあった。時空も物理法則も乱れに乱れている。十年ぶりに体験する異常事態に、体は悲鳴を上げていた。
一息入れようと壁にもたれかかると、頭上で動く影があった。わずかな足場を軽快に飛び回っている。こちらの姿を認めたのか、移動をやめて落下。音もなく着地した。
「あら、奇遇ですね」
隣国生まれを象徴する浅黒い肌。上司の昔馴染みにして好敵手の女性である。
「お一人ですか」
「仲間には入り口に近い場所を任せてあるわ。常人がこの空間にいるのは危険すぎる」
「でしょうね」
会話もそこそこにキエルは踵を返した。
「手伝ってちょうだい。巻き込まれた人がいれば救助するわよ」
「正気ですか。この状況下で歩き回るのは危険すぎます」
「じゃあ何であなたはここにいるのよ」
反論はできなかった。別の目的で行動していたことは、相手も百も承知だろう。だが、それを理由に今争うのは得策ではない。ハーウェイ・カルテルもこの女性も、完全に敵対するわけにはいかない存在なのだ。
今のところは。
「協力はしますが、私も運んでください。疲れてしまって」
「自分で飛べばいいじゃない」
「私の力は燃費が悪すぎるんですよ。そうでなくとも性質上」
「仕方ないわね」
ふわりと体が軽くなる。重力の負荷が軽減されたのだ。これによる機動性が、彼女の最大の戦力だった。シャロンの力でも似たようなことはできたが、体への、そして閉塞世界への負担が大きすぎた。この状況で使うのは危険極まりない。
「あまり時間はかけられないわ。迅速に行くわよ」
「息子さんは?」
探さなくていいのか、ということだった。この時間なら自宅にいたはずだ。場所から言って崩壊に巻き込まれている可能性は高い。しばらく間を置いてキエルは答えた。
「運がよければ生きて戻ってくるわ」
自分に言い聞かせるような、小さな声だった。
地道な捜索が始まった。建物の陰から瓦礫の下まで調べた。道のりは無限に等しく感じられた。元々の広さなどはすでに無意味だ。どこまで空間が引き伸ばされているか検討もつかない。どの時点で撤退するかは、周囲の空気と相談するしかなかった。その辺りの判断は、キエルよりもシャロンの方が優れていた。
「これ、ただ脆くなっていた障壁が崩れたわけではなさそうですね」
「その場にいた人間から言わせてもらうと、外側から突き破られた可能性が高いわ」
「十年前と同じと」
「恐らくね」
これは偶然なのか。考えている余裕など今はない。
一時間以上が経過したが、成果は上がらなかった。被害者がいないのならそれでいいが、手の届かない場所に行ってしまった者もいるかもしれない。詳しい被害は後で調べるしかなかった。
「待って下さい」
シャロンが動きを止めた。キエルもその意味に気づいた。空間が揺れている。遠くで黒い光が走った。
「嫌な感じです」
「急ぐわよ」
来た道を戻りかけて、キエルは気づいた。
呻き声がする。少し離れた建物の裏に走った。果たして、声の主はいた。
「しっかりしなさい」
息子と同じくらいの年の少年だった。顔色はすでに土のようだ。かすれた声で、助けて、と言っていた。
「大丈夫、助かるから」
励ましつつ手を握る。その言葉が嘘になるだろうということは、キエルにもよくわかっていた。溢れ出る血を止めてやっても、肉体の修復は不可能だった。それ以上に、彼は生命力を失っていた。忌まわしい力を浴びた気配が、キエルにもわかった。
「もう、だ、め」
「そんなこと言わないで」
「さい、ご、いい、お、れ」
「何? 何か言いたいの?」
震える口に耳を近づけるキエル。搾り出すように少年は言った。
「アルメ、イド」
少年の一生は、そこで終わった。
手を胸の上で組ませてやり、祈りを捧げる。できればちゃんとした場所に葬ってやりたかったが、それも叶わない。緑色の目と髪、見慣れない服装。明らかに別のセカイの人間だった。こちらのセカイに連れ帰るわけにはいかない。そして、彼が自分と同じ力の持ち主であることを、キエルは感じ取っていた。
少年の遺した最後の言葉を反芻する。聞き覚えのある単語だった。彼の外見と力がそれに結びついた時、一人の人間の名が導き出された。
「【森の魔女】マリアナ……」
限られた者にのみ伝わっているその名を、キエルは噛み締めた。推測が間違っていなければ、自分達のセカイは今、あの女のセカイと混ざっていることになるのだ。
ふと視線を感じて背後を見る。シャロンが立っていた。ひとまず撤退しようと言いかけて、キエルは異変に気づいた。
黒い旋風が巻き起こる。キエルの制止も聞かず、シャロンは飛んだ。しばらく進むと、今度は若い女が倒れていた。先程の少年と同じような身なりで、すでに事切れていた。放り出してまた飛ぶ。狭い範囲で何人か同じような人間を発見したが、皆死んでいた。
そして、一際開けた場所に出た時、彼はいた。
黒い服の青年だった。服のあちこちが破れ、傷を負っていたが、生きていた。気を失っているその顔を、シャロンは引き込まれるように見た。
何も考えられなかった。自ら封印した感情が激しく揺さぶられ、魂の奥底から突き上げてくるものがあった。それをどう処理すればいいのか、今の自分に方法がわかるわけもなかった。ただ、世界は二人だけのものとして閉じられていた。
数分後、キエルがたどり着いた時、そこには誰の姿もなかった。