邂逅、悪夢にて(5)
少女は安堵した。どうやら少年は無事だったようだ。
猫の鳴き声で目を覚ました時、圧しかかる何かに気づいて跳ね除けたが、転がったのは少年の体だった。あの黒い影からかばってくれたのか。息はしていたが、顔には血の気がなかった。少女にできるのは怪我の手当てと、傍にいてやることくらいだった。
幸運だったのは、あの女性の存在である。扉の開く音に身を隠したが、降ってきたのは女性の叫び声だった。どうやら知り合いらしく、慌てて少年を階上の部屋に運び込んでくれた。自分はそのまま、黒猫と並んで物陰で時を過ごした。
あれから小一時間も経っただろうか。今、二人が外を見ている。
「連絡を取るのも無理っぽいわ。電話が通じないのよ」
「冗談じゃねえ。キエルは何やってんだ」
「姉さんに腹立てても仕方ないでしょ」
「わかってるよ。とにかく俺は行くぞ」
「ちょ、待ってよ。あたし一人にする気?」
「お前さっき止めやしないとか言ってたじゃねえか」
「この有様見ても出てくとは思わなかったのよ! そんなにいい女だったわけ?」
「そういう問題じゃねえだろ! 確かにいい女だったけどな!」
いい女というのが自分のことだと気づいたのは、もう少し会話を拾った後だった。少女は体温が上がるのを感じた。顔は赤くなっているに違いない。
少年は自分を探すつもりのようだ。今すぐにでも顔を見せたいのを、少女は押し止めた。またしても関わりを持てば、少年を更なる危険に晒すだけだろう。
二人はしばらく言い争いを続けた。そのうち女性の声が小さくなり、涙声に変わった。少年は明らかに焦り始めた。先程までの剣幕はどこへやら、わかった、俺が悪かったと、なだめすかすのに必死という様子だった。こうなるだろうとは思った。この状況で女性を一人で残していくほど、少年は薄情な人物ではないはずだ。でなければ、あの時の行動が嘘になる。
その後に訪れた、少しばかり対象年齢が高めの空気は無視することにした。恥ずかしいというよりはイライラした。黒猫は退屈そうに欠伸をしている。
やがて、女性が部屋に引っ込んだ。出てきたのは十分以上経ってからだった。
「お待たせ」
「多いな荷物。余計なものは諦めろよ、いざってときに動けねえだろ」
「だって、全部必要なものなのよ」
相談の末、二人で脱出経路を探すことにしたらしい。それでいい。このままこの場所にいては、いずれ障壁が元に戻った時、どうなるかわかったものではない。
階段を下りてくる音がする。もうすぐここから立ち去ることだろう。その姿が遠ざかって、見えなくなったらもう終わり。ここにいる必要もない。
自分はどうすべきか。少年に助けられたこの命を、どう使うべきなのか。生き延びはしたが、これからなすべきことは思い浮かばなかった。
いや、最も安直で愚かな道はすでに見えていた。それは決して通ってはならなかった。少年のセカイにも、アルメイドのような壁の守護者は存在していることだろう。そうでなくとも、障壁が機能している限り、閉塞世界が自分という異物を見逃すはずはないのだ。自分はともかく、少年を巻き添えにするわけにはいかない。
自戒しつつも、少女は揺れていた。こんな機会は二度とやってこない。今ならまだ間に合う。大人しくしていれば、世界も見逃してくれるかもしれない――。
頭の中で反射する囁きは、大きさを増すばかりだった。
二人が行こうとしている。少女が決断を迫られた時、それは来た。
先に気づいたのは黒猫だった。突然起き上がってうろうろと歩き始め、やがて一声鳴いて一目散に走り去った。
次は女性だった。何あれ、と気味悪そうに言った。同時に走る閉塞力の波動。陰から覗き見て、少女は戦慄した。
それはゆっくりと近づいてきた。おぼつかない足取りでふらふらと。目の焦点は合っていない。薄汚れた服を身に纏い、巨大な血塗れの刃を引きずっていた。見た目は若い女だった。しかしそれが決して人間ではないことは、少女にははっきりとわかった。
人の形をした人にあらざるもの。人の形に引き伸ばされた魂の一欠片。
障壁屑だ。
誰だ、と少年が叫んだ。すでにナイフを抜き、女性を後ろ手にかばっていた。相手は止まる様子も見せない。言っても無駄だ、と少女は思った。恐らく大した力を持った屑ではない。まともな思考力など持ち合わせてはいないだろう。そしてその知能の低さとは逆に、生み出す暴力は常人の及ぶものではない。
「ロゼ、逃げろ」
「逃げるってどこへ」
「いいから逃げろ! あっちだ!」
叫びの直後、女性は駆け出した。少年が直感で指したのだろう方角へ。
少年は屑と対峙した。女性を一人にしてまで先に逃がしたのは、二人で逃げても追いつかれると思ったからなのか。だとすれば少年の勘も大したものだった。あの化け物、今はのろのろと動いているが、いざ戦いとなれば野生の獣を凌ぐ動きを見せるはずだ。誰かが食らいついてでも止めなければ、逃げられるだけの時間は稼げない。
それは即ち、残った方が犠牲になるということ。
「おい、一体何なんだお前」
まだ相手を人間と思っているのか、少年は対話を試みている。すると、屑が歩みを止めた。
「■■君」
かすれた声だった。顔は微笑んでいるようにも見えた。
「■■君でしょう」
「俺はそんな名前じゃ」
「大丈夫、あの女は私が殺しておいたから」
「だから何を……」
「安心して。もう私達を邪魔する者はいないわ。これでどこへだって二人で行ける。あなたと私で世界を作り変えましょう」
「薬でもやってんのかてめえは!」
言うが早いか、少年はナイフを放っていた。一瞬のうちに、屑の右腕に三本の刃が突き刺さった。
少女は思った。逆効果だと。
屑は呆けた顔で右腕を見、また少年へと向き直った。その体がわなわなと震えだす。
轟音と共に刃が振り抜かれた。地を裂き、建物を断ち割る。衝撃に吹き飛ばされる少年。壁に叩きつけられ、ずるずると滑り落ちた。
「どうしてよ、どうしてわかってくれないの。私はこんなにも必死なのに。こんなにもあなたのことを思っているのに」
屑は血の涙を流していた。刃を振りかぶり、止めを刺さんと迫る。少年は壁を支えにして立ち上がった。ナイフを構えるのが精一杯のようだった。
少女は剣の柄に手をかけた。やむをえない、加勢するしかない。姿を見せないために少年を見殺しにしては本末転倒である。少年に注意が向いている今ならいける。背後から飛び掛り、一太刀で首を刎ねる。閉塞の力を持たない自分だが、この剣なら屑にも通用すると信じた。地を蹴る自分の姿から転げ落ちる相手の首まで、完璧に思い描けた。一瞬で決めてやる。
しかし、五秒経ち、十秒が経っても、その時は訪れなかった。
剣が抜けない。足が前に出ない。
手が、体が震えているのが分かった。どうしたのだ。何を今更恐れることがある。自分はあの神子の首を刎ねたのだぞ。もう少しでシャルルにも同じことをしようとした。ユニとやりあった時も、こんなことはなかったではないか。
否。それは所詮感情のなせる業だった。一族への怒りと憎しみに任せ、自暴自棄に剣を振るっただけだ。今は違う。仕損じれば、自分は殺され、少年も死んでしまう。
これが恐怖というものか。
屑の刃が振り下ろされる。壁が紙のように切り裂かれた。少年からはわずかに逸れていた。いや、わざと逸らされたのか。屑の口元が歪む。楽に死なせる気はないらしい。
そんな窮地でも少年の目は闘志を失っていない。だのに自分は何だ。肝心な時に役に立ちもしない。ないよりはましと身につけた力さえ満足に振るえないのか。
再び刃が持ち上げられる。今度こそ少年を捉えるだろう。手足が飛ぶか。腹が裂かれるか。それともいきなり頭か。
動け、動けと念じても、体は言うことを聞かない。最早祈るしかなかった。自分は彼を救えない。誰でもいい。彼を助けてほしい。
声にならない悲壮な願いは、思いも寄らぬ形で聞き届けられた。
ぽたり、と頭に感触を得た直後、焼けるような痛みが走った。思わず手をやったが、何も異状はない。次は手の甲で同じことが起こった。空を見上げると、何かが右目に飛び込んできた。激痛と共に視力が奪われる。それが回復した時、少女の目に恐るべきものが映った。
辺りを埋め尽くす黒いもの。霧のようなそれは、少年を包み込むように漂っていた。屑は振り下ろしかけた刃を下ろし、飛び退いた。すでに歪んだ笑みはなく、脅えの色だけがあった。
黒い雷光が走る。それに続くものを見て、少女は咄嗟に身をかがめ、頭をかばった。激しい雨が降り出した。光を飲み込むような漆黒の雨が。
屑の全身を黒い雨が襲う。刃がその手から滑り落ちた。倒れ伏し、おぞましい金切り声を上げ、のた打ち回る屑。やがてその体が溶けるように崩れ始めた。黒い雨が上がった時、そこには赤黒い染みだけが残っていた。
黒い霧が晴れてゆく。頭を上げると、立ち尽くす少年の姿があった。何が起こったのか理解できていないようだった。少女も呆然としたまま、陰から一歩進み出た。少年がこちらを向く。その目の中に、少女は引きずり込まれそうになった。それは、死人の目だった。
恐怖に支配された少女は、すべてを忘れて逃げ出した。