邂逅、悪夢にて(4)
嗅ぎ慣れた匂いがする。きつい香水と、それに紛れて漂う女特有の甘ったるい香りである。どちらも自分にとっては不快な臭いだ。あの頭の悪そうな売女どもの顔を思い出させる。どうも昔から女絡みの話となるとろくな目に遭わない。母親を筆頭にまともな女が周囲にいないせいもあるだろうが。
そういえば今日も、妙な女を助けようとしたせいでひどい思いをした。揃いも揃っておかしな連中だった。演劇のような服を着ているし、冷や汗をかいたのは、あの突然の爆発だ。どうも小女の仕業のようだが、爆薬でも隠し持っていたのだろうか。直撃を受けたはずの男が無事だったのもわけがわからない。ただ、危険な存在であることだけは確かだ。ペリットを通じて、キエルに報告しておくべきだろう。
とにかく、逃げ出せただけでもよしとしなければ。危うい形ではあったが、死人を出さずに済んだのだ。後少し遅ければ、少女は自分の首を掻き切っていた。想像もしたくなかった。
冷静に思い返してみると、薄化粧の似合う結構な美人だった。最後は密着するようにして走ることになったが、朦朧とした意識の中で、香水のほのかな香りと汗の匂いが鼻をくすぐったのを覚えている。終始悲鳴一つ上げない度胸にも恐れ入った。もっともそのせいで声すら聞いていないし、名前もわからないままなのだが。
それにしても、自分も案外冷静だった。あの切迫した状況で、こんなことまで記憶に残っているとは。それだけ印象的な女だったということだろう。
ただ、何よりも自分を悩ませたのは、あの全身から染み出るような負の気配だった。荒廃した街を歩くこと数年、幸薄い人間など見慣れたつもりだったが、彼女はまったく別次元の何かを抱えていた。その正体さえわかれば、疑問のすべてが解決しそうな気がする。何故男を殺そうとしていたのかも、何故女に殺されそうになったのかも、何故自ら命を絶つことを受け入れたのかも。
起きたら話を聞きたい。純粋にそう思えた。
しかし、この場所はどうだ。いるだけで胸が焼けるようではないか。きっと昨日助けたあの娼婦のような、ろくでもない女の溜まり場に違いない。誰だこんなところに連れ込んだのは。もう限界だ、俺は出て行くぞ、俺は。
「あ、気ぃついた?」
声に驚いて跳ね起きる。カイラルの目に光が差し込んだ。
醒めきっていない頭で周囲を見渡す。薄汚れた壁に粗末な家具。酒の瓶やら何やらが乱雑に散らばった床。壁際に積み上げられた新聞紙の束にゴミ袋。実に生活感溢れる部屋だ。持ち主のずぼらさが透けて見える。
誰かが視界の端に映った。小走りでこちらに駆け寄ってくる。下着姿の若い女であると確認できた。この部屋の持ち主だろうか。女はこちらの顔を覗き込み、無遠慮に指で額を押したり頬をつねったりしている。文句を言ってやろうとすると、女の手が唐突に何かを放った。
「ぶばっ!」
コップの水を浴びせられたと気づいた時には、完璧に目が覚めていた。同時に、女の顔が視界に収まる。茶髪に青い目、典型的なこの国の住人の顔立ち。都合がいいのか悪いのか、記憶にある面ではないか。
「ロゼ」
女が頷く。間違いようもない、ロゼッタ=シーンその人であった。腐れ縁で付き合いが続いている幼馴染、さらに言えば昨日助けてやった娼婦である。この部屋も見覚えがあって当然。何度も出入りしているこの女の借間だ。
「あーよかった、マジで死んでるかと思ったし。あのねあんた」
「ちょっと待て」
左手でロゼッタを制止し、右手を顔に当てて考える。目は覚めたが記憶は混乱したままだ。見れば自分は上半身裸で、シーツをめくると下半身には辛うじて下着を身につけていた。加えて目の前には下着姿の女。どう見ても事後だが、そして実際そういう状況は何度もあったが、今はこの女を抱きに来た覚えなどない。
そう。
夜中に地震に見舞われ、家の外に出ると世界がおかしくなっていて、奇妙な連中に出くわし、少女を助けて二人で逃げ。
「まさかあの女はお前か?」
「は? 何言ってんの?」
打ち所が悪かったか、と頭をさすってくるロゼッタ。
「あんた、このアパートの前で倒れてたのよ。そりゃあ驚いたわ、顔面蒼白で気絶してるんだもの」
そこまで聞いて、ようやく思い出した。あの少女を連れて逃げている時、黒い影のようなものに包まれたのだ。記憶はそこで一方的に途切れる。スラムにいたはずが、新興市街まで逃げてきたというのか。
「俺の傍に女がいなかったか。変な格好した、ちょっと赤みがかった黒髪の」
「別に見てないけど。変な格好で黒髪って、ひょっとして禄峰人? やめといた方がいいわよ連中は。得体の知れないの多いし、いくらあんたでも」
確かに禄峰人は黒髪で、服装も連中独特のもの、顔立ちも自分達とは異なる異民族である。しかしあの少女の身なりは明らかに別物。顔立ちに至っては、禄峰人よりもむしろ自分達に近かったように思える。
夢だったのか。現実離れしていたとはいえ、あの生々しさが幻なのか。それならどこからが夢で、自分は何故ここにいるのだ。
記憶の奥底をさらっていると、ロゼッタが思い出したように机の上の何かを取った。
「これ」
赤いものが染み込んだハンカチだった。気づいて両腕を見るカイラル。右腕に包帯が巻かれていた。左腕はというと、傷一つない。
「包帯はあたしが巻いたわ。元々はこれが巻いてあったのよ。っていうかあんた、左腕の傷は? 綺麗さっぱり消えてなくなってるんだけど」
語るロゼッタも訝しげであった。それもそうだろう。あったはずの傷が消え、別の傷には誰のものとも知れぬハンカチが巻いてあるなど。ベッドから飛び降り、かけてあった自分の服を改める。右腕に破れた部分があり、血がにじんでいた。
カイラルは体が熱くなるのを感じた。すぐに服を身につけ、壁に立てかけられた愛用の得物を掴む。薬箱はなくしたが、これだけは一時も手放していなかった。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「人探しだ。お前は連盟に連絡して、人手を出してもらってくれ。見慣れない格好の連中がいたら、とりあえず捕まえろってな」
あれが夢でないとすれば、少女も、他の連中もこの街にいることになる。鉢合わせたとすれば最悪だ。そうでなくとも、スラムをうろついていれば何が起こるかわからない。
「止めやしないけどさ、無理だと思うわよ」
ロゼッタの言葉を背中で聞きつつ、扉を開くカイラル。そのまま飛び出そうとして、数秒間静止。ゆっくりと扉を閉め、深呼吸した後再び開ける。
「なあ」
「何?」
「やっぱり夢なんじゃないのか、これ」
「そうであってほしいんだけどね」
扉の外には、壊れた世界が広がっていた。