邂逅、悪夢にて(1)
手頃な石があったので腰掛ける。しばらく歩いたが人の気配はないし、下手に動かない方が懸命だと判断した。何よりひどく疲れていた。腰に下げていた剣を外し、抱かかえて目を閉じると、ため息が漏れた。これが無事だったことだけでも喜ばないとやっていけない。
確実なのは、あの場所にいた全員が【障壁崩壊】に巻き込まれたということだ。今頃は、神子直属の部隊が修復に当たっているだろう。自分もいずれは発見され、村へ連れ戻されることになる。それまではただ、大人しく待っていればいいだけだ。
しかし。
戻って、どうするのか。
少女は立ち上がった。じっとしていると、余計なことばかり考えてしまう。結局、休憩もそこそこに、辺りをうろつき始めた。そうでもしていないと、不安に押し潰されてしまいそうだった。
灰色と黒の歪んだ縞模様が波となって流れる空間に、少女のいる地面は浮いていた。どこが底なのか、あるいはどこが天井なのかすら判別できない。一歩足を踏み外せば、無事でいられる保証はない。必然、歩みは慎重を極めた。
周囲には見慣れない建物が並んでいる。多くは亀裂が走り、全壊しているものもある。障壁崩壊の影響かと思われたが、近づいて見れば傷口が随分と古い。泥やら何やらが付着し、長い間風雨に晒されたことが伺えた。
かすかな物音がしたのはその時である。はっきりとは言えないが、人の足音のようにも聞こえた。とっさに壁の陰に身を隠す少女。いるのが誰であれ、この状況で遭遇するのは避けたかった。同族と居合わせるのは気まずいし、何より『向こう側』の人間と鉢合わせる可能性も否定できないのだ。
ともあれ相手の姿を確認すべく、半壊した壁の穴から目を出した瞬間、少女の顔が凍りつく。
シャルル=アルメイドがそこにいた。
仰向けに横たわり、身動き一つしない。気を失っているようだ。崩壊に巻き込まれた時に頭でも打ったのだろうか。衣服は破れ、所々肌が覗いている。
驚きに身を固まらせた少女だったが、やがて奇妙なことに気付いた。服の破れ目から白いものが見える。周囲を警戒しつつ近づき、服を捲り上げてみると、正体がわかった。包帯が丁寧に巻かれているのである。そういえば、手足も綺麗に揃えられているではないか。
自分以外の誰かが、先に来て手当てをしていったのだ。先程の物音は、その人物のものだろう。しかし、儀式の場にいた者だとすれば、何故都合よく包帯などを持っているのだろうか。それに、こちらの気配に気付いたかのように姿を消したのも気にかかる。自分と関わり合いになるのを恐れたのかもしれないが、負傷した宗家の嫡子を放り出すほどのこともあるまい。そうなるとやはり、『向こう側』の――。
そこまで考えて、少女はある事実に気付いた。
誰もいない。自分と、気絶したシャルルを除いては。
少女の手は、我知らず剣の柄へと伸びていた。ほんの少しだけ刃を引き出す。抜き放とうとしたが、それ以上はどうしても動かない。鼓動が高鳴ってゆく。もう、男の首しか目に入っていなかった。
やめろ。何を考えている。少女は自分に必死で言い聞かせた。自暴自棄になるな。そんなことをすれば、今度こそ取り返しのつかないことになるぞ。
別の少女はそれを押し退けた。取り返しなど、とうにつかなくなっている。あの豚の首を刎ねた時、自分の運命は決定されたのだ。毒を食らわば皿まで。こうなれば、自分を縛り付けてきた鎖を、断ち切れるだけ断ち切ってやる。
やめろ。やめるのだ。
やれ。やってしまえ。
「おい」
少女の自問自答は、背後から飛んできた声によって打ち砕かれた。
「何を不審な動きをしているんだ貴様は」
ユニであった。怒りと軽蔑の混ざった目でこちらを見つつ、ゆっくりと近寄ってくる。少女は飛び退くようにシャルルから離れた。焦りよりも気恥ずかしさが先に立った。今の自分は悪戯を見咎められた子供そのものだ。こんな感情剥き出しの女の気配など、普段なら絶対に見逃しはしないというのに。
「どうせ『言えない』のだから代わりに言ってやる。殺す踏ん切りがつかなかったんだろう」
顔は少女へ向けたまま、右の拳をシャルルの方へ伸ばした。そして半回転と同時に手が開かれた瞬間、シャルルに重なるようにして爆発が起こった。
少女はとっさに両腕で顔をかばった。煙と土埃が舞い上がる。それらが晴れた後ろには、黒く塗り潰された空間があった。爆発の余韻が去ると、黒の壁はふっと消えた。再び姿を現したシャルルは、微動だにしていなかった。
「見ての通りだ。気を失った程度では、シャルル様の空間障壁は解除されない。貴様も知っていることだろうが」
傷を負ったのは、それが通じなかったから。セカイそのものの崩壊に巻き込まれては、空間の衣も用を成さなかったということだろう。しかし衣それ自体が失われたわけではない。少女の力では、やはり、傷一つ付けることも叶わないのだ。
「この状況にかこつけて寝首をかこうなどとは、浅ましいにも程があるな。まったく恐れ入る。……しかし」
熱波が駆け抜けた。岩が焼ける臭いがする。立ち昇る陽炎がユニの姿を揺らめかせた。少女の目には、小女が恐ろしく巨大に映った。
「どうやら、それは私も同じのようだ」
火の色の目が殺意に染まっていた。
殺される。
恐らくは、灼熱の業火で塵も残さず。
ユニは右腕を伸ばした構えを取りつつも、じりじりと後退した。逆襲の可能性を完全に封じるつもりのようだった。少女は飛び道具など持ち合わせていないのだ。一息で飛び込めない距離では、焼き殺されるのを待つのみである。
ここで果てるのか。どことも知れない場所で、こんな女の手にかかって。
せめて一太刀。少女の手が締まったのを、ユニは見逃さなかった。再び熱波が放たれ、少女の接近を阻む。目も開けていられないほどの熱気の中で、少女はそれでも地を蹴った。ユニの右腕が火を纏う。襲い来る炎に身ごとぶつかろうとした、その時。
「――痛っ!」
噴き出す寸前の炎が掻き消えた。右腕に、ナイフが突き刺さっていた。
「何やってんだお前」
声のした方を二人が見る。
正体不明の第三者がそこにいた。