表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/124

見捨てられた街(8)

 数分後。


 雨のスラムの只中に、ミンツァー一行の姿を見出すことができる。


 傘など差していないが、どういうわけであろうか、服には水滴一つ付いていない。


 ただ、よく目を凝らせば、その頭上に薄い膜のようなものが浮いているとわかるはずだ。白っぽい半透明の、何重にも編まれた細かい網が。


 四人は数メートルの間隔を保って歩いていた。先頭を少年、殿を薄ら笑いの男が務め、残る二人が間に挟まれている。雨空の下を悠々と歩きながら、ミンツァーは脇にいる女に問いかけた。


「どうだった」

「何が」

「あの男の様子だ」

「問題なし」

「本当に?」

「何度も言ったでしょう。破壊された魂が元に戻ることなど有り得ないわ」

「どの口がそんな台詞を吐けるんだ。記憶を失っているとはいえ、生活に支障をきたさない状態にまで回復しているんだぞ。詰めが甘いんだよ君は」


 女は答えなかった。浴びせられる愚痴と嫌味に対して適当な受け答えはするものの、まともに相手をしてやろうという気配がない。その様子を汲み取る限り、とてもミンツァーの部下には見えなかった。声にはほとんど抑揚がなく、前を向いたまま、横から入ってくる声に無機質な反応を返している。まったく光の宿っていない両目は死者のそれを思わせた。


 痛いところを突かれてはいた。あの男は間違いなく、廃人どころか魂が砕ける直前にまで追い込んだはずだ。逃げられはしたが、いくらもしないうちに死に至るに違いなかった。が、予想は裏切られた。丸一日経っても生命の糸は切れず、カイラル少年を介してキエルに拾われる運びとなった。しかも、数日後には意識を取り戻している。


 あの男の力を見誤っていたのか。


 それとも、閉塞世界に仇なす一族の血によるものか。


 あの、ヴェルニーの血統の。


「とにかく、記憶に関して言えば、回復の可能性はないわ。それだけは安心して」

「本当に?」

「本当に。何より、今更彼を始末する方が、何かと面倒ではなくて?」


 方便であった。あの男には、まだ生かしておく価値がある。失敗から生まれた思いもよらぬ副産物として、経過観察をする必要がある。そのためには、少し離れたところで一人歩きをしている今の状態がもっともよい――。


 そう考えを巡らせつつ、十字路に差し掛かった時である。


 前方と右から、数人の男達が現れた。次いで、一斉に火薬の爆ぜる音が響く。逃げ道を完全に塞いだ十字砲火により、数十発の弾丸が襲いかかってきたが、一発として目標に到達することはなかった。それらはすべて、半透明の物体に絡め取られ、空中に静止していた。先程まで雨傘の代わりを果たしていた、あの白い網である。


 これを皮切りに、廃屋の陰からぞろぞろと男達が現れ、周囲を囲みにかかった。単なる金目当てのごろつきではあるまい。奇襲に失敗したことで警戒を強めたのか、闇雲に踊りかかってくる様子は見られない。


「一応聞いておくが、どこの馬鹿の回し者だね。相手によっては、相応の処置を取らねばならないのでね」


 緊張感の欠片もない声でミンツァーが言った。当然返事などなく、襲撃者達はじりじりと距離を詰めてくる。はン、と鼻を鳴らし、軽蔑の目を向けるミンツァー。まったく物怖じしないその様子に、襲撃者達の方に戸惑いが走った。


「仕事だ。一分以内に片を付けろ」


 ミンツァーの命に少年と女が身構えたが、薄ら笑いの男は両手を振った。


「俺はいいや。濡れるし」

「給料分くらい働きたまえ。何のために連れて来ていると思ってる。さっきも仕事を放り出してここに遊びに来た挙句、一人殺したんだろうが」

「へいへい、わかりましたよ」

「貴様ら何を――」


 たまらず襲撃者の一人が言った時である。


 突如、白い奔流が彼へと襲い掛かった。それが粘着性を帯びた糸の束であると気付く暇さえ、彼には与えられなかった。一瞬にして顔を覆われ、全身を絡め取られ、尋常ではない力によって骨を砕かれていた。


 糸束の端は少年の手に握られている。少年はそのまま、男の死体ごと力任せに糸を振り回した。鈍器と化した仲間の死体に衝突され、二、三人の男達が吹き飛んだ。建物の間の狭い道を踊り回った死体は、仲間と壁と地面に幾度となく打ち付けられ、折れた骨が肉から突き出ていた。右からやってきた連中は、それで終わった。


 一方薄ら笑いの男は、振り回される死体を避けつつ、前方の敵へと歩み寄った。地を蹴って躍りかかるような真似はしない。ポケットに手を入れ、にやけ面を隠そうともせず、襲撃者へとにじり寄る。


 再び銃弾の嵐が吹き荒れたが、回避も防御も必要なかった。予想だにしなかった事態に平常心を奪われた襲撃者達は、狙いを定める余裕さえ失っていた。兆弾が飛び交い、そのうちの一発が男の頬を掠めた。たらりと流れた血を指先で拭い、ぺろりと舐め取る。同時に浮かんだおぞましい笑みに、襲撃者達は完全に戦意を喪失した。


 我先にと背を向けて駆け出す襲撃者達。逃げ遅れた一人が餌食となった。男に腕を掴まれ、力任せに引き戻され、地面へ叩きつけられた。命ばかりはと半狂乱の態で叫ぶが、それは男の加虐心を煽るだけであった。男は嬌声を上げつつ、もがき苦しむことのみが許された犠牲者を、ただひたすら蹂躙し続けている。


 殺戮に興じる男の脇を通り抜ける者があった。まったく、と呟く女である。手に入れた玩具に男が夢中になっている以上、残り物を自分が片す他ないと判断したのか。


 女の周囲には、黒く長い髪のようなものが渦巻いている。あれは何かと問われて即答できる者は少ないだろうが、あえて表現するとすれば、黒い風だ。風を黒く塗り潰せば、ちょうどあのように見えるだろう。


 女が右手を突き出した。黒い風は女の手元を離れ、逃亡者達の下へ疾走し、一斉に絡みついた。そして容赦なく締め上げる。苦悶の表情の逃亡者達。だがそれも束の間のこと、彼らの中で何かが弾けた。次の瞬間には風が霧散し、彼らの体は地面へと落下した。そして二度と起き上がることはなかった。


 死体は皆、呆けたような表情で涎を流し、失禁している者もいる。かといって、少年の糸に絡め取られた連中のように、骨を砕かれているわけでもない。薄ら笑いの男が弄んだ死体のように、血を吹き出しているのでもない。五体満足のまま、彼らは天に召されていた。そしてどういうことか、ほとんど動かずに襲撃者を圧倒した女の側も、荒い呼吸を隠せずにいる。


 息を整えながら女は思った。


 こんな馬鹿げたことに時間を費やしている場合ではない。一刻も早く、あの『穴』への到達を。そしてその先へ、懐かしき故郷への帰還を。


 可能性はすでに尽きているかもしれない。それでも、やってみるまでは諦め切れなかった。かつての野望の達成など、今更望むまい。計画が瓦解し、魔女の血族としての肉体も失った今、自分が纏えるのは忌まわしき死の風のみ。魂は刻一刻と蝕まれ、自ら封じた感情は二度と蘇ることはあるまい。再び戦いを挑んだところで、勝機がないことは目に見えている。


 しかし。あの愛しき子の姿だけは。


「ナクト、始末してくれ」


 ミンツァーの言葉に、少年が無言で従った。少年の衣服の隙間から、がさがさと無数の何かが這い出てくる。八本の足を持つそれらは、黒い絨毯となって死体を覆い隠し、その鋭い牙を突き立てた。


 数分後、四人が去ったその後には、おびただしい血の痕だけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ