見捨てられた街(4)
カイラルという少年が生きる目的を死ぬことと定めたのは、彼が十五歳の時分である。
リバーブルグに生を受け、崩壊事件によって隣の都市へ移住。ろくに通ってもいなかった初等学校を卒業した後、彼は進学を拒んだ。母親も特に反論もせずにそれを認めた。家を出て一人暮らしをすることも許した。当面は自分の仕事の手伝いをさせるという条件付きで。
それが奇行の始まりであった。家族と共に再びリバーブルグの土を踏んだ彼は、何かにつけてスラムを徘徊するようになった。さらには廃墟の一つを自宅と決め、勝手に住み着いた。当然、揉め事に巻き込まれることも多くなる。命の危機も何度かあった。だが、その度に驚異的な身体能力を発揮して生き延びてきた。
今日のような状況は数知れず。袋叩きにされようが人質を取られようが生還し、襲ってきた相手は例外なく制裁を受けた。彼に敵意を抱く人間も、好意を寄せる人間も数多くいる。トレードマークのシャベルは一際彼を目立たせ、良くも悪くも界隈を代表する人物として名を売ってきた。
常に危険の中に身を置く彼を、ある者は勇気ある少年と賞賛し、ある者は死にたがりの若造と揶揄した。それはどちらも正しい。他者の視点で彼を観察する限りは。
カイラルは再びバリケードを越え、あてもなくスラムを歩いていた。ここより北は、文字通りの無法地帯だ。復興連盟の支配も及ばない場所だが、それでも連盟の私兵部隊は時折見回りに現れるし、住人に立ち退きの交渉なども行なっている。復興前線は、ほんの少しずつではあるが、北へと進行しているのだ。
カイラル自身、ハーウェイ・カルテルの末端である。今は復興連盟の一員でもあるということだ。本来、下っ端が何の目的もなくうろついていい場所ではない。しかしカイラルは、巡回役として単独行動をある程度許可されていた。それをいいことに仕事をサボることも多かったが。
やり場のない虚無感を抱えていると、突然、足の裏に妙な感触を得た。慌てて足を持ち上げ、飛びのくカイラル。踏んだのは、片方だけの革靴であった。
そしてその先に、雨で滲んだ赤い染みが点々と続き、横道へと曲がっている。記憶が確かなら、この先はすぐ行き止まりになっていて、ゴミの山が出来ていたはずだ。
嫌な予感がした。そのまま去った方がいいと思いつつ、恐る恐る横道を覗き込む。
果たして、そこには転がっていた。かつて一人の男だったものが。
元人間は、ゴミの山にもたれかかっていた。腕があり、胴があり、脚があり、頭があった。どれも千切れてなどいない。切り傷に擦り傷などは何ヶ所もあったが、人間としての形状は保っている。しかしその腹部だけは、正常な形を既に失っていた。
一体何度、どれほどの力で刺されたのだろう。赤黒い肉の塊となった腹部からは、おびただしい量の血が溢れ出ていた。かき回す、という表現がしっくりきた。この男ははらわた腸をかき回されて死んだのだ。情けの欠片もない虐殺、惨殺である。
死者の目は、見開かれたままだった。自身を殺した人物の顔が焼き付いているであろう両目が、何かを訴えるように見つめてくる。少なくとも、カイラルにはそう思えた。
「……う、ぐ」
カイラルは、卒倒すまいと自身を奮い立たせるのが精一杯だった。挽き肉と化した腹部よりも、その視線の方が何倍も恐ろしかった。この死体は今、何を思っているのだろう。自身の死を知らず、助けを請うているのか。それとも、目の前にいる少年を殺人者と思い、憎悪をぶつけてきているのか。
どちらにしても無意味だ。お前はもう手遅れだし、自分は犯人ではない。だから。
「見……るな」
うろたえながらも腰をかがめ、懸命に手を伸ばす。震える指先が触れると、死者のまぶたは容易く落ちた。そして後ずさるように死体から離れる。たったそれだけの行為にも、心臓は疾走直後のように震え、脂汗が全身から噴出してきた。
そんなカイラルが次に取った行動を、誰が予想しえただろうか。
舗装が剥がれて土が剥き出しになっている地面に、シャベルを突き立てたのである。そして何かに取り憑かれたかのように地面を掘る。石が多く、シャベルが何度も弾かれるのもお構いなしに、無我夢中で掘る。
墓穴を。
散々苦労して、穴の大きさが人間の頭程度になった時である。
「人殺し!」
甲高い女の悲鳴でカイラルは我に返った。
「違う、俺じゃな――」
とっさに弁解をしようと振り向いて、カイラルは気づいた。背後の殺気に。
彼のもう一つのスイッチが入った。感覚が研ぎ澄まされ、体感時間が極限まで遅くなる。背後にいるであろう襲撃者の動きが手に取るように分かる。細長い何かがこちらに向けられようとしている感覚。以前にも何度も感じたことがある。銃だ。その射線だ。
あの死体をこさえた犯人が、ゴミ山かどこかに潜んでいたのか。普段の調子であれば、その存在にも気付けただろう。しかし今は、意識が死体の方を向いてしまっていた。
判断は一瞬だった。上着に仕込んだナイフを振り向きざまに投げる。同時に地を蹴った。相手がナイフをかわすのを見届けながら、壁を走る。再び銃口がこちらを狙って動いたが、もう遅い。
シャベルを振り上げ、落下と同時に叩きつける。一切の躊躇はなかった。ただ、目の前の脅威を排除しようとする思考だけが、体を支配していた。
だから、奇跡的だったのだ。殴打の瞬間、相手の顔に気づいてシャベルを逸らせたのは。
鈍い音を立ててシャベルが地面を打ち据えた。金属の振動が腕を伝わる。頭を砕かれずにすんだ相手は、にんまりと笑って両手を挙げた。知った男の顔だった。
「お見事」
大通りの方から女の声がした。聞き覚えがある。そういえば、先程の悲鳴はこの声ではなかったか。目をやると、浅黒い肌の年増が銃を片手に近寄ってきた。やられた、とカイラルは舌打ちした。
「でも、こっちの勝ちだけどね」
ばん、と銃声を口にする女。その後ろから、数人の男達が姿を現した。
「ま、サシの喧嘩としては合格点なんじゃない? いい反応してたわよ」
「……気は済んだか? キエル」
しおれたような声を漏らすカイラルの前には、半月ぶりに会う母親の、にこやかな顔があった。
キエルは部下の私兵達とともに巡回中のようだった。これもこの女の仕事の一つだ。
「まったく、隙だらけで笑いそうになったわ。すぐ側まで来てるのに、悲鳴上げるまで気づかないんだもの」
小馬鹿にしたような言い方が、かえって重く響いた。それだけ、今のカイラルの不調が尋常ではなかったということだろう。手練とはいえ、この人数の接近を許すとは。
「この分だと、あんたの葬式をするのもそう遠い日じゃなさそうね」
「ああそうだな」
「冗談よ。お願いだから、死ぬのはせめてママの後にしてちょうだい」
銃をくるくると回すキエル。年齢通り成熟した外見の彼女だが、朗らかに笑っている時の顔は随分と若く、人が良さそうに見える。
しかし。嫌らしさの欠片もない笑みに騙されてはいけない。この女こそ、ハーウェイ・カルテル最高幹部の一人であり、復興連盟きっての名物理事なのだから。
「そういえば、さっきロゼが面倒かけたみたいね」
「あいつのことはいい。俺も不注意だったよ。それより襲ってきた連中を何とかしてくれよ。最近、ちょっと手抜きじゃねえか」
「あー……痛いとこ突くわね。理事会でも相当揉めたわ」
一転、表情を曇らせ、銃身でこつこつと頭を叩くキエル。単に妹分が心配だというのではない。組織内の立場からしても、彼女にとっては見逃せない事実なのだ。
幹部と言ってもデスクワーク担当などではない。キエルの主任務は街の治安維持、必要とあらば殺人も厭わない、筋金入りの武闘派なのである。それも、自ら部下を率いて街に繰り出すことを好むという、女傑と呼ぶに相応しい実力者だ。
隣国クラックスの少女兵士だった彼女は、軍医として都市同盟軍に従軍していたダウルと、戦火の中で出会ったという。何故異国の、それも目下戦争中の国の軍人と親しくなり、養子にまでなったのか。詳しいことは話そうとしないが、彼女が復興連盟の貴重な戦力となっていることは確かだ。単独の戦闘力でも指揮能力でも、キエルを超える人間は連盟内にいまい。
「ま、総代は手を緩めるつもりもないみたいだし、どうにかするわよ。変に焦っても仕方がないわ」
「だろうな」
「それより」
キエルは銃を収めると、カイラルの持つシャベルを奪い取った。それを力任せに地面へと突き刺し、息子の両肩に手を乗せ、
「埋めるな、って言ったわよね? 墓地以外の場所に」
ずい、と顔を寄せてきた。視線の先の時空が歪むのではないかという眼力で睨まれ、両手は万力の如く肩を締め付けてくる。
カイラルはようやく思い出した。そもそも自分は、他人のことをあれこれ言える立場になかったのだ。現行犯である以上、今ここで、しっかりとお叱りを受けねばならない。道に死体を埋めようとしたことについて。
これが初めてというわけではない。これまでに何度も同じようなことがあり、明るみに出る度に仕置きを受けた。知られずに済んだものを含めれば、カイラルが『埋葬行為』に及んだ回数はかなりの数に上る。まだ息のある人間を生き埋めにしかけたこともあるほどだ。本人とて望んでやっているのではない。道端に埋めるなど、狂人の所業であるという自覚はあった。
だが、カイラルは死体を埋める。埋めずにはいられないのだ。
「あんまり不手際が続くようなら役目を降りてもらうわよ。言いだしっぺはあんたなんだから最後まで責任持ちなさい」
厳しい言葉で諭され、カイラルは黙ってうなだれるしかなかった。
スラムに発生する死体の始末は復興連盟の役目である。街の正常化を目指している以上、例え浮浪者のものであろうとも、死体を放置したり適当に埋葬するわけにはいかなかった。治安的にも衛生的にも倫理的にもだ。故に、死体の処理と埋葬、墓地の管理などを担当する役職も存在している。
その【墓守】の一人を務めながら、この少年が死体を異常に恐れているという事実を知る人間は限られていた。
意気消沈する息子を腕組みして眺めるキエルだったが、ふと異状に気付いた。カイラルの顔が、ほんのわずかだが苦痛を訴えた気がした。右手が左腕に添えられている。
「怪我してるの?」
「大したことない。さっきダウルに治療してもらった」
カイラルはシャベルを引き抜くと、すねたように背を向けた。
「ごめんね。変な悪戯なんかするんじゃなかったわ。すぐに止めてあげればよかった」
「別にいい。こっちも確認ができたからな」
自分は人を殺しうるという事実を、である。
先程相手を殺さずに済んだのは運がよかっただけだ。普段の心がけ云々など問題にならない。我を忘れたとき、手心を加え損ねたとき、あるいは偶然の事故。事情の如何を問わず、殺人に至る道は間違いなくある。
死体を恐れながら、自らの手でそれを生み出してしまったとき、自分はどうなるのか。
考えただけで、カイラルの魂は軋むのだ。
そんな息子の背に、キエルはかけるべき言葉を見出せず、仕事に戻る他なかった。
先程埋められかけた死体はといえば、部下達の手に委ねられていた。調べるべきは死因と素性である。服の裾をまくり上げ、前を開いて全身をざっと確認。人相を見、手がかりになる持ち物がないかポケットをまさぐる。
「どう?」
「腹の傷が致命傷と見て間違いありませんね。他に大した外傷は見当たりません」
「持ち物は?」
「ポケットには小銭一つ入っていません。ただ、簡単な素性はわかりました。一ヶ月前に名簿に登録され、写真も載っています」
部下の男は手にしたファイルを開き、キエルに見せながら言った。開かれたページには、殺された男と思しき人物の情報が、写真付きで載せられている。
「ん、やっぱりね。顔に見覚えがあったもの」
大分痩せてるけどね、と付け加えるキエル。
住民名簿の作成も、キエル一派の重要な職務の一つだ。住民の入れ替わりの激しいこの街では、いくら努力したところでいたちごっこにしかならなかったが、情報があるに越したことはない。名前、外見的特徴、かつての身の上、性格、生活手段まで、わかる限り何でも載せる。写真が載っているということは、この男は復興連盟に対して協力的であったと言えるだろう。人によっては名前すらも教えたがらないのだから。もっとも、それがどこまで信用に値するのかは、この先永久にわかるまい。
写真の中の男は、今よりも幾分ふっくらとしている。疲れた顔をしているが、希望を完全には失っていないように思えた。何らかの決意を抱いてここへやってきたのかもしれない。その果てに迎えたものがこの有様とは。
「キエルさん」
血まみれの服を探っていた私兵が何かを差し出した。裏ポケットの奥から出てきたそれは、鎖のついた銀の円盤であった。懐中時計だろうか。余程大切にしていたと見え、浮浪者の持ち物にしては随分と美しさを保っている。
受け取ったキエルは、蓋を開いた途端、表情を固まらせた。
「彼の持ち物はそれだけです」
キエルは答えなかった。ただ、円盤の中をじっと見つめ、眉根を寄せている。カイラルが横から覗き込もうとすると、蓋が閉じられてしまった。
「何だったんだ?」
「ただの時計よ。壊れちゃってるわ、高そうなのにもったいない」
母の様子に焦りのようなものを得たカイラルだったが、先程の失態がある手前、突っ込んで聞くことはできなかった。円盤をポケットに戻し、男の傍らで十字を切るキエル。全員が自ずとそれに倣った。
「OK、それじゃ教会まで運んで」
感傷もこれまで。見るべきもののない死体である以上、早急に葬らねばならない。
私兵達は、てきぱきとした動きで専用の袋に死体を入れ、担架に乗せた。
「じゃ、後はこっちで処理しとくから。当分は腕をいたわりなさい」
「俺も手伝うよ。どうせ教会に行くつもりだったんだ」
「……そう。別にいいけど、無理するんじゃないわよ」
まだ何か言いたげなキエルに背を向け、カイラルはその場を後にしようとした。が、肩をぐいと引っ張られる。真顔でキエルが言った。
「さっきの、本当に冗談だからね」
「さっきの?」
「私はあんたの葬式なんかしたくないわよ」
数秒の沈黙の後、カイラルは薄く笑った。自虐の笑みか、母への皮肉か。それを返事に歩みだすと、肩を掴む手はするりと抜けてしまった。再び引き止めようとして思いとどまったその手は、先程までとは打って変わって、ひどく弱々しかった。
死体とともにカイラルが去ってゆく。それを見つめる母は、胸の底の重いものを流し出すように、細く長く息を吐いた。残る部下達を促して仕事に戻らせてなお、その視線は息子に注がれていた。