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契約は血の色で・下(10)

 階段を昇りきった瞬間、泥沼にずぶりと踏み入ったような、嫌な感触が襲ってきた。


 進入がためらわれるほどの圧迫感こそなくなっているが、そこはやはり尋常の空間ではない。閉塞力の満ち満ちた異界は、常人の生存など許されないように思われる。カイラルは認識を改めざるを得なかった。障壁屑の存在は、この際些末なもの。本当に危険なのは、この街そのものなのだ。


 頬を汗が伝う。油断をしていると、セカイ使いである自分さえも、魂を侵食されてしまいそうで。


「どいてどいて」


 立ち尽くすカイラルを押し退けて、ナクトが前に出た。少し腕を持ち上げると、服の裾や袖口から、次々に子蜘蛛が這い出てくる。散り散りになった蜘蛛は、すっかり闇に溶け込んで、鼠のような速さで街の奥へ走っていった。そのまま二、三分も待っただろうか。ナクトは地図を見ながら、うんうんと頷いた。


「大丈夫っぽい」

「行くわよ。各自警戒を怠らないように」


 予定通り、カイラルとセリアを中心に、十字の陣形を組む。目指すは北の大穴。順調に歩いても、一時間以上はかかる距離だ。何事もなく到着する、ということはおそらくない。愛用のシャベルを左手に持ち、右手はナイフがいつでも抜けることを確認して、カイラルは前進した。


 川に沿って東西に伸びる通りから、直角に北へ向かう通りに入る。看板つきの建物が目につく。右には靴屋、食堂、金物屋。左は服屋、時計屋、喫茶店。ここはかつての商店街だ。地元の人間が通う場所と観光地とを兼ねていて、平日でも大勢の人で賑わっていた。幼き日のカイラルも、キエルの目を盗んでスラムを抜け出し、ここへやって来たことがある。スリか万引きが目的の悪ガキと思われて、さっさと追い返されてしまったが。


 今、ここに当時の賑わいはない。響くのは自分達の足音だけだ。障壁崩壊による被害は、『穴』により近いこちらの街の方が、当然大きい。居並ぶ家々の多くは屋根が吹き飛ばされてしまっていて、完全に倒壊しているものも少なくない。


「どう? この街の感想は」


 右隣から、シャロンが話しかけてきた。顔は前を向いたままだ。


「お喋りしてていいのかよ」

「別に黙りこくっている必要はないのよ。きちんと仕事をしてくれれば。何か危険が迫っても、今のあなたの警戒網には嫌でも引っかかるわ。それとも私と話すのは面倒かしら」

「そういうわけじゃ……」


 セリアがじろりとシャロンを睨んだ。カイラルがこの女と話しているだけでも癇に障るらしい。忘れてはならない。この女は、セリアにとって明確な敵なのである。誘いに乗って雑談に興じてやる必要はない。カイラルは無駄口を利かないことにした。


 ただ、シャロンの問いに答えを返すならば。


 ここはまるで谷の底のようだ。廃墟の絶壁に挟まれた死の谷だ。


 荒廃した姿は南の街も同じだが、あちらには日々の変化がある。復興が進められているというだけではない。殴り合いの喧嘩も、男と女の情も、人の生き死にもある。明らかな動の世界である。この北の街にあるのは完全な静だ。十年間人の手が入らず、痛ましい姿を雨ざらしにされて、すっかり朽ち果ててしまった墓場なのだ。


 やがて、商店跡の連なりが消えて、オフィス街に出た。より高い建物が林立していたはずだが、それだけに崩壊の余波を受けやすかったのだろう、半分から上がごっそり持っていかれているビル群もある。崩れ落ちた瓦礫が道を塞いでしまっていて、このまま直進はできそうにない。


「こっち」


 ナクトの先導に従って左に折れる。地図によれば、この先は大通りにぶつかるらしい。そこをひたすら北上すれば目的地にたどり着くだろう。開けた通りは狙撃を覚悟しなければならないが、建物に囲まれた場所は敵が潜みやすくなる。どちらにせよ危険はあるのだ。警戒する距離を切り替えるしかない。


 ところが、いくらも行かないうちにナクトは足を止めた。地図と前方を見比べながら、手から伸びた蜘蛛糸を揺らしている。


「どうしたの」

「糸が切れた。蜘蛛、どこかに行っちゃった」

「墓守君」


 シャロンに促され、カイラルは前方に意識を集中する。数メートル先も見通せないほどの暗闇だが、死の気配は答えを返してきた。確かに何か違和感がある。夜闇の中に薄っすらと霞がかかっているような感覚。危険というほどではないが、このまま進んでも目指す場所にはたどり着けない気がする。


「私の耳や鼻には、特に引っかかるものはありませんね。何やらざわつくものは感じますが」


 エスハが後ろから口を挟む。カイラルの意見とあわせて、シャロンが出した結論は前進だった。


 より慎重に、注意を払いながら歩く。カイラルもセリアも、すでに刃を抜いている。来るなら来い、今か今かと構えていると、不意に周囲の雰囲気が変わった。


「……え?」


 戸惑ったのはカイラルだけではない。懐中電灯のわずかな明かりでもそれとわかる、確実に先程までとは違う場所。しかし見覚えのある場所だった。文字が消えかけた肉屋の看板を見、前後に続く廃墟の並びを確かめて、カイラルは確信する。ここは商店街の中ほどではないか。


「あ、いた」


 ナクトが屈んで手を差し出すと、子蜘蛛がかさかさと乗ってきた。他にも数匹の子蜘蛛が、何をしていいのかわからずに道や壁を這い回っている。


「空の閉塞力です」


 刀身を見つめながらセリアが言う。


「転移させられたのか、一瞬だけ道をつなげたのかはわかりませんが。身近に使い手がいましたから、あの感覚はよく知っています。雑な仕掛けであれば、この剣で打ち破れるかもと思ったのですが」

「無理だったか。……この前の壊れた世界と同じ状態じゃねえか」

「もう一度行っても同じ結果になるでしょう。あなたの死の力をもってしても、突破できるかどうか」

「まったくの予定調和ね」


 シャロンはそっけなく言って、電灯の光をカイラルに向けてきた。


「以前はこんなことはなかったのよ。入れてくれたのはいいけれど、素直に進ませてくれるわけではないらしいわ。この街は、余程あなたに見られたくないものがあるようね」

「見られたくないものって……」

「それを私に聞くつもり?」


 カイラルは押し黙った。問い詰める相手を間違えてはならない。事実として、シャロンは知らないのだろう。その謎の答えこそ、カイラルが見つけるべきものであり、ここへ来た理由なのだ。しかし、シャロンの言葉通りなら、この街はカイラルを拒絶している。真実を隠したがっている。


 それは、知られては困るという意味か。それとも、知らない方がよいということなのか。


 目先の障害と、街の意志と。自分を待ち受ける巨大なものを、カイラルがどうにか受け止めようとしていた時である。


「…………!」


 一息の間に、死の気配が意識を塗り潰した。狙われている。それはほとんど時間を置かずに、視認できるものとして現実化する。斜め前方、百メートルほど先。位置からして廃墟の中。赤い点が浮かび上がった。ここまで届くほどの熱気を伴って。


「ナクト!」


 エスハが叫ぶと同時に、ナクトは子蜘蛛を放り投げ、両手から白い奔流を放った。編みに編まれた蜘蛛糸が、鉄をも凌ぐ盾となって空中に展開される。銃弾であろうが弾き返す広域防御。反応は十分に間に合っている。だが。


 夜を切り裂き、捻れるような曲線を描いて、一筋の赤い光が飛来する。ボウッと音を立てたそれは、隙間なく重なる繊維を容易く貫通し、宙を舞っていた子蜘蛛をさらって、背後の壁へ磔にした。子蜘蛛がもがきながら燃え上がる。蜘蛛糸の盾は一瞬で燃え溶けて、暗闇の中に花を咲かせた。


「あちちちちっ」


 ナクトが大げさに手を振る。相性が悪かった、という他ない。いかに頑丈であろうと、蜘蛛糸は蜘蛛糸だ。タンパク質の塊は、灼熱の炎の前には無力である。


 カイラルとセリアは、背中合わせになって構えた。先手を取られて驚いているうちに、前後左右が敵の気配で満たされている。十か、二十か。いや、果たしてこの地で、敵が尽きることがあるのか。


「ちょいと遅えが、大歓迎じゃねえか。嬉しいね」


 ザトゥマが深く腰を落とす。すぐにでも獲物へ飛びかかれるように。各々が構えを取り、迎撃の意志を見せる。


 こういうことなのだろう。自分はただ、街へ踏み入る許可を与えられただけ。この程度の障害を突破できなければ、真実を知るに値しないと。


 ならば、押し通るしかあるまい。

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