契約は血の色で・下(9)
そこにできていたのは、簡素な祭壇であった。
布の敷かれた四足の台に、小皿、酒杯、パンにワインの瓶、木の実やら何かの骨やらが載せられ、両脇の燭台には火が灯されている。その向こうには、天使か悪魔か、人ならざるものを象った像が六つ、輪になって並んでいる。周囲には色の着いた砂で模様が描かれているようだが、暗がりのせいでよくわからない。
「これが閉塞世界そのものだと思いなさい」
「呪いの儀式でも始める気かよ」
「口を慎みなさい。これから始まるのは、むしろ神聖な祈り。街に入る前に、神様に許しを請うのよ。『穴』からあふれ出る閉塞力のせいで、もうこの街は人間が足を踏み入れていい場所ではなくなっているの。神の領域なのよ。あなた達は見ているだけでいいけれど、何が起きても邪魔はしないように」
シャロンは足元にも布を敷いて祭壇の前に跪くと、深く一礼し、祈りの言葉を唱え始めた。それは普段の彼女からは想像もつかないような威厳をもって、夜の大気を震わせた。
「我らが閉塞世界の神よ。あなたの聖域に踏み入ることを許したまえ。我らは閉塞の徒である。聖域を踏み荒らす意志なきことを、我が血によって誓わん」
手にしたナイフで、シャロンは指先を傷つけた。鮮血が滴り落ち、小皿を赤く染める。すると燭台の火が、ジジと音を立てて燃え盛った。皿や酒杯が小刻みに震え、目に見えぬ何かがそこに渦巻いていることを知らせていた。
「我は正当なる血を継ぐ者である。失われし黒の力の探求者である。今ここに我が力を示さん」
茫と浮かび上がるものがあった。青白い光が円となり、陣を描き、六つの像をつなぐ。砂で描かれた模様が、シャロンの閉塞力を吸って淡い光を放っているのだ。そこにあったのは、太陽と月、夜空の星々。天の姿を描いた砂絵だった。
閉塞力に呼応した星天図は、万華鏡のように動き出した。暁も黄昏も、月の満ち欠けも、星座の移り変わりも、現実の夜空のままに映し出された。それはシャロンの言葉通り、まさしく世界そのものであった。
「力は満ち満ちたり。今日も世界が変わらずあることを祝おう。神よ、あなたのために贄を捧げん」
ナクトが鳥籠から雉を出した。受け取ったシャロンは、両手で雉の首を包んだ。剣呑としていた雉も、己の行く末を察したのか、ばさばさと羽を広げて暴れ狂った。必死の抵抗を意に介すこともなく、シャロンが両手に力を込める。カイラルが思わず目を閉じた瞬間、何かがあっけなく折れる音がした。最後の羽ばたきを見せた雉は、やがてぐったりと翼を垂らし、ただの肉塊になった。ザトゥマがそれを、縄で木の枝から吊り下げた。
「我らを受け入れらるるならば、聖域の門を開きたまえ。我らに加護を与えたまえ。あなたと一にならしめたまえ。――かくあれかし」
シャロンが強く祈ると、大気が軋んだ。扉が開くような音がして、一陣の風が吹き抜けた。
儀式はそれで終わりだった。やがて星天図の光は失われ、元通りの暗闇と静寂が訪れた。
「わかったでしょう」
汗を拭いながら、いつも通りの声でシャロンが言った。何が、とは言わなかったが、指し示すものはカイラルにもはっきりとわかった。
「……確かに何か変わった。さっきまでとは絶対に違う。嫌な感じが薄くなった気がする」
「この街が私達を受け入れたのよ。これで少なくとも、街に入ることは咎められずにすむわ」
話を聞きながらも、カイラルの目は宙吊りの雉から離れなかった。雉は首を縄で括られ、力なく垂れ下がっていた。その様は、生贄というより首吊りを思わせた。
「あれが絞首刑の原型です」
カイラルの内心を察したように、セリアが言葉を添えた。
「元々はこうして、生贄を神に捧げるための行為だったようです。ああやって吊るしておくと、カラスに姿を変えた風の神がついばみに来ると言われます。閉塞前でもかなり古い時代の風習で、それが変化して絞首刑になったのだとか」
「流石に詳しいな。……ちょっと待て。絞首刑の原型ってことは、大昔に生贄になってたのは」
「人間、ということです」
雉の代わりに人間が吊られている様を想像して、カイラルは思わず顔を背けた。そして重大なことに思い当たる。今回は雉だったが、これは代用品にすぎないのではないか。シャロン達は以前も調査に訪れたことがあるらしいが、もしかするとその時は、本当に人間を吊っていたりしないだろうか。
「不服そうね」
「当たり前だ。閉塞世界の神ってのは、例の六人のことだろ? 閉塞力があふれてるとか何とか言ってるが、ここは俺達の街だ。そこに入るだけで生贄を要求するとか、完全に邪神じゃねえか」
「口を慎めと言ったはずよ。いくらあなたでも、神様の機嫌を損ねればどうなるか知れないのだから。それと何か勘違いしているようだけれど、私も人間を生贄にしたことはないわ。私の信仰する教えが、遥か太古の風習の流れを汲んでいるだけのこと。あなたに気を遣って雉で代用したとでも思ったかしら」
「何……」
「まあまあ」
割って入ったエスハは、詮ない議論をするな、とカイラルを諭した。
「人身御供はどのような宗教にもあるもの。天災や飢饉を逃れ、人間の罪に目をつむっていただくには、それに見合うだけの犠牲を供出する必要があったのです。セリアさんも仰っていたでしょう、閉塞前の風習だと。閉塞世界の神だけが、格別に邪悪というわけでもない」
エスハはすぐ後ろを指し示した。変わらず流れている大河ではない。かつてそこにあった橋のことであった。
「失われた橋の袂にだって、人柱の処女が埋まっているのかもしれない。この街くらいの歴史があれば、十分に考えられることです。もっともそれは、閉塞世界の神へ捧げたものではなかったでしょうが」
「俺の知ったことじゃない。迷信じみてる」
「ですが、今起こったことは現実です。この世界の管理者達は――彼らの生み出した世界の仕組みは――贄と引き換えにある程度の要求を飲んでくれる。捧げられた魂は閉塞世界へと還元され、新たなセカイを生み出すための土塊となるのです。世界にとってはまさに食事ですから、その見返りに聖域への進入を認めてくれるのは自然なこと。何も理不尽なことはないじゃありませんか」
「そんな理屈……」
「仮定の話ですけどね。一時の滞在にさえ、こんな儀式と生贄を必要としたのです。もっと大きなことをしようとすれば、それに相応しい代償を求められますよ。誰に白羽の矢を立てるか判断するのも、人類の指導者の役割かと思いますが」
お前にそれができるかと、エスハは問うていた。事の本質は、セリアの願いと同じだと思えた。誰が死ぬべきなのかを、他の誰かが決定するという――いわば生命の価値の計量を、ただ一人の人間に委ねることの是非と、その資格なのであった。
「俺だったら迷わずに指名してやるけどな。そん時目をそらしたやつとか」
ザトゥマが薄く笑った。確かにこの男なら、選択を迫られても顔色一つ変えずに答えるだろう。彼にとってすべての生命は区別なく自分以下で、故に平等である。くじ引きで選んだのと結果は大差ないのだ。逆に言えば、価値の差を決めるには必ず理由が必要なわけで――。
「それ、ここで答える意味あるか?」
「いいえ。私も返答は期待していませんので。ここで言い切るような身の程知らずであれば、こちらとしても今後を考えねばなりませんでしたが」
「馬鹿言え」
セリアは、それでいいと頷いてみせた。主の口から何が出てくるか、気がかりだったと見える。大丈夫だ、とカイラルは頷き返した。自分達は、今の問いの答えを探すために動こうとしているのだ。ここでそれにたどり着くはずもない。
何よりも。今の問いは、最終的に無意味にしなければならない。人類の歴史が続く限り、誰かを犠牲にして誰かが生きるという図式は変わらないだろう。だがその犠牲は、邪神への供物として払われるべきではない。そんな仕組みには抗うべきだ。それだけが、今の時点でカイラルが出せる結論だった。
「少しは現実と向き合えているようで何よりだわ」
シャロンはすでに階段に足をかけていた。
「行きましょう。あなたの答えを出す手助けをしてあげる」