見捨てられた街(1)
少年は不機嫌であった。ここ数日どうにも体調が優れぬ上に、目下左腕から流血中だからである。傷は大したことはなかったが、力を入れると熱を帯びた痛みが走る。ナイフを突き立ててきた小太りの男を睨み返すと、相手は顔を引きつらせて一歩退いた。やるべきではなかったと言わんばかりにだ。
少年は走った。腰からナイフを抜き、戦意を失いかけた相手に躍りかかる。小太りが一歩も動けずにいると、後ろにいる大柄な男が怒鳴りつけた。一瞬背後を振り返った小太りは、何かを叫びながら突っ込んでくるも、激突の寸前、腰を屈めた少年のナイフに脇腹を切り裂かれる。少年が走り抜けると同時に男は倒れた。情けない、甲高い悲鳴を上げてのた打ち回る男。
ゆっくりと上体を起こす少年。その視線は、残った巨漢へと向けられる。これまで取り巻きに命令するだけだった男は、手駒が全滅したと知るや、血が上っていた顔を一気に灰のような色へと変貌させた。じりじりと後退し、突如背を向けて走り出す。
少年は見逃さなかった。懐から投擲用の、小型のナイフを取り出し、腕を振る。光が走った瞬間、ナイフは正確に、男の右太腿へと突き刺さっていた。か、と詰まった息を吐いて男がよろめく。少年が走る。助走をつけて地を蹴り、飛翔。そのまま男の背中へ飛び蹴りを食らわせるかと思いきや、空中で身を半回転、振り向きかけた男の後頭部へ回し蹴りを叩き込んだ。その瞬間の男の表情といったら……。
強烈な蹴りを浴びた男は、真横のゴミ山へと突っ込み、そのまま動かなくなった。
周囲に気を払いつつ、息を整える少年。すでに張り詰めた空気は消え、辺りには失神した男達が転がっているばかりである。一しきり静寂に身を委ねると、少年は背後へと声をかけた。
「もういいぜ、出てこいよ」
少し間を置いて、細い路地の陰から、辺りをきょろきょろと見回しつつ、若い女が姿を現した。露出の多い衣装に身を包んだ、一目でその手の商売とわかる女である。
「あ、ありがと。助かったわ」
「人が目ぇ離した隙に何やらかしたんだよ、あんな大勢に囲まれやがって」
「あいつら、この子に石ぶつけたのよ。引っ掻かれたからって。それであたしも思わず石投げちゃって……」
女の腕の間から、ひょこりと顔を出したものがいる。もう終わったのかと辺りを見回し、腕から飛び出すと、一声鳴いて走り去った。一匹の黒猫であった。
少年は顔をしかめた。連絡もなしに押しかけ、スラムを見て回りたいからついて来いと言った挙句にこれである。警備兵に頼み込んでわずかな時間の滞在を許されたというのに、自分から危険に突っ込まれては守れるものも守りきれない。
「ふざけんじゃねえよ。何でお前の自殺行為に付き合わされなきゃならねえんだ」
「……ごめん」
少年の怒声を受け、女はしゅんとした顔つきになった。帰るぞ、と短く告げ、踵を返した少年に黙って従う女。しかし歩きながらも、ぶつぶつと言葉を漏らしている。苛立ちを抑えきれなくなった少年は女に詰め寄った。
「何だよ、言いたいことがあるならはっきり――」
「いつになったら」
元に戻るんだろう、と沈鬱な面持ちで女が告げた。
少年は返事を躊躇った。適当な答えでごまかしてはならないと感じた。その言葉の意味するところ、女の切実な想いを痛いほど理解しているがために。
溜め息をつき、頭を掻く少年。そこで女は、ようやく少年の腕の怪我に気付いた。慌ててバッグを引っ繰り返し、タオルやら何やらを取り出して立て膝を付いた。
腕がタオルで締め上げられていく様子を、少年はぼんやりと眺める。横に転がるバッグには、他にもまとまった額の現金だの装飾品だのが入っていたが、すべて置いてこさせた。そういったものをこの街に持ち込むなど論外もいいところだ。本当は服も着替えさせたかったがやめにした。この我侭な女に何を言っても――、
ああ、これか。
「無駄だ」
女は、びくりと体を震わせた。簡素な、それ故に重い一言だった。無論、傷の手当のことではない。この街の未来を案ずるという行為が、である。
「俺達が生きてる間に復興するなんて、万に一つもありえねえよ。あの頃の街は、もう二度と戻って来ないんだ」
少年はとどめの一言を放ち、女の心を徹底的に砕いた。二度と同じ真似をしないように。気休めの希望など抱かないように。
二人はそのまま静止した。重苦しい空気が一分も続いただろうか。不意に、女の手がタオルを一際強く締め上げた。少年が思わず呻く。先程の仕返しのつもりか。逸らそうとした目に現実を突き付けたことへの。
少し言い過ぎたか――と女の顔を覗き込もうとすると、パン、という乾いた音が響いた。気付いた時には、頬にひりひりする痛みが走っていた。
「……逆ギレだろ今のは」
女はうなだれたまま持ち物を片し、目元を拭い、膝の埃を掃って立ち上がった。そして赤くなった両目で少年を睨みつける。少年はしかめ面で対抗しつつ、もう拳でも何でも来いと頬を晒して構えた。
しかし、またも不意打ちを食らった。
女は少年に抱きつくと同時に、自分が張り飛ばしたところにそっと口づけた。少年は多少面食らった後、空を仰いで舌打ちをした。胸元で泣かれなかっただけまだましだろうか。
甘ったるい匂いのする肌を摺り寄せながら、女が耳元で囁いた。
「ごめん。少しすっきりした」
「ああそうですか」
「たまにはお店に顔出しなさい。皆も喜ぶから」
「誰が行くか糞売女」
突き放すように言い放ち、女を振り払って歩き出す。女は笑顔で横に並んだ。警備兵の立つバリケードが見えたところで、女は手を振って駆け出した。少年は、女の姿が霞んで消えるまで、その背中を見つめていた。
あの女はまだいい。身を守る術も持たずにやってきて地獄を見る者は少なくない。どれだけ警告しようと来る者は来る。街の様子が気になるとか、古い知り合いが心配だとか、そういう健気な理由で。そして身包み剥がされ嬲り者にされ、最悪、塵のように死ぬのだ。この街は、不用意に踏み込んだ人間を食い物にする連中で溢れかえっている。
そう。例えば気絶したふりをして、帰路についたこちらを息を殺してつけ、今まさに背後から襲いかかろうとしているこの、
「……ぐぇ」
糞野郎みたいにな、と考えつつ放たれた少年の拳が、正確に巨漢の顎を捉えていた。蛙のような声で男が呻く。振り向きざまに打ったすくい上げの一発が、体格差のお陰でちょうどいい具合に決まったようだ。
「しつこいんだよ」
ぐらりと傾いた男の胸元に少年の手が伸びた。男が倒れた時、少年の手には黒いものが握られていた。いかにも高級そうな、厚手の革財布である。この男のものであるはずがない。誰かから奪ったか、店から盗むかしたのだろう。あるいは、他のごろつきどもからの『また盗み』を働いたのかもしれない。今の少年のように。
少年は一応周囲を警戒しつつ、素早く財布の中身を改めた。紙幣がたっぷりと詰まり、硬貨もいくらか入っている。当分の生活費には困るまい。
と、今まさに全財産を奪われつつある男が、なおも追いすがってきた。
「て、てめ――」
言いかけた男の顔面に、少年の靴裏がめり込む。男は鼻から血を流して白目をむき、だらしなく開かれた口から欠けた前歯がこぼれた。
長居は無用と、男を尻目に細く汚らしい路地を行こうとした時、ふと違和感を得た。
手の中が軽い。
「……っと。忘れるとこだった」
少年は殴った拍子に取り落とした『得物』を拾い上げた。
年季の入った一本のシャベル。
先端が尖った、所謂スペード型のものだが、刃は所々が歪み、錆び付いてしまっている。反対側の取っ手は塗装などとっくに剥げ落ちているし、木製の柄はすっかり色あせて、いい加減内側が腐り始めているのではないかという状態である。
得物とはいっても武器ではない。だが、少年にとっては必要不可欠な、心の拠り所である。もっともそれは、倒壊寸前の家に与えられたつっかえ棒のようなものであり、根本的な問題を解決してはくれなかった。
何しろ、これを用いる事態になったということは、すべての手遅れを意味するのだから。
故に、今これを使うことにならなかったのは幸いであった。いや、決してあってはならないのだ。少なくとも、これまでに自ら『その事態』を引き起こしたことはない。先程、腕に傷を負うまでナイフを抜かなかったのもそのためだし、男を斬りつけた時も、軽く撫で付ける程度にしておいた。
……そうなると、最後の跳び蹴りは拙速だった。
途中で大袈裟な回し蹴りに切り替えて勢いを殺したものの、下手をすれば――。
こみ上げる吐き気に口を押さえた時、冷たいものが頬を打った。見上げれば、無数の雨粒が一斉に降り注ごうとしているところであった。空は薄汚れた雲に覆われて、光の差し込む隙間もない。
そのせいだろうか。嫌な不安感が膨れ上がってきたのは。
少年は改めて女の消えた方向を見やり、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……頼むから、もう来るなよ」
少年は、名をカイラル=ヴェルニーといった。