契約は血の色で・下(4)
そのまま帰る気にはなれず、あてもないままに街を流した。相変わらず人は少ない。出会うのは復興連盟の警備兵や公共機関の職員ばかりで、それもほとんどはハーウェイ・カルテルかミンツァー社の人間である。他の組織の連中は、皆恐れをなして仕事に手を貸さないのだ。
ロゼッタ達の本業も、随分と暇になってしまった。たまにお呼びはかかるが、このままでは生活が維持できない。グラムベルクへ出稼ぎに出るしかなくなれば、この街に住んでいる意味が失われてしまう。何とかして人を呼び戻せないものか。ミンツァーは今日の調査の結果を元に、今後の見通しについて提言するつもりらしい。希望の持てる報告を期待するしかなかった。
どうやら開いているらしい馴染みの店に入る。つまみ程度の軽い夕食を頼んで、店主と話しながら二杯三杯と杯を重ねるうちに、つい過ごした。おぼつかない足取りで店を出る。繁華街の一角にある仮住まいに着いた時には、もうすっかり日は暮れていた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「水」
出迎えたグレースに言って、ロゼッタはふらふらと居間へ入った。ここはナイトレイドの四人で借りている家だ。元々は練習用に使っていたが、ロゼッタのアパートは先日被災してしまったので、ここへ転がり込んだのである。その後、色々不安だったり物騒だったりで、他の三人もここにいることが多くなった。ミーネのきょうだい達まで一緒に寝ていると、流石に少し窮屈だが。
テーブルでぐったりしていると、コップが差し出された。よく冷えた水を喉を鳴らして飲み干す。空のコップを乱暴に置くと、ロゼッタはずっと腹の底にあったものを吐き出した。
「人の気も知らないでさ」
「カイラル君のこと?」
「こっちは心配してやってんのに。さっさと帰れって」
「いつものことじゃない。彼は彼であなたのことを気にかけてるのよ」
「わかってるけど。だったらもう少し態度で表わせっていうか」
「ははあ」
グレースはにやりと笑って、対面の椅子に腰掛けた。
「珍しく焦ってるのね」
「何が」
「あの子に持っていかれるかと思ってるんでしょう。彼、あの子には随分優しいものね」
誰とは言わないが、セリアのことを指しているのは明白だった。
「別に。カイラルはあの子のことそういう目で見てないでしょ」
「今はそうでも、後からどうなるかはわからないじゃない」
未来のことを言われると、ロゼッタは何も反論できなかった。
セリアと初めて会話した時、ロゼッタが感じたものは三つある。
いい子だ、ということ。
危ういやつだ、ということ。
そして、まずい、ということ。
先の二つについてはカイラルにも話した。それはカイラルの印象とも合致していたし、概ね間違っていないだろう。三つ目を明かさなかったのは、言わずもがな。浮気者、とは言ってみたが、カイラルは冗談としか捉えていまい。
セリアがろくでもない女であれば、噛み付いて追い払えばよかった。しかし、なまじ善良で上品で貞淑で、自分とは真逆のものを持っていたから、受け入れざるをえなかったのである。あのカイラルが、自分や他の女達に向けるのとはまったく違う態度を見せているのも、無理はない。彼女と対立することだけは避けねばならなかった。できればこちら側に取り込んでしまいたかった。バンドのメンバーにしたいと言ったのも、半分は本気だったのだ。
エスハは彼ら二人の関係を欺瞞に満ちていると言った。それはロゼッタにとって助け舟にもなりえたが、大きな不安をももたらした。ロゼッタとカイラルの間に、他者が決して踏み入れない領域があるのは間違いない。それと同格のものが、セリアとカイラルの間にも生まれつつある。その形成期の混沌を指して、エスハはあえてあのような言い方をしたのではなかろうか。
「がんばってね。この雌猫の群れのリーダーはあなたなんだから。トップ争いが起きるのは嫌よ?」
「うわー愛人ポジションは気楽でいいなー……くそったれ、もう一杯」
「はいはい」
一度、カイラル抜きで話をしてみるのもいいかもしれない。今のセリアとは、カイラルを介さないとまともに会話ができない。だが、濾過された感情を受け取っていては、彼女の本心は見えないだろう。たどたどしくても、混ざり物があっても構わない。彼女の根源にあるものが知りたかった。
再び満たされた杯を手に取ろうとした時である。
「ロゼっち、グレねーさん、ちょっと……」
扉が少しだけ開いて、ミーネが顔をのぞかせた。どういうわけか、妙に声を潜めている。
「どしたの?」
「何かレイぽんが、ゴミ捨て場の周りに変な気配がするって」
「野良猫じゃないの?」
「違うっぽい。今レイぽんが見張ってるんだけど」
ロゼッタは電話をちらりと見た。いつもならすぐに警備兵を呼ぶところだが、今は彼らも手一杯の状況だ。下らないことで手を煩わせたくはない。カイラルがいれば呼びつけるのに、と舌打ちする。
「ちょっと様子見よう。カルテルの事務所もすぐ近くだし、やばそうだったら人呼べばいいわ」
三人は連れ立って、裏手にあるゴミ捨て場へ向かった。角のところにレイチェルがいて、三人の姿を認めると、無言でゴミ捨て場を指差した。
がさがさと、ゴミの擦れる音がする。何者かがゴミを漁っているようだ。背中を丸めてしゃがんでいる人間、だろうか。音に混ざって独り言らしいものが聞こえてくる。
「はあ……何で私がこんな……あの女のせいで……情けない……みんなどこに……風呂に入りたい……」
掻き消えそうな声で、呪いの言葉を吐いているようだった。スラムの住人が警備を抜けてこちらにやって来たのだろうか。いや、それならまだいい。ロゼッタの頭をよぎったのは、先日相対したあの化け物のことだった。血まみれの刃を引きずる女。あれと同じようなのがここにいるのだとすれば、ロゼッタ達では手に負えない。
しまった。やはり先に人を呼んでおけばよかった。幸い、不審者はこちらに気づいていない。今ならまだ間に合う。レイチェルが、行け、と目配せしてきた。頷いて家の中に戻ろうとした時、
「……暗い……見えないな……仕方ない、少しだけ……」
不審者の手元が、突然明るくなった。一目でわかる、赤く熱いものが揺らめいている。
「放火だ――――ッ!」
四人はあらん限りの大声で叫んだ。近くにいた野良猫が、飛び上がって一目散に逃げていく。同時に、不審者もがばと立ち上がり、「違う!」と両手を振った。
「誤解だ! 私は決して怪しい者では――」
「放火だって?」
「どこのどいつだ!」
「ぶち殺せ!」
近所に住むわずかな人々が、一斉に家から飛び出し、ゴミ捨て場を取り囲んだ。不審者は弁明も許されず、一発もらってゴミ山に倒れ、袋叩きにされ始めた。
「やめろ! やめてって! 違うんだ!」
「うるせえ、このガキ!」
「よりによってロゼの家のそばで火付けしようとはいい度胸じゃねえか!」
ガキ、と呼ばれた通り、不審者は随分と小柄だった。ミーネと同じくらいである。そんな相手にも、男達は躊躇いなく蹴りを入れる。二度の災害を経てなお、この街に残っている者達である。街の治安を乱す者には一切容赦がない。
やがて、不審者はぐったりと動かなくなった。
「おい、明るいところに出せ。ツラ拝んでやる」
強引に立たせられた不審者は、街灯の下に引きずり出された。薄明かりの中に浮かんだ姿を見て、ロゼッタも、他の三人や男達も、思わず目を見張った。
不審者は、尋常な人間の容姿ではなかった。薄汚れてはいたが、その髪は炎のように赤く、瞳は暗がりでもわかるほどの真紅の光を湛えていた。ロゼッタは、自分の予感が少しだけずれていたことを悟った。これはもしかすると、化け物よりもたちの悪い拾い物かもしれなかった。
走る足音が近づいてきた。通報を受けた警備兵が駆けつけてきたようだ。
「どうする?」
「そりゃお前、連盟に引き渡して――」
「待って!」
全員がロゼッタを見た。ロゼッタは、自分でも何故こんなことをしているのかわからないまま、異邦人の真紅の目を見つめて言った。
「その子、私の友達です」