表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
117/124

契約は血の色で・下(3)

「危険です。よくありません」


 足早に廊下を行く主人に、セリアは後ろから声をかけた。カイラルは振り向こうともしない。


「今のあなたは、その感情の渦を何かにぶつけて消し去ろうとしています。それではあの時と同じになってしまう」

「同じ? 同じなわけねえだろ。あの時とは違うんだ」


 確かに違う。初めて人を殺めたあの瞬間は、ただ殺意の命じるままに力を振るっただけだった。それに比べれば、十分冷静になれている。己の現状を把握して、いかに処理すべきか判断できている。


 だがそれは過程の話だ。この身に渦巻く力は、自慰行為が虚しいのと等しく、虚空に解き放てば治まるというものではないらしい。命あるものにぶつけなければこの不安が消えないのであれば、いずれたどる道は見えている。まさかセリアも、他人の感情までは肩代わりできまい。


 苛立ちのままに部屋を出たが、カイラルの足は自然と聖堂へ向いていた。扉を開くと、清廉な空気が流れてくる。相変わらず満身創痍の空間だが、ペリットが毎日清めているらしい。カイラルは一番前の長椅子に腰掛けると、瞑目し、大きく息をついた。


 深呼吸を繰り返す。感情は徐々に落ち着きを取り戻し、駆け巡る死の閉塞力は、小川のように緩やかな流れを手に入れる。ひとまず、最悪の状態は脱した。しかし、濃い霧のような不安は除けても、閉塞力そのものが消えたわけではない。感情が揺さぶられれば、死の力は再び荒れ狂うだろう。


 薄く目を開くと、磔にされた聖人がこちらを見下ろしている。彼は腕を打ち付けた十字架を引きずり、処刑場の丘を目指したという。その苦痛と、今のカイラルと、比べるのもおこがましいが、何くそという気持ちは残る。救世主はすべてを受け入れ、自らの終焉の地へと赴いたが、カイラルの人生の終着点はいまだ見えていないのだ。


「やせ我慢なのは百も承知さ。ビビっちまってるんだよな、結局」

「それを理解されているのなら、まだ安心はできますが」

「俺だって、セカイ使いの家系のはずなのにな。どうしてハイリみたいにできないんだ」

「残念ながら、あまりに時間が経ちすぎました。あなたの一族の血は、この千年ですっかり薄まってしまっている。神子の血を保つためにあらゆる手段を講じてきた魔女の一族とは、もう取り返しのつかない差が生まれているのです」


 セリアはカイラルの横に腰を下ろし、滴る汗をぬぐってやった。呼吸を整えるだけでこの有様だ。所詮は強引に与えられた力なのか。だが、閉塞世界が彼を選んだということは、そこに何らかの可能性を見たということなのだ。今はカイラルの意志の強さに懸けるしかなかった。


「カイラル君、カイラル君」


 外から呼び声がして、ペリットが姿を見せた。こちらを探していたようだ。


「どこに行ったのかと思いました。皆さんもう出立されましたよ」

「悪い、すぐに行く」

「ああ、その前に。お客さんが来てます」



 不意の来訪者はロゼッタであった。教会の入口の前で、無遠慮にも煙草をくわえている。


「お疲れー」


 笑顔で手を振るのはいいが、どことなく顔色が優れない。カイラルは嫌な予感を隠せなかった。今日この時間に出発することは伝えているはずである。わざわざここに来たということは、何か急な事態でも起こったのだろうか。付き添いで来たらしい二人の私兵に、席を外すようペリットが促している。彼自身もすぐに消えた。どうやら内密の話らしい。


「何があった」

「怖い顔しないでよ。別にやばいことがあったわけじゃなくてさ」


 言いかけて、ロゼッタはある変化に目ざとく気づいた。


「髪型変えたんだね」

「はい」

「似合ってるよ」


 セリアの装いは先日までと違っていた。長い髪を撫で上げて、後ろで留めている。もちろん粧しこんでいるわけではなく、邪魔にならないようにだ。服装もより動きやすいものにしてあるし、足元はこの数週間で履き慣らした靴。剣を振り回す準備は万端である。


「本当にそんな格好で大丈夫なのか? 防弾服くらいはここにあると思うぜ」

「お心遣いはありがたいのですが、障壁屑が相手では、何を身につけようと気休めにすぎないでしょう。それならば、少しでも剣を振る妨げをなくしたいのです。私にとってはこれだけが武器であり、盾ですから」

「気をつけろよ、お前は流れ弾でも十分致命傷なんだからな」

「ちょっと、私に比べて随分優しいじゃない」

「うるせえな。それより何しに来たんだよ」

「え……うん、その」


 煙草が石段に落とされた。まだ赤い先端を、靴底が念入りに踏みつける。ばらばらになった葉が、風に吹かれて飛んでゆく。やがて小さな声で「大丈夫、だよね?」と聞こえた。


「何が?」

「北の街に行くんでしょ」

「だからそう言っただろ」

「危なくない?」


 カイラルはがっくりと肩を落とした。今更何を、という具合である。


「わざわざ人に送らせといてそれかよ。心配すんな、俺一人で行くわけじゃねえんだから」

「でも」

「今はキエルも出払ってて戦力不足なんだ。警備に負担かけるような真似はやめろ」


 ロゼッタはわずかに顔を紅潮させたが、すぐにうなだれて、何も言い返してこなかった。いつぞやの場面の焼き直しだ。これでいいのだと、カイラルは自分に言い聞かせる。自分がこの街を離れている間は、何があっても守ってやることはできないのだ。不安の種を残して危険な場に赴けるような余裕はなかった。


「とにかくさっさと帰――」

「まったく、素直じゃありませんねえ」


 すぐそばから声がした。見れば、いつの間にやらエスハが立っていた。


「あらエスハ、久しぶり」

「ロゼ姉さまもお変わりなく。お声がしたので戻ってきてしまいました」

「おい、素直じゃないってどういうことだよ」

「そのままの意味ですよ。あなた、顔とは裏腹に、心の中は相当乱れているじゃありませんか」


 エスハは槍をカイラルに向けた。袋に包まれたままの穂先が、渦を描くように回される。


「怒りは表面的なもの。中身は不安と焦燥に満ちていながら、根底にあるのは愛情。本当のところはロゼ姉様を大いに気遣っていらっしゃるのですね。存外にお優しい一面をお持ちのようで」


 普通の相手なら、馬鹿を言え、と突っぱねているところだろう。本心では認めながらも、ロゼッタへの気持ちを包み隠さず表現することははばかられた。冷たいと言われようが、これが自分達二人にとっては程よい距離なのだと信じていたし、お互い憎からず思う関係を保ててきたのである。


 だが今、カイラルは反論できなかった。単なる推論や冷やかしとは思えない。散らかった部屋の中を見られたときのような、羞恥と後悔の混ざり合った嫌な感覚が、じわりと心の奥底を濡らしている。薄く笑う尼僧は、確かにこちらの内心を見透かしているのだ。気圧されて態度に出てしまったのか。それとも、


「……それがお前のセカイ法か」

「さあて? それを聞いてどうなさるのです? ザトゥマさんに言われたことをもうお忘れに?」


 違うとも、そうだとも言わない。しかしカイラルにはもう、疑いの余地などないように思われた。これもまた一種の死の気配であり、その探知機は今日極めて鋭敏になっているのである。どうすべきか。何もかも見られているのを知りながら、そうではないとうそぶくのは、あまりにも滑稽ではないか。故に、カイラルは一歩譲るしかなかった。


「心配してるのは確かだけどな。こいつはこのくらい言ってやらないと、何しでかすかわからないんだよ」

「これはこれは。つい先程まで、一人で突貫しそうな勢いだった方の言葉とは思えませんね」

「む……」


 図星だった。暴走する感情を抑えこんできた直後だけに、否定もできない。完全にやり込められた形である。満足したのか、エスハもそれ以上は追い打ちをかけず、「まあいいでしょう」と矛を収めた。


「ロゼ姉様が、何故あなたのような人に信頼を寄せているのか、今ひとつ理解できませんでしたが――結構。疑り深い私をどうかお許しくださいまし。お二人は、お互いを常に気にかけていらっしゃるのですね。愛情表現は随分と遠回しですが」

「悪かったな、俺らの関係は昔からこんなもんなんだよ」

「いえいえ、かえって仲睦まじくてとてもよろしいと思いますよ? 私はむしろ、あなたとセリアさんをつなぐ糸の方が、随分とまた面倒な絡まり方をしているように感じますがね」

「あ?」

「うふふ。あははは」


 幼さの残る顔が、悪辣な笑みを浮かべている。この腐れ坊主は、どこまで見えているのだろう。今の言葉もただの皮肉なのか、それとも忠告のつもりか。セリアは何も言わない。ただ、努めて無表情を保とうとしているようにも見える。自分と主の間にあるものをのぞかれて、へそを曲げているのかもしれない。


 仮初の主従、二人の関係の歪さは、カイラル自身が誰よりもよく知っていた。だが、それを他人に揶揄されることは、やはり不愉快だった。二人の間には、二人しか知り得ない領域がある。そこに土足で踏み込もうとする者は、即ち二人の関係を脅かす者に他ならないのだ。


「さ、参りましょう。あまり遅れると置いて行かれてしまいます」

「あ、ちょっと待って」


 ロゼッタはセリアの両手を取り、強く握りしめた。


「いい? カイラルが無茶しそうになったら、ぶん殴ってでも止めてね。こいつ、人に偉そうなこと言っときながら、自分が一番無茶苦茶するんだから」

「わかりました。私もそう思います」

「お前らなあ……」


 文句をつけようとしたカイラルだったが、ロゼッタからはきつく睨まれ、セリアからは訴えるような目を向けられ、どうにも次の言葉が出てこなくなった。


「……ああもう、わかった。わかったって。絶対に無茶はしない。約束する」

「本当に?」

「本当に」

「じゃあさっさと行け。行っちまえ」


 ロゼッタに突き飛ばされ、危うく倒れそうになりながら、カイラルは舌打ち混じりに駆け出した。セリアとエスハが後を追う。ロゼッタは棒立ちのまま、三人の背中を見送った。その表情は、最後まで晴れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ