契約は血の色で・下(2)
日が昇り、また落ちるのは想像以上に早かった。
教会の一室に、今日の調査に参加する者達が集っていた。十八時までは、あと十分といったところだ。ザトゥマやナクトは流石に場慣れしていると見え、休憩時間か何かのようにくつろいでいる。セリアは剣を抱きかかえ、目を閉じて静かに瞑想している。仕事の前の空気としては悪くない。
そんな中、カイラルは一人焦燥していた。
「どうぞ」
ペリットが目の前に紅茶を置いても、わずかに頷いたのみで、脇目も振らずに爪を研いでいる。怯えているというよりは、ひどく神経質になっていて、機嫌が悪いときの猫を思わせた。この少年がこんな姿を見せるのは、それこそ死体と出会ったときくらいである。ペリットも気が気でない様子で、茶を配りながら、しきりにカイラルの方を気にしている。
エスハと顔を合わせてから一日、十分に休んで体は回復したが、代わりに重苦しい不安に襲われていた。すぐそこにある明確な死の恐怖とは違う。何かよくないことが起こりそうだという、漠然とした予感が全身を這い回っているのである。身に迫る危険には誰よりも鋭敏だという自負があるし、虫の知らせというやつも何度となく経験したが、こんな薄気味の悪い感覚は記憶にない。
「どうした墓守君? 行く前からビビってんのか?」
ザトゥマの軽口に、カイラルは一瞬だけ鋭い視線を向けたが、すぐに無視を決め込んだ。不調の原因はこの男にもある。幾度かの戦いを経て、自分のセカイ使いとしての力が高まってきているのだ。目先の危険のみならず、数時間後、数十時間後の死の気配までも感じ取ることができるようになったのだろう。ザトゥマの言っていた、未来予知に等しい能力に一歩近づいた気はする。
しかし、未来というのは明瞭に見えてこそ意味があるものだ。時間も場所もわからないが、どうやら身の危険が迫っているらしいという程度では、かえって不安を煽るのみ。そんな中途半端な力が精神を削りとってくるのだから、たまったものではない。
セリアは片目を開けてカイラルを見た。自分を試しに使ってみろとはいうものの、彼女もまたカイラルの力量を測る段階なのだ。落ち着きのない主の姿は、彼女の目にどう映ったのだろうか。
「時間ね」
時計を見ながらシャロンが言った。ペリットは黙って一礼し、部屋を出て行った。そのまま数十秒待ったが、シャロンはまだ始めようとしない。
「墓守君。あなたのお母様はどうしたのかしら」
「ああ、キエルは……」
「大姉様なら今日はいらっしゃいませんよ」
一人だけ緑茶をすすっていたエスハが、カイラルに代わって言った。
「何でも、別の仕事がお忙しいとか。調査の概要は大姉様もご存知なのでしょう? 細かいことまでお伝えする必要はありませんよ。ただでさえ、ここのところお疲れのようですから」
「そう」
シャロンはそれ以上追求しなかった。昨日とは立場が逆になってしまったことを、皮肉と思っているのだろうか。キエルがここにいないことが問題なのではない。他のどこかにいることが問題なのだ。実のところ、カイラルも昨晩からキエルの姿を見ていない。昨日の言葉を信じるなら、この街を離れてはいないのだろうが。
「怖い人がいなくてむしろ助かるわ。さっさと終わらせましょう」
すでに事態が動き出していることを悟りながら、会議は始められた。
まずは船を使って川を渡り、北岸に上陸する。ナクトの蜘蛛を斥候に使い、敵や地形を探りながら『穴』へ向かう。そして『穴』の様子をできる限り詳細に確認して帰還する。万が一、手に余る障壁屑がいれば、すぐさま撤退する。それ自体が十分な情報となるからだ。
隊形はカイラルとセリアを中心に、ナクトとエスハが前後を、シャロンとザトゥマが左右を固める。他の四人でカイラルとセリアを守ろうというのだろう。障壁屑への備えとしては納得できるが、味方とは言い切れない連中が四方にいるのだから、あまり気分のいい話ではない。背後がエスハなだけ、まだましな配置と言えた。
カイラルの主な役目は、死の気配を探ることだ。といっても、ナクトの『蜘蛛の巣』は音速を超える狙撃を容易に防ぎ、待ち構えている敵は蜘蛛達が発見できる。故に、カイラルに求められるのは単純な索敵ではない。ここは右へ行くべきか左を選ぶべきか、これから取ろうとする行動は吉と出るか凶と出るか。そんな高次元の――あるいは極めて曖昧な――運命とでも呼ぶべきものを探り当てろということらしい。
「以上。何か質問があればどうぞ」
「セカイ法は?」
カイラルは端的に問うた。純粋に、作戦上お互いの能力を知っておいた方がいいだろう、と思ったのである。ところが、反応は冷ややかだった。誰も答えようとはせず、ナクトがわざとらしく咳払いをした。セリアでさえ、今のはまずいという顔をしている。
「アホかお前」
ザトゥマが笑い半分、呆れ半分で言った。
「セカイ使いが自分から能力バラしてどうすんだよ馬鹿。俺らだって、仲間内でさえ全部を明かしてるわけじゃないんだぜ。お前になんざ頼まれたって教えねーよ」
「別にあんたらの秘密を知りたいわけじゃねえよ。俺はただ、いざってときのことを考えて」
「だからお前らはおまけだって言ってんだろ。作戦上いなくても問題ねーんだから、俺らの手の内を知っとく必要もねーだろうが。心配しなくても、雑魚は全部俺らが片してやるよ。お前らの出番があるかどうかは、まあ、状況次第じゃないですかねえ」
大物は譲ってやる、雑魚を相手に消耗するな、ということらしかった。ミンツァーの指示は忠実に守られている。元はといえば、この調査への参加はミンツァーから言い出したことだ。彼らはカイラルやセリアに戦力として期待をかけているわけではない。二人を物語に巻き込み、閉塞世界の深層をのぞかせ、カイラルの【セカイの中心】としての成長を促そうという――ただそれだけが目的なのだ。
より高度な予知の実験と、強敵との遭遇によって、彼らはカイラルをさらなる次元の高みへ押し上げようとしている。それはカイラルにとって、よい方向に働く望みもあるだろうが――綱渡りのような真似をさせられるのは間違いない。上等だ、とカイラルは拳を握る。ミンツァーの思惑に乗ることを選んだのは自分だ。立ち塞がるものは打ち砕いて進むしかないのである。
「行こう」
カイラルは真っ先に席を立った。雑音はますます大きくなっていたが、下を向いてばかりもいられない。未来への不安だろうが何だろうが、つまるところ死の力ではないか。今の自分は、意志とは無関係に肥大化する力を抑えられずにいるのだ。あの日、セカイ使いとして目覚めた直後も同じ有様だった。自己に屈すれば死が待っている。ならば、憑り殺される前に支配するしかない。
主を追ってセリアが部屋を出た。その顔は、先程よりこわばって見えた。