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契約は血の色で・下(1)

 その街は、あまりにも静謐であった。


 暖かな日差しの下で、人々が日常を送っている。自転車をこぐ少年、街角で談笑する女性達、時計を見ながらバスを待つ勤め人。何の変哲もない、穏やかな午後の光景。変わることのない、いつも通りの日常がそこにあった。そう、この街は変わらない。自転車の車輪は回らないし、女性達の笑い声が聞こえることもない。時計の針は進まず、バスはいつまで待とうと来ることはない。


 すべてが静止していた。人も、鳥も、車も、大気や陽の光でさえも。このセカイは、今その瞬間のみが存在していた。時間は過去へも未来へも移動しなかった。


 このセカイは写真の中なのだろうか。それを否定するものは、案外近くにあった。耳を澄ませばどこからともなく、カタカタという軽快な打音が聞こえるはずだ。音をたどってゆくと、街の中心部に近いカフェで、ノート型端末に向かっている男を見出すことができる。オープンテラスの特等席に腰掛けた男は、時折赤いくせっ毛をいじりながら、黙々とキーを叩いている。


 彼はこの街で唯一、動の存在であった。仕事に疲れたのか、動きっぱなしだった手を止めて、大きく背伸びをした。一息入れるべく、カップに飲み物を注ごうとして、ポットの中身がないのに気づく。彼は端末にある命令を入力して、キーを押した。


 その瞬間、すべてが動き出した。


 人々の足が一斉に地を踏む。静寂の空間から移れば、街の雑踏は爆音に等しい。時計の針は時間を刻み、大通りの遠くにバスが見え始めた。脇見をしていた少年の自転車は、危ういところで街角の女性達を避け、花壇に突っ込んで盛大に倒れた。こうなることは予想していたのだが、カフェの男は自転車の向きを変えてやろうともしなかったのである。


「すみません、紅茶おかわり」


 オズワルドは、近くを通りかかった店員に言った。程なくして、淹れ立ての紅茶が戻ってきた。馴染みの女給がポットを傾ける。赤い液体が湯気を立てながら注がれるのを、オズワルドはぼんやりと眺めていた。


「先生、原稿は進んだんですか?」

「駄目だね、締切に間に合う気がしないよ」

「ちょっと拝見。……あら、随分書けてる気がしますけど」

「ボツを食らえばそれまでだよ。編集がね、間抜けなんだ。プロットは通したくせに、それが破綻するような注文を平気でつけやがる。時間がいくらあっても足りやしない」

「時間が止められればいいんですけどねえ」

「止められたら止められたで、逆の問題が起きると思うがね。時間は有限だからこそ価値があるんだ。時間が無限だとわかっていて、大学のレポートをすぐに書こうと思うかい?」

「きっと、いつまでも手をつけないと思いますわ」

「そうだろう。無限にあるということは、何にもないのと一緒なんだ。つまらないじゃないか、そんなの」

「哲学のことはよくわかりませんね」

「哲学? そんな高尚なものじゃないさ。ただの事実だよ。人が時の流れに逆らおうなんぞ、愚行だと思うね」

「はいはい」


 女給はくすくすと笑いながら、店の奥へと去って行った。彼女の姿が視界から消えると同時に、オズワルドは再びキーを操作した。世界は今一度、静謐へと還った。すべてが予め置物であったかのように、その動きを止めたのである。


「――その愚行を冒してしまったのが俺なんだけどな」


 紅茶にどばどばと砂糖を入れながら、オズワルドは独りごちる。それは自虐であり、世界に対する嫌味でもある。


 彼は時間軸からの落伍者であった。己が時の流れから解放されたのではなく、脱落したのだと自認していた。永遠も須臾(しゅゆ)も、彼にとっては等価であり、無価値であった。かつて誰よりも平穏を、変わらぬ日常を望んだ若者が、今や無限の時を持て余している精神的な老人である。これが本当に自分の望んでいた平穏なのか、いまだに答えが出せずにいるのだ。


 小説に見せかけた世界の管理業務をこなすのも、今ではただの作業になってしまった。一体いつまでこんなことを続ければいいのか。千年の節目を迎えたとしても、自分がこの苦行から逃れられる保障はないのである。他の連中は来るべき時に備えて秘密裏に動いているようだが、オズワルドにはそんな気力もなかった。

 

 少し休憩したら、切りのいいところまで仕事を進めてしまおう。そう自分に言い聞かせながら、カップを口に運ぼうとして、オズワルドは気づいた。端末の画面の中に、ある異変が起きていた。

 

「……何だこりゃ?」


 疲労した目が一気に開いた。閉塞世界の制御機構に、ありえない命令が走っている。重要な部分には偽装を施しているようだが、オズワルドの目はごまかせない。これは召喚式だ。一定の条件を満たした時、『あれ』が呼び出されるように仕込んでいる。


「詠子だな。まったく……」


 誰かが少し前から怪しげな動きをしているのはわかっていた。それは実に慎重に、露見しないことを第一として運ばれていた。制御機構を統括するオズワルドでさえ、気付いたのが奇跡的であったほどに。何を探っているのやら、とにかく尻尾を出すまで泳がせようと、監視の目を常駐させておいて――その矢先である。


 流石にここまで露骨に動けば、蔓の根元は知れる。詠子が例のセカイに干渉しようとしているのだ。オズワルドに知られるのはやむを得ないといった暴挙。おそらくは先の動きで、彼女が激昂するような、面倒なことが起こったに違いない。


 とにかく連絡を取ろうと、詠子の個人端末に呼び出しをかける。だが、後一回キーを叩けばつながるというところで、オズワルドの手は止まった。同じ姿勢のまま十数秒、やがてゆっくりと手を引いたオズワルドは、


「やめた」


 あっさりと職務を放棄して、赤銅色の液体に口をつけた。


「詠子のことだ、何を企んでいるのか知らないが、上手くやるだろう。十中八九、マリアナへの嫌がらせだろうが。案外、あの物語には程よい刺激かもしれないな。……失敗したところで、俺の責任が問われるわけでもなし」


 甘ったるい紅茶を飲み干すと、オズワルドは今日一番の速さで、本来やるべきものとはまったく逆の作業を開始した。詠子の足跡を消そうというのである。操作の痕跡を完全に消すことはできなくとも、誰かが通った後がなければ、自分が『気づけなかった』ことの言い訳は立つ。自ら片棒を担ぐことで、犯罪を完全なものへと押し上げ、己の責任を軽くしようとしているのだ。


 彼はこういう男であった。行動が負の結果を生むくらいなら、最初から何もしないことを選ぶ。右か左かと聞かれれば、迷わず真ん中を選択する。教師の機嫌を損ねずに済むのなら、友人のやった悪戯の隠蔽にも喜んで協力する。


 徹底した中庸。事なかれ主義。


 自ら波風は立てず、他人が立てることも望まず、波に呑まれた者を無理に助けもしない。


 それがオズワルド=キュリオの生き方である。


 とはいえ、本当に隠蔽工作だけに時間を費やすわけにはいかない。女二人が喧嘩しようと知ったことではないが、閉塞世界への負の影響は避けねばならないのだ。事態が悪化すれば、結果的に自分の心労が増えてしまうのだから。


「万が一のときのための仕込みはしておくか……」


 悩みの種を枯らすため、彼は新たな種をまいた。


 それがどんな実をつけるのかは、少年と少女にかかっている。

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