ある商人の記録・8
尼僧が上を指差しながら言うので、商人は釣られて顔を上げた。刃の開けた穴がどこかにあるのではないかと思ったが、蜘蛛の巣一つない天井が広がっているだけだった。生唾を飲み込む。逃げ出したくなるのをこらえて店の中を見回す。油断していたのは事実だ。今になって、自分が魔窟にいるのではないかと思えてきたのである。
片方の翼しか持たない客達。
義手のバーテンダー。
聾唖の女給。
そして、盲目の尼僧。
「言わないでください、言わないでください。――ええ、仰りたいことはわかりますとも」
尼僧はにやにやと笑っている。こちらの反応は予測済みだったらしい。
「でもね、早とちりはよくありません。他人の空似、なんてこともあるかもしれない。……ああ、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ご安心ください。何もしませんから」
商人が椅子ごと距離を取ろうとしたので、尼僧はなだめにかかってきた。
「物語は、何かを手本とすることが少なくありません。登場人物が皆、作者の友人を下地にしていたりね。私達を模倣した人物が活躍するくらい、何のことやあらん。それに、発想というのは星の光のごとく降り注いでいるものらしいですよ。たまたま現実と似通ったとしても、不思議ではありません」
そんな都合のいい偶然があるかと思ったが、尼僧はどこまでも創作で通したいらしい。だが、素直に架空の話と受け止めるには、現実と重なるものが多すぎるのだ。
復興連盟。
ハーウェイ・カルテル。
ミンツァー社。
いくら自分が田舎に引きこもっていたとはいえ、これらの組織の存在くらいは知っている。おかしいとは思っていたのだ。この国が舞台であることはともかく、何故実在の組織や人物までもが登場し、物語に深く関わってくるのかと。
前回の語りの最後に、商人はこれが実話なのかと聞いた。尼僧はそうだとは言わなかったが、明確な否定の言葉は出てこなかったはずだ。彼女の言う通り、荒唐無稽な話だというのはわかっている。しかし。しかしである。
仮にこの物語が実話だとして、それを自分に語ることで、この黒衣の侠客は何をさせようとしているのか。編纂に関わったと言っていたが、関わるも何も、彼女自身が当事者ではないのか。物語を広めたいというのは表面的な話だろう。さらに一段深い理由があるに違いない。上納金を払わずに済むという点だけに囚われて、とんでもないことを引き受けてしまったようだ。
この物語はおそらく、知ってはいけない類の都市伝説に近い。最後まで聞いてしまったら、きっと大変なことが起こる。だからといって、今更やめにするとは口にできない。昨日ある業者との商談で――迂闊にもほどがあるが――尼僧の口利きがあることを話に出してしまったのである。
こちらはすでに尼僧の力を借りているのだ。どこから本人の耳に入るかわからない以上、知らぬふりはできない。物語中での尼僧の行いを聞いては尚のこと。約束を反故にするのがどれだけ危険な相手なのか、もう十分に悟っている。
それに――。
「さて、もうそろそろいい時間ですね。この辺りで切り上げましょうか」
商人は首を横に振った。もう少し先、次の区切りまでと頼んだ。
――ここで投げ出すには、あまりに惜しい物語なのだから。