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契約は血の色で・上(11)

 入ってきたのは、異国の服をまとった女であった。


 どうやら禄峰人らしい、ということしかわからない。黒い髪と、黄色い肌と、彫りの浅い顔立ちと、特徴はすべて備えている。異民族のことなので断定はできないが、年齢はカイラルと同じくらい、いやもう少し下かもしれない。小柄な体躯で、自身の身長よりも長い棒を持っていた。


 カイラルは一目で悟った。この女こそが待っていた相手だと。


「粗相があったとはいえ、私どもを頼ってきてくださった方。無碍に追い払う法がありましょうか。それにね」


 女は薄笑いを浮かべ、こちらに近づいてきた。


「同胞ならいざ知らず、よその方にこの場を仕切られたとあっては、我々も立つ瀬がないのですよ。ここは私の顔に免じて引いていただけませんか」


 言い方は丁寧だったが、それは紛れもない命令だった。そう感じざるを得ないほど、女の声は耳に染み入ってくるのだ。カイラルには、女の顔を直視することができなかった。言われるがままに、男の体を床に下ろし、一歩二歩と後ずさった。冷や汗が顔を伝う。セリアはすでに剣の柄を握っていた。


「結構、結構です。話のわかる方でよかった」

尼御前(あまごぜ)


 老人が女に呼びかけた。尼、つまりは女性の聖職者ということか。社会的弱者を庇護する存在としてはおあつらえ向きだ。しかし女の放っている気配は、明らかに堅気のそれではない。キエルが今回の仕事を依頼するくらいだから、間違いなく社会の裏側の人間である。なおかつ、セカイ使いでもあると。


「この通り今日は千客万来なんだが、どうなさるかね」

「承知していますよ。ナクトと、レイチェルさんと……全員おそろいのようで。何はともあれ、この方の話を終わらせてからにしましょう」


 尼僧は男のそばにしゃがむと、肩を揺さぶって声をかけた。


「もし。もし。お目覚めください」

「う……」


 男はすぐに意識を取り戻した。記憶の空白に戸惑っているのか、ふらふらと周囲を見回しながら上体を起こした。


「お客人。少々痛い目にあわれたようですね」

「……あんたは?」

「ここの責任者ですよ。私が来たからには、余計な手出しはさせませんので。話が途中で終わってしまったようですから、後は私が引き継ぎましょう」

「え? ああ、はい」


 男はよくわからないまま、適当に頷いたようだった。尼僧は満足気に笑うと、


「ではまず、これをお受取りください」


 言うが早いか、男の脾腹に蹴りを叩き込んだものである。


 男はその一撃で再び沈んだ。尼僧は続けざまに、持っている棒を男の鳩尾へ突き下ろし、さらには頭を執拗に蹴り始めた。あまりのことに、カイラルもセリアも唖然となった。


「我々にたかりに来るだけならまだしも、同胞を侮辱しておいて、手ぶらで帰れるとでも思っているのですかねこの畜生は」


 尼僧の足が男の顔を踏みつけた。ばきりと音がして、男の前歯が欠けた。


「うわー痛そう」

「ナクト、ぼうっと見てないで手伝ってください」

「どうするの?」

「歯を全部折りましょう。ああそう、あなたの糸で目と口と耳を縫ってさし上げるのも一興ですね」

「見ざる言わざる聞かざる?」


 ナクトは一緒になって男を蹴り始めた。両側から足蹴にされた男の顔は、青黒く変色して、歪な形になりつつあった。ここでようやくカイラルは我に返った。反射的にナクトを突き飛ばす。小男はごろごろと転がって、わざとらしく痛がっていた。


「これはご無体な」

「それはこっちの台詞だ。無碍に追い払うなって言ったのはお前だろ」

「ええ、ですからこのように、きちんと落とし前をつけさせていただいているわけで」


 とどめとばかりに、尼僧はえぐるような踏みつけを男の顔面に入れた。血が吹き出して、これまでで一番大きな音がした。男の鼻はまっ平らに潰れて、二度と役目を果たせそうになかった。


 半死半生の男を挟んで、カイラルと尼僧は一触即発の空気を抱えた。


「異存があるようですね」

「レイチェルを侮辱したことは許せねえ。でも、ここまでやる必要があるとも思えねえ」

「こちらも、彼女を守ろうとしてくださったことには感謝します。ですがここは、カダル老お墨付きの我らが城郭、いわゆる治外法権地帯というやつです。もう一度忠告しますが、よその方が口出しすると仰るのなら、それなりの覚悟をしていただきましょうか」


 カイラルとセリアは、自然と背中合わせになった。店中が敵になっている気がした。バーテンダーも女給も客達も、直接手出しはしてこないにせよ、尼僧のやることを黙認しているのだ。唯一レイチェルが、大人しく逃げろと視線を送ってきている。


「あんたらの自治を冒すつもりはねえ。けどな、限度ってものがあるだろうが」

「それを判断するのは私です。介入できるのはカダル老ただお一人です。――それとも、何ですか。そこのお嬢さんの手前、この方の罪の重さもあなたが決めたいと仰るので」


 この女、知っているな。


 カイラルはすぐにそう思った。キエルから事情は聞かされているだろうし、先程の会話も拾われていただろう。尼僧は明らかにこちらを試している。駆け出しの処刑人と仮初めの主が、轡を並べて戦うに足る存在かどうか、値踏みをしているのだ。


 ザトゥマのときの轍は踏みたくない。すぐにでもこの場を去るのが最善だが、残された男がどんな目に遭うかわからない。何よりも、尼僧が逃走を許すかどうか。


 結局は、押し通るしかないのだ。


 先に動いたのはカイラルだった。横たわる男を飛び越え、尼僧に躍りかかる。あの棒がただの杖代わりとは思えない。距離を取るだけこちらが不利だ。ならば懐に潜り込んでしまうに限る。


 緩急織り交ぜて、左右の拳を放つ。だが、捉えられない。死の気配は読んでいるはずだが、どういうわけだろう、決して速くはない動きで尼僧は攻撃を避け続ける。カイラルの予測を、さらに先読みしているかのようだ。


 ハイリは正統派の武術を修めた戦士。ザトゥマは我流で殺しの技を磨いた殺人鬼。その中庸とでも言うべき、独特の動きを尼僧は見せる。見せながら、奥へ奥へと移動する。障害物の多い場所では、長物は不利なはずだ。カウンター付近ならまだしも、より天井が低く、椅子やテーブルだらけのところでどうするのか。


 二人は店の一番奥で向かい合った。お互いに、もう一息踏み込めば壁際に追いつめられてしまう間合いだ。ここに来て、尼僧が攻めに転じた。棒が大きく振り回される。カイラルは屈んで避ける。体勢はどうしても一瞬崩れざるを得ない。返しの一撃が来る。カイラルは受けると同時に、後ろに飛んで勢いを殺したが、それは壁と密着することを意味した。もう後がない。


 しかし、戦いの律動は乱れた。棒の端がテーブルに引っかかったのだ。


 勝機と見た。カイラルは一気に距離を詰めようとした。


 尼僧は動かなかった。防御の姿勢すら取らなかった。代わりに、右の人差し指をそっと下に向け、


動くな(***)


 ただの一言。それだけだった。


 しかしその言葉は、百の岩をも上回る重さを持って、カイラルを押さえつけた。


 耐えかねてカイラルの体が崩れ落ちる。尼僧は落ち着き払って、棒の先端を包む袋を取り除くと、その下から現れたものを疾風のごとく突き出してきた。


 カイラルの顔の真横に、銀色の刃が突き立った。それはただの棒ではなかった。槍だったのだ。


 勝負あり、とつぶやいて、尼僧は意地悪く笑った。


「順序が逆になりましたが。お待たせして申し訳ありませんね、カイラル=ヴェルニーさん。キエル大姉様からお話はうかがっていますよ」


 その時初めて、カイラルは尼僧の顔を正面から見た。そして、相手が想像以上に恐るべき存在であると知った。尼僧はずっと、目を閉じたままだったのだ。


「お前、目が」

「ええ、見えませんよ。生まれてこの方、お天道様の光とやらを拝んだことはありません」


 尼僧は薄っすらと目を開いてみせた。光を受け止められない眼が、ありもしない焦点を探してさまよっている。誰が予想し得たろうか。彼女の双眸は、カイラルのそれと同じ、死の色に染まっていたのである。


 額が触れ合うほどのところまで顔を近づけ、同類に向かって尼僧は名乗った。


「エスハ=シューレと申します。以後お見知り置きを」

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