契約は血の色で・上(10)
「でかい声出さんといてくださいな。店の中ですよ」
男の向かい側に座っている老人が、多少訛りのある口調で言った。何の騒ぎかと、店中の視線がそこに集まっている。しかしカイラルの目を引いたのは、言い争う二人ではなく、ともにテーブルを囲んでいる女性だった。
「……レイチェル?」
ナイトレイドのベーシストがそこにいた。手足を組み、自らは何も言わず、男二人の口論を見守っている。
外見から想像しにくいとはいえ、彼女も不自由を持つ身ではあるから、こういった場所に出入りしていても不思議はない。が、何のためにこの場に同席しているのか。
「私らも慈善事業でやってるわけじゃあない。ここは私らみたいなもんの互助会なんです。五体満足の人に仕事を紹介するからには、これくらいは負担してもらわんと」
「だからって、毎月こんな額の上納金を払えるわけ……」
「ほんなら、当座のお金だけでも借りていきますか?」
金利はこんなもんですがね、と老人が書類をつまんで見せつける。その手は小刻みに震え、動きもどこか遅く小さく、固い。無表情というよりは強張った顔をしている。そういう病に冒されているのだろうか。
男は書類をじっと見ていたが、やがてそれを老人から引ったくり、くしゃくしゃに丸めてしまった。
「馬鹿げてる。どんな暴利だよ」
「家も仕事もない人に、まとまったお金をポンッと出すんですから、当たり前でしょう。これでも飲めないなら、素直に復興連盟に保護を申請した方がいい。カダル老は被災者の今後について、一切の責任を持つと仰ってるじゃないですか」
「信用できるかそんなもの! 知ってるぞ、復興のことも俺達への保障のことも、連盟内部じゃ何一つまともに決まってないんだろ!」
「さあ? 私なんぞに連盟の内情や、お偉方の考えはわかりかねますな」
突き放すような態度に、男はまだ何か言い返そうと肩を怒らせたが、それまでだった。殴りかからんばかりの腕をどうにか引っ込め、男はテーブルに突っ伏した。
「ああ……こんなことになるんなら、この街に引っ越してくるんじゃなかった。危険を隠してたハーウェイの野郎を俺は一生恨んでやるぞ」
どうやら彼は、リバーブルグの復興関係者らしい。先日の騒ぎで恐れをなして逃げようとしたが、頼れる先もないのでやむを得ず留まっていたものか。老人が五体満足と言っていたから、本来ならばここにいるべき人間ではないのだろう。仕事の斡旋なり借金なりを依頼しようとしたものの、同胞ではないが故に法外な条件をふっかけられたと見える。
カイラルも気が気ではなかった。復興連盟が支配するこの街では、復興に対する生の不安を堂々と口にする者は少ない。先日の騒ぎの後も、文句のある者は言葉にするより先に逃げ出してしまったから、直接的な批判をカイラルが耳にする機会はなかったのである。
カダルが復興を推し進めた真意を知っていても、それをこの哀れな男に言ってやることはできない。それは彼を巻き込むことになるからだ。そして何も事情を知らない立場からすれば、この十年間の復興施策は、何の安全も担保されていない自殺行為にしか映らないのだ。
まして、この男がわざわざ外部からやってきてくれた身なのであれば、その心情を今一度覆すことは、ほとんど不可能に近かろう。
他人のこととはいえ、レイチェルも関わっているらしい問題だ。自分も何か口添えしてやるべきだろうか。それとも、余計な横槍はやめておくべきだろうか。カイラルは迷った。
そこへ。
「アホくさ」
沈黙を守っていたレイチェルが、白けきった顔でぼやいた。
「泣きついてくるからここ紹介してあげたのに、自分の都合ばかり主張してさ。交渉に向いてないよあんた」
男が顔を上げた。面と向かって否定され、一度消えかけた火が再び燃え盛ってきたようだ。老人が制止しようとしたが、レイチェルは構わずに続ける。
「大方、お友達価格で割のいい仕事でも紹介してもらって、小金稼いだらトンズラかますつもりだったんでしょ? 甘いよ。ここの人達は、客を連れてきたのが誰かなんて気にしない。純粋に本人の人となりを見るんだよ」
「最初から言っとけよそういうのは!」
「言っちゃったら意味ないでしょ。それと、ここの人達の横のつながりは強くてね。同じような集まりが都市同盟中にあるんだから。どこに逃げたっていつかは捕まる。ま、最初から詰んでたってこと」
男は立ち上がり、テーブルを力任せに殴った。飲みかけのグラスが揺れ、書類が散乱する。
「何なんだよお前は! 俺をおちょくってるのか!」
「別に。ここで誠心誠意事情を話すようだったら、助け舟でも出してやろうかなと思ってたけど。見苦しくわめくだけの男をかばう理由はないね」
「じゃあどうしろって言うんだよ! こっちは家も仕事も貯金もないんだぞ!」
「貯金がないのはあんたが私に貢ぎまくったからじゃない。そこまで責任持てないわ」
レイチェルは涼しい顔でストローを口に運んだ。どうやら、事の経緯が明らかになりつつある。この男、あまり褒められたものではない人生を送ってきたらしい。レイチェルがここに連れてきたのはファンのよしみか、同じ被災者としての同情か。
男は憤然と身を震わせていたが、やがて、
「そうか。そんなに他人が自分と同じ目に遭うのが楽しいか」
乾いた笑いを漏らし、怒りとは別の、暗く湿った感情を露にした。
「調子こいてんじゃねえぞ売女風情が。そうだよな、お前は十年前に何もかもなくしちまった挙句、頭までイカれちまったんだもんな。俺がひぃひぃ言ってるのを見て笑ってるんだろ」
「あんた何勘違いしてんの? それとこれとは関係ないよ。同じ立場の人間を馬鹿にするわけ――」
「その言い方がムカつくって言ってんだよ底辺が!」
男はレイチェルを指差すと、世界中に宣言するかのごとく叫んだ。
「俺はまだお前らと同じところまで落ちちゃいない!」
レイチェルは泣きも怒りもしなかった。ただ男を憐れむような目を向けていた。だが、わずかに表情が曇ったのも確かだった。発作的な感情の揺れ動きに、必死に耐えているのかも知れなかった。
荒い息をつきながら、男はどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。だからだろう、いつの間にか背後にあった人影にも、なかなか気づかなかった。
「……あ」
振り返った時にはもう遅い。カイラルは男の胸ぐらをつかむと、有無も言わせずに頭突きを食らわせた。鈍い音とともに、盛大な火花が散るのが誰の目にも見えた。
「あ、カイラル、ちょっと」
「叩き出すぞ。いいな」
レイチェルが止めるのも聞かず、ぐったりした男を脇に抱え、カイラルはずかずかと歩き出した。
友人を守るためにやった、と言うつもりはない。カイラル自身、この不遜な男を叩きのめしたくて仕方がなかった。つい先程まで、この男に抱いていた気持ちはすっかり消えてしまっていた。誰であろうと、今を精一杯生きる者を侮辱することは許せなかった。同じ被災者という立場にありながら理解できないのなら、少しお灸をすえてやる必要があるだろう。
すると。
「あの」
何を思ったのか、セリアが男の片腕を取って言った。
「よければ、私が」
「うん?」
「この男は、レイチェルさんを侮辱したわけですから」
「……拷問の命令でも出せってか?」
早速の自己主張を怠らないのには感心するが、どうにも前のめりだ。こんな小者、そこまでやるような価値もないし、今はまだ仮契約もいいところだというのに。まったく応じるつもりはなかったが、せっかくの熱意を無下にするのもどうかと、上辺だけ付き合ってやることにした。
「何ができる」
「本当は、自前の得物があれば一番いいのですが。即席でできそうなものでしたら、鞭打ちや杖打ちでしょうか。火ばさみがあればそれを真っ赤に熱して……」
痛々しい解説が始まった。レイチェルやバーテンダーも、こればかりは顔が引きつっている。女給も物騒な気配を察したのか、眉をひそめている。そういえば、ここには手だの足だのがない人間もいるのだった。まずいことをしたと、カイラルはすぐさま後悔した。
「後は、指を潰すとか。もちろん、あなたが万死に値すると仰るのなら、首を刎ねるのも絞るのもやってみせますが」
「いや、やっぱいいや。表に転がして水でもぶっかけて……」
話が無駄に大きくならないうちに、始末をつけようとした時である。
「それは少しお待ちいただけませんか」
よく通る声とともに、店の入口が開いた。