ある商人の記録・1
話はそこで区切られた。商人が我に返ったのは、十数秒も経ってからだったろう。
昔から物語は好きな方だったが、それを抜きにしても、時間の経過を忘れるほどに引き込まれていた。これは恐らく、彼女の語りの巧みさにあると思われた。彼女はこちらを見て微笑しつつ、湯飲みに溜まった緑色の液体をすすっている。しばし休憩というところか。
商人は、そもそも彼女の語りを聞くに至った事情を思い返していた。
商人は人を探していた。この街を取り仕切っている非合法組織、その援助を受けるために、組織の人間もしくは仲介者を求めていたのである。できればこのようなことはしたくなかったが、この街で生きていくにはそれが最善の方法だと教わった。心配なのは上納金だが、それについては何とか交渉するしかあるまい。
意外にも、接触の機会はすぐにやってきた。街を牛耳っている最大勢力、その傘下に位置するとあるグループなら、話のわかる人が多いと耳に挟んだ。若者ばかりの小規模な組織なのだが、リーダーが親組織の総代の縁者、それもかなりのやり手とかで、結構な幅を利かせているらしい。これを逃す手はないと思った。
探し回った結果、組織の営業担当だという人物に出会えた。露天商が「その人だよ」と言うので、指差された方向に目をやると、一人の女性が子供たちに囲まれ、何やら話をしていた。その女性も十分少女と言えるような外見で、顔にはまだあどけなさが残っている。
しかし何より、その服装が気になった。女性はやけに袖口の広い、見慣れぬ形状の服を着た上に、胸から股にかけて覆う布を肩に引っ掛けている。確か、遥か北に住む民族が着ている服だったはずだが、今までに見たものとも印象が違う。店主が言うには、あれはその地方の僧服なのだそうだ。つまり彼女は僧ということか。若いのに大変なことだ、と素直に驚いた。
「気を悪くさせないように」と露天商に忠告され、恐る恐る女性に近づいてみると、彼女はこちらに気づいた様子で振り向いた。適当に話を切り上げて子供たちを散らせると、女性はお待たせしましたと言って立ち上がった。こちらこそお邪魔してすみませんと答えた。
商人はそこで初めて、彼女が盲目だと気づいた。彼女はずっと目を閉じたままだったからだ。
立ち話もなんですからと、女性は商人を酒場へと誘った。
彼女は先端が袋に包まれた棒状の物体を持っていた。それは白く塗られていたが、盲人の持つ白杖ではないことは一目でわかった。その物体はあまりに長く、女性の身長を大きく上回っていたからである。何より彼女は、勝手知ったるとばかりに人ごみの中をすいすいと抜けてゆく。杖の助けなど必要としていないのだ。土地に明るくない分、下手をすると商人の方が巻かれてしまいそうである。
どうにか酒場にたどり着いた時には、商人は少し汗をかいていた。女性の背中に続いて扉を潜ると、薄明かりの中で静かな音楽が流れる落ち着いた空間があった。人と待ち合わせるにはちょうどよさそうな場所である。
商人は冷たい酒を頼んだ。初老のバーテンダーがグラスの用意をする。商人はその動きに違和感を得、その理由に気付いてまたしても驚いた。バーテンダーの左腕は、義手であったのだ。かつてこの街を襲った惨劇で失ったという。
後でわかったことだが、彼女はこの街に住まう障害者達の顔役でもあったらしい。
商人は仕事の話を切り出した。近々この街に店を持ちたいと思っているのだが、見ず知らずの土地であるし、何より治安が気になる。あなた方の傘下に入れば身の安全は保障されると伺ったのだが、どうなのだろうか。
「確かにこの街は、以前に比べれば改善傾向にあるとはいえ、危険に満ちています。何故そのような場所で商売などをなさろうと」
商人は語る。自分はこの街の生まれであること。父も同じ商売で家族を養っていたこと。十数年前の惨劇で父を失い、駅二つ先まで引っ越したこと。その街に店を構え、どうにか一人で食べていけるまでにはなったこと。そして、自分は今でもこの街に親しみを持っているのだということを。
「つまり、お父上の眠る街で、再び生きてゆきたいと」
笑みを浮かべる商人。相手の表情で、どうやら話を受けてもらえそうだとわかった。続いて金銭的な話に移ろうとすると、女性がいたずらっ子のような表情を浮かべた。
「本来なら契約金として、この場でいくらか納めていただくのですが、実は納めなくて済む方法があるんですよ」
商人は身を乗り出した。そこらの八百屋ではあるまいし、まさか向こうから値を下げてくれるとは。あまりにも庶民派なアウトローだ。
その代わり、無理難題を吹っかけられるのではないかと危惧もしたが、その心配は無用だった。ただ、おかしな提案であるという点は当たっていた。
「私は語り部、物語士としての顔も持っておりまして。古い民話などを市井で語って、道行く人々に聞いていただくのです。そうやって、古いお話を後世に残してゆくわけですね」
ふむふむ、と頷く商人。
「その中でも、つい最近になって作られた、非常に新しい物語があります。実は私も編纂に関わっているのです。ところがこれ、できたばかりであるためか、知名度が低いのです。おまけに大変な長編でもありますから、語って広めようにも敬遠されてしまうのですよ。私としては大いに布教したいのに。……もうおわかりになりましたね。契約金を払わずに済む方法とは、このお話を聞いていただくことです。無論、最後まで」
少し戸惑ったが、商人は承諾した。話を聞くだけで金を取られずに済むのなら、受けない道理はない。ただでさえ、引越しの費用やら何やらで金が入り用なのだ。
して、その物語とは、どれほどの長さなのか。
「休みなしに丸一日語れば終わるかもしれませんが、それではお互いに持たないでしょう。ですので、分割払いということにいたします。こちらの空き時間をお教えしますので、いつでも都合のよい時にいらしてください。何日でも、何ヶ月かかっても、最後まで聞いていただければ結構です。ん? ああ、契約は直ちに履行させていただきますよ。ご安心下さい」
商人はその場で契約を交わし、物語は始められた。
それが小一時間ほど前のやり取り。
そして今しがた語られたのが、その物語の序章というわけだ。
「いきなり長々と、違うセカイのお話をして申し訳ありません。さぞやお聞き苦しかったことでしょう。……しかし、これでもまだ序幕なのです。次に切りのいいところまで語り終えるにも、相当の時間を要します。続きをお聞きになりますか?」
商人は一も二もなく頷いた。疲れはあったが、もう少し長く、彼女の語る世界に浸かっていたかった。彼女と世界を共有したかった。
女性の顔に笑みが浮かぶ。
「承りました。続けるとしましょう。お疲れになったら仰って下さい。いつでもやめにいたします。……まあそれでも、序幕に比べればいくらか聞き易いはずです。次の舞台は少々時間を遡り、セカイを移りまして、ここ――リバーブルグから始まりますので」