契約は血の色で・上(9)
その店は、確かに地図通りの場所にあった。両側に店が並んでいる路地があり、そこからさらに細い路地が枝分かれしている。その一番奥の建物の、外壁が少しへこんだ先に扉があった。営業中の札はかかっているが、他の店と違って看板も出ていない。夜ともなれば周囲の明かりに埋もれてしまうだろう。隣の店の勝手口と間違われそうな具合である。
「なるほど、これじゃ気づかねえわ」
「わざと目立たないようにしてあるみたいですね」
「隠れ家的ってやつなのかね。建物は十年前からの生き残りみたいだが……」
年季の入った木製の扉が、入口をしっかりと守っている。扉には『片翼の鳥』という店名とともに、何やら絵が描いてある。花のようにも思えたが、よく見るとそれは鳥であった。翼が片方しかない鳥が三羽、支え合うように、あるいはもつれ合うようにして飛んでいる。三つの頭を持つ怪物を思わせた。
カイラルが取っ手に手をかけると、嫌な痺れが腕を伝ってきた。悪意や敵意ではない。しかし決して歓迎はしていないという、扉の向こうからの意思表示である。二人とも得物が剥き出しなのが気にかかったが、今更仕方がない。
行くぞ、とセリアに声をかけ、カイラルは扉を開けた。
中に入ると、夜になったかのような錯覚を受けた。照明は控えめで、窓は一つもないようだ。ここの空気は昼も夜も変わらないのだろう。薄明かりの中で静かな音楽が流れる空間は、すべてが外界から隔絶されている。酒と話相手がいれば、時間を忘れて過ごしてしまいそうである。
いい店だ、と思った。あくまで店自体はだが。
意外にも、店内には数人の先客がいるようだ。街から人気が消えている今、これは十分賑わっていると言うべきだろう。カウンターの中から会釈してきたバーテンダーに、カイラルは用を告げた。
「キエル=ヴェルニーの紹介で、人に会いに来たんだけど」
「承っております」
拭き終わったグラスを置きながらバーテンダーが言った。
「本人は他用で出ておりますので、今しばらくお待ちください」
「その人はここの店員なのか?」
「経営者のようなもの……ですか。普段は私が店を預かっておりまして、本人は店を空けていることが多いのです。何分忙しい身でして、国中を飛び回っているものですから」
「ふうん……」
その時ふと、カイラルは違和感を覚えた。グラスを拭くバーテンダーの腕の動きが、どことなくぎこちない。
「ああ、これですか」
バーテンダーは、左腕をぷらぷらと振ってみせた。
「義手ですよ。十年前にね、やってしまいまして。慣れればそう悪くはありませんよ」
「……そうですか」
触れてはいけないところに触れてしまったかもしれない。顔は笑っていても、心の奥底で古傷が疼いていることはよくあると、同じ十年前の傷を持つ者としてカイラルは理解している。興味がない風を装って、案内されるがまま、奥のテーブル席へ腰かけた。
少し間を置いて、やってきたのは若い女給であった。清楚な雰囲気の美人なのは一目でわかったが、笑顔を見せることもなく、メニューを渡してきたのみである。どこか引っかかりを覚えながら、カイラルはメニューに目をやった。セリアは同じものでいいと言うので、適当に「エール二つ」と注文した。
しかし女給は動かない。何事もなかったかのように棒立ちしている。聞こえなかったのかと思い、言い直そうとした時である。
「それじゃ駄目」
背もたれの反対側から、ひょいと顔を出してメニューを取り上げた者がいる。彼はメニューを女給に見せながら、エールのところを指差し、指を二本立ててみせた。女給は頷いてメニューを受け取り、踵を返してしまった。
どこの世話焼きかと思えば、つい先程会ったばかりの人物。ミンツァーの護衛の小さい方、ナクトであった。
「……どうも」
「そっち行っていい?」
「えっ」
「多分、同じ人。待ってるの」
どうやら先程の会話を聞かれていたと見える。そう言われると、無下に断るのもおかしく思え、カイラルは警戒しつつ頷いた。セリアはカイラルと向かい合って座っていたが、慌ててカイラルの隣に移動し、元の席へナクトを誘導した。何しろ、先般彼女を拉致した張本人である。夜には同行する相手とはいえ、気安く隣には置けないようだ。
ナクトもその様子を察してか、セリアには改めて頭を下げた。
「この前はごめんね」
「いえ……別に」
「でもこっちも仕事。それにセカイ法見せちゃったからおあいこ。蜘蛛の能力、ああいう仕事のときにすごく便利。なのに気持ち悪いって言われる。ひどい。猫とかの方が受けがいいのは承知」
「猫……」
「にゃー」
ナクトは寝ぼけ眼のまま、手で猫耳を作ってみせた。笑いでも誘っているのかと思ったが、どうやらこれが彼の素らしく、二人は反応に困った。どうしてまた蜘蛛を操るセカイ法などを使うのかは知らないが、セカイ使いは千差万別、猫を操るセカイ使いもどこかに存在するのだろう。そうなるとバラまくのも猫になるわけだが。襲撃時の光景を猫で再現すると、そのままさらわれても悪くない気がしてくる。
「俺もザトゥマと同じ所属。でも、ザトゥマは殴り合いしかやらない」
「あいつはそれしかできないし、したくないんだろ」
「うん。だけど俺は、他にも色々やる。諜報活動とか、情報操作とか、破壊工作とか、あとね、防諜に暗殺に……」
「しーっ!」
あまりに堂々と言うので、カイラルは思わずたしなめた。先程からの様子といい、この小男はどこまでも自分の歩調を崩さないようだ。半分眠っているかのような顔つきと、少々舌足らずな口調が、こちらの油断を掻き立てる。まずいとわかっていても向こうの調子に乗せられてしまう。ザトゥマとは別の方向で付き合いにくい相手である。
相手にするのに疲れたところで、ちょうどよく飲み物が運ばれてきた。女給は今度も、無言でグラスを置いたのみで、礼の一つもなく去ってしまった。
「愛想のない女だなあ」
「そう?」
「注文だって、メニュー指ささないと受け付けなかったろ」
「だって、仕方ない」
ナクトが指差した方を見ると、女給がバーテンダーと会話していた。しかし口から言葉を発してはいない。身振り手振りで意思を伝えている。
「彼女、聞こえないし、喋れない。生まれつき」
カイラルは、はっと気づいて店内を見回した。帰ろうと席を立った老人は、義足だった。少し離れた席で談笑している女性は、背中が大きく曲がり、片腕は縮んであらぬ方向へ曲がっていた。顔がひどく焼けただれ、年齢も性別もはっきりしない者もいた。そして、義手のバーテンダーと聾唖の女給。
「ここはそういう人が集まる場所。生まれつきでも、そうじゃなくても。翼がもげた鳥が逃げ込んでくる場所」
セリアは気が気ではないようだった。常人としての機能が欠けているわけではないが、彼女もまた、翼のもげた鳥であった。誰にも理解されず、どこにも行き場のなかった頃を思い返しているのかもしれない。
「キエルもロゼも、だったらそう言えよ……」
カイラルが苦い顔で、エールを煽ろうとした時である。
「――んだとこの野郎!」
テーブルを叩く音とともに、怒声が店内に響き渡った。