契約は血の色で・上(8)
扉の周囲に、黒い髪のようなものが絡みついている。揺らいでいた空間が修復されてゆく。入り口が本来あるべき位置へ接続されたと見える。
「ずいぶんのんびりしていたな」
「あなたが迷路を複雑にしすぎなのよ」
「正解の道は気配でわかると言っていたから……」
「同じところを三周して引き返すと上の階に行けるとか、無駄に凝りすぎじゃないかしら。飽きたからショートカットしてきたわ」
軽口を叩くようで、とんでもないことを言っている。即興で展開したとはいえ、シャルルの空間支配はそう簡単に破れるものではない。同じ空間使いでもない限り、格上のセカイ使いからの干渉でも防ぎきる自信はあった。それをこの女は、立て付けの悪い扉をこじ開けるくらいの労力で突破したのだ。
これが死のセカイ使いというのなら、なるほど、閉塞世界にとっては脅威だろう。ミンツァーが図に乗るのも頷ける。世界の力を相手にどこまで通用するのかはわからないが。
シャロンは下がっているように命じてきた。大人しく従うと、シャロンの目はアルヴァレズに向けられた。
「ミンツァーはこの度のことで、あなたを個人的に恨むつもりはない、と申しております。復興連盟に訴え出る予定もありません」
「恨まんだと? じゃあ何だ、俺のこのザマは」
「そこはそれ、けじめはつけなければなりませんので」
そのけじめに、アルヴァレズの命は含まれていないらしい。ミンツァーにとっては、厭世会の存在は脅威ではなく、叩き潰したところで何の益もない。派手な報復は見せかけだけで、実害は微々たるもの。外部には漏らさず、体面にも配慮した。そして洗いざらい白状した勢いのままに、
「本題に入りましょう」
「む……」
気づいた時には、相手は交渉のテーブルにつかされている。本来ならば、密室での謀議など絶対に応じないであろう間柄である。しかし自分に負い目がある状況で、一歩も二歩も譲られれば、恐る恐るでも踏み込んできたくなるものだ。
「あなたは当社が復興に非協力的であるとお考えのようですね」
「当たり前だ。誰が見たってはっきりしてるじゃねえか」
「私どもにとっては、リバーブルグが当面あのままの方がありがたいだけのこと。復興は目的を果たし次第、本格的に手を付けたいのです」
「その目的がろくでもないことなんだろうと俺は言っているんだぜ」
「では、何もかも話せばよろしいですか」
アルヴァレズは答えなかった。聞いてしまえば後には退けなくなる。値踏みは先にすませなければならない。
「お前さん確か、ミンツァーの秘書だったな。率直に答えろ、復興はこの先どうなると思う」
「そう遠くないうちに撤退することになるでしょうね。ハーウェイ・カルテルが主導する形のままなら、ですけれど」
「お前らなら復興を続けられるかのような口ぶりだな」
「ええ、そう申しております」
シャロンはあまりにもあっさりと言ってのけた。
「ですが、すべては本懐を成し遂げた後のこと。そのため方々へ手を回してきましたが、これまではハーウェイ会長に睨まれて、思うように動けなかったのです。今、流れは確実に変わろうとしています。厭世会は最初期から復興に関わっていたのでしょう? 無駄金を払っただけでめそめそと逃げ帰るのも情けのない話。私どもと虎穴に入ってはいただけませんか。危険に見合うだけの見返りは保証いたします」
「いや、いかんだろう、それは」
アルヴァレズは激しく首を振った。誘惑を振り払って、理性にしがみつこうとしているかのようである。
「うちはカルテルと長年よろしくやってきて、そのおかげで他の組織からも信頼を得ているんだ。それが今更風向きが変わったと言ってミンツァーと手を組むんじゃ、内にも外にも面目が立たん。わかるだろう?」
「もちろんです。ですから、私どもの派閥に鞍替えしてほしいとまでは申しません。ただ、こちらが動きやすいようにしていただければ」
「むう……」
迷っている。
一度は開き直って死を受け入れ、地獄に落ちる覚悟を決めたはずの男が、降りてきた綱を前にして迷っている。それを垂らしているのは悪魔だとわかっているはずなのに。
アルヴァレズは正しい。彼がミンツァーを狙ったそもそもの理由は、復興のためだ。彼にとっては復興が何よりも優先されるべき命題なのだ。それを見失っていないからこそ迷う。状況が一変した今、カルテルへの義理立てとミンツァーへの協力は、アルヴァレズの中で等価である。
「考えさせてくれ」
「わかりました。お返事はいつでも結構です。行動で示していただいても構いません。――何もなければ、こちらも何もしないだけですので」
現状維持という逃げ道を示して、シャロンは話を打ち切った。今更その選択肢を選ぶ余裕が、アルヴァレズにあるだろうか。彼が動かずとも、リバーブルグを巡る状況は動く。座して待つだけの者には、緩やかな終わりが迫ってくるのだ。
シャロンに促され、シャルルはセカイ法の解除を始めた。大気が波打つような感触とともに、空間が元に戻ってゆく。アルヴァレズはうなだれて、一声も発しない。すっきりしない気持ちを抱えたまま、シャルルは外へと転移した。