契約は血の色で・上(7)
殴り込みだ、という叫びから十分も経っただろうか。
空の歪みに巻き込まれ、音を立てて男の腕がねじ曲がった。雑巾のように絞られたそれは、肉も骨もちぎれて、最早元には戻らない。男は声にならない叫びとともにうずくまった。血だまりが広がる中を、次の相手が突っ込んでくる。振り回されるナイフにもシャルルは動じない。黒い壁が――自動行使される空間障壁が――斬撃を尽く受け流す。相手がひるんだところを狙って、シャルルが掌の先を突き出すと、黒い光が走った。空間の断層は、どんな名刀をも凌ぐ刃となって、男の肘から先を切断した。
争いもそれまでだった。残る者達は、目の前の光景に慄き、我先にと逃げ出した。
「やれやれだな……」
無力な者達をセカイ法で蹂躙することに多少の申し訳なさを覚えながら、シャルルは階段を上った。
「一階はやられちまったみたいですよ! どうすりゃいいんですか!」
「馬鹿野郎逃げるんだよ! 早くしろ!」
三階から怒鳴り声が聞こえてくる。突然の襲撃に、内部は混乱しきっているようだ。階下が制圧されたことで逃走を図ろうとしているらしいが、そうは問屋が卸さない。
「オヤジさん駄目です! 窓の外も真っ黒な壁があって……」
「どうなってんだオイ! どうして扉が全部トイレにつながってるんだ!」
空間を滅茶苦茶につながれた屋内は、出口など存在しない迷路だ。外部からは隔離してあるので窓から逃げることもできない。この建物自体が巨大な密室である。
標的は三階の奥の部屋にいるらしかった。閉まったままの扉を空間転移ですり抜ける。中にいたのは二人。音もなく現れた闖入者に仰天しつつも、若い方の男がもう一人をかばいながら拳銃を抜いた。火薬の爆ぜる音が連続して響いたが、一発たりともシャルルには届かない。シャルルが無言で左の方を指差すと、男の体はふわりと浮き、壁に現れた黒い穴に放り込まれた。穴はすぐに塞がって、男の叫びも掻き消えてしまった。
残ったのは小太りの中年男である。腰が抜けてしまったらしく、仁王立ちするシャルルの前で、酸欠の魚のように口を動かしている。
「リットリア厭世会のバルク=アルヴァレズ会長とお見受けする」
「ななな何だお前は! リバーブルグに現れた化け物ってのはお前のことなのか!」
「無関係とは言わないが、あんな屑と同列に扱われるのは心外だな。それより質問に答えてもらおう」
ずいと詰め寄るシャルルに、アルヴァレズは縮み上がった。
「しばらく前……そう、リバーブルグで災害があった日のことだ。あの日の昼間、リバーブルグのスラム街でクインシー=ミンツァーが何者かに襲撃された。お前の差金だな?」
「し、知らん。俺は何も知らん」
「しらを切っても無駄だ。お前の部下がすべて教えてくれたぞ」
嘘は言っていない。シャロンが襲撃者達の魂からしっかりと聞き出したのだ。それと引き換えに、彼らは命を落としてしまったが。アルヴァレズの顔色がみるみるうちに青くなってゆく。部下が消息を絶った以上、襲撃は失敗に終わったものと悟っていたはずである。報復に怯え、夜も眠れぬ日々を過ごしていたことだろう。
なおも口をつぐむアルヴァレズに、シャルルは「仕方ない」と片足を踏み鳴らした。同時にアルヴァレズの姿が消えた。床に巨大な穴が空いたのである。すんでのところで穴のふちに手をかけたアルヴァレズは、恐る恐る下を見て目を剥いた。そこに広がっているのは階下の部屋などではなく、無限の深さを持つ闇だったからだ。
辛うじて引っかかっているアルヴァレズの手に、シャルルは容赦なく足を乗せた。聞くに耐えない悲鳴が上がる。
「いつまでもホラを吹いていると、永久に落下運動を続けることになるぞ」
「わ、わかった! わかりましたから! 全部白状する! だから助けて! せめて日の当たるところで死なせてくださいってばぁあああ!」
降伏宣言を聞くが早いか、闇は中年男を吐き出した。小太りの体がごろごろと転がる。しばらく荒い息をついていたが、やがて腰をさすりながら立ち上がった。ふらふらと歩き、何をするのかと思いきや、近くの棚から酒を取り出した。これくらい許せ、と言わんばかりだ。どう足掻こうが自分は消されるものと覚悟したと見える。シャルルも強いて止めようとはしなかった。
椅子に腰掛けたアルヴァレズは、グラスに注いだ酒をストレートで煽り、
「ミンツァーが邪魔だったんだ」
打って変わって、吹っ切れたように喋り出した。
「あいつは旗揚げの頃から復興連盟に加わっちゃいるが、実のところ街を復興させるつもりなんかないんだ! いつもいつも下らんことで難癖つけて、ハーウェイの足を引っ張りやがって! 奴が何を考えているのかは知らんが、原因はあの『穴』だ! ハーウェイとミンツァーはあの『穴』について何か知っていて、そこで意見が割れているに違いないんだ!」
その対立の理由をシャルルは知っている。シャロンやミンツァーから話は聞いていたし、断片的にではあるが、与えられた資料から情報を読み取ってもいた。しかし事情を知らない者達からすれば、復興連盟の二大巨頭は、不可解な動きが多すぎるのだろう。
「スラムに現れた化け物のことにしてもそうだ。ハーウェイは俺達に情報を伏せていたが、キエルの姉ちゃんの言う通り、俺達はまだ関わるべきじゃないようだ。その化け物がお前のようなのばかりなら尚更な。だからハーウェイを叩くつもりはない。……ミンツァーが俺達に情報を公開した理由は何だ? 奴は俺達を煽って何をさせようとしている? どうせろくなことじゃないさ。クラックスとの休戦以来、ミンツァー社は飯の種を探してあちこちの争いに首を突っ込んでるんだからな。北の方で、禄峰の異民族どもが襲撃を繰り返しているのも、真相はミンツァーが余計な挑発をしているか、下手すりゃ裏で操っているらしいぞ、あの戦争屋め!」
瓶に口をつけて、アルヴァレズは一気に酒を流しこんだ。
「よしんば街が蘇ったところで、リバーブルグの安全保障の大半はミンツァー社が担うことになるんだ。そういう取り決めなんだそうだ。その辺の企業の警備も、街全体の治安維持も……下手すりゃ警察権まで連中に持って行かれちまう。これまでハーウェイ・カルテルが仕切ってきた諸々が奪われるんだ! カルテルにくっついて食わせてもらってきたうちのような弱小にとっちゃ、見過ごせるわけないんだよ!」
「だから殺そうとしたと。……随分とまあ直接的な手段に出たものだな」
「それくらいやらなきゃあの男は潰せんよ。だが、それももうお終いだ。安全の保証がまったくないとわかった以上、復興事業からは手を引くしかない。下手すりゃハーウェイの爺さんも隠居させられて終わりだよ……ああ」
アルヴァレズは両手で顔を覆った。漏れ聞こえる嗚咽に、シャルルは胸の痛みを覚えずにはいられなかった。自分の物語においては、一登場人物にすぎないはずの男にである。事の真相を知るミンツァー達ならいざ知らず、復興連盟に参加している大多数の連中は、己の利益だけが目当ての輩という触れ込みではなかったか。しかし目の前の男は、そんな安っぽいものではなく、もっと大きな感情を震わせて泣いている。己の大望が遂げられなかったことに涙を流している。
罪悪感だ、とシャルルは思った。自分の抱いている感情がだ。この男にとって、リバーブルグの喪失はあまりに大きな悲劇だったのだろう。それをすまないと思い始めている自分がいる。何故、と己に問うことが恐ろしかった。だが否定はできまい。シャロンから話を聞いて以来、薄々勘づき始めていたではないか。
十年前にあの村で起きたことが、自分も加担していた陰謀が、このセカイの惨劇に関わっている可能性に。
「しかしミンツァーめ、しっかり手を回してきやがったか。この前の騒ぎで有耶無耶になったと思ったんだがなあ。ははっ、そう都合よくはいかんか」
自嘲気味に言ったアルヴァレズは、涙でくしゃくしゃになった顔を見せながら笑った。言うだけは言ってやった、という清々しい表情。命を狙った側からすれば、ある種の敗北の味がする。
「どうした。殺らんのか。それともふん縛ってミンツァーに引き渡すか」
「いや……」
シャルルが答えあぐねた時である。
「早合点はおやめください」
開かないはずの扉が開き、シャロンが姿を表した。