契約は血の色で・上(6)
「ありがとうございましたー」
満面の笑みを背中に受けながら、シャルルは店を出た。手には紙袋が一つ。人混みの中を縫うように歩き、近くの広場に入ると、サングラスの女が手招きしているのが見えた。
「ちゃんと買えたじゃない」
「子供扱いするな。金の使い方くらいは知っていると言っただろう。名前がややこしすぎて舌を噛みそうになったが」
「今のうちに慣れておくことね。買い物する機会なんて、そうそうなかったでしょう。あなたは自分でお金を払うような身分でもないことだし」
「それはそうだが……」
袋からカップ入りのコーヒーを取り出し、シャロンに渡そうとすると、早歩きの男がぶつかってきた。何をそんなに急いでいるのやら、謝りもせずにさっさと言ってしまう。怒鳴りつけてやりたいのをシャルルはぐっとこらえた。ここはあの村とは違うのだ。
舌打ち混じりにベンチに腰掛け、自分の分を飲むと、甘ったるさに吐き出しそうになった。注文の仕組みがよくわからないのでシャロンに言われた通りに頼んだが、どうやら余計なものが大量に入っているらしい。これならただのコーヒーにしておけばよかった。
ストローをくわえて周囲を見る。見渡す限りの人、人、人。成人の儀の時の人だかりなど問題にならない。駅近くにはオフィス街、官庁街があり、少し離れてショッピング街や歓楽街が広がっている。このグラムベルクの駅周辺だけでも、あの森の集落をすべて合わせた以上の密度がある。
経済という概念はあの村にもあったが、これほどの規模ではなかった。役目は家系ごとの世襲が原則だったし、宗家と四大分家による統治が揺るぎないからには、才能ある者が手広く商売をやって財を成すということも不可能だった。作物にしろ日用品にしろ、必要な分の安定した供給だけが求められていた。貨幣も同じで、せいぜい集落同士での物々交換や、納税の効率化のために使われているにすぎなかったのだ。
この街は違う。途方もない額の金が回っている。そして金さえあれば、大抵のものは手に入る。
食料も。服も。家も。
本も。薬も。土地も。
女も。武器も。軍事力でさえも。
あの小さな村で一生を終えていれば決して吸うことはなかったであろう空気に、シャルルはむせ返る。非常に興味深くはあるが――そして早くこの空気に慣れたいと思うが――残る生涯をここで過ごせるかと言われると、答えに困る。
何しろ、国としての仕組みが違いすぎる。政治は選挙で選ばれた政治家が担っていて、公共の仕事をしているのは試験を突破した公務員だ。大半の市民は企業に勤めるなり自分で店を持つなりしていて、何をするにも自由と平等が尊ばれる。子供は別け隔てなく学校に通っていて、本人が望めば高等教育も受けられる。そこには家系の縛りも何もない。
シャルルは圧倒的な『個』であった。神子マリアナの血族の、その中でもさらに異質な存在として君臨していた。己の才能に生かされてきた彼にとって、そんなものがなくても生きていけるセカイは、存在意義を危うくする魔境でしかないのだ。
だが。哀れな首切り役人の娘にとっては、果たしてどうなのか。
彼女も、こんなセカイに生まれてさえいれば。いや、今からでもそうすることができれば。
「何を呆けているの」
シャロンの声で我に返る。見れば、彼女はもう腰を上げていた。
「失礼。少し考えごとをな」
「行きましょう」
言うそばから、シャロンはすたすたと行ってしまう。置いていかれてはたまったものではない。ベンチの上の荷物を持って、シャルルは慌てて後を追った。
「半端者だなあ、俺は」
「半端?」
「俺はセリアの無事だけを考えていた。本来敵であるあなた達と手を組んだのもそのためだ。闇雲に探し回っても無駄、よしんば見つかったところで、寄る辺もない生活ではあいつにつらい思いをさせるだけだとな。それがどうだ、この街の自由な空気に、俺自身が息苦しさを感じているんだ。何のことはない、俺にはそもそも異セカイで暮らしていけるだけの器量がなかったのさ」
「別に、あなたの判断が間違っていたとは思わないけれど。むしろよく冷静さを保てたのではなくて?」
「その小賢しさが我ながら歯がゆい」
空になったカップを後ろに放り投げると、一瞬だけ現れた暗い歪が吸い込んでしまった。通行人が不思議そうな顔で、カップが消えた辺りを何度も見返している。
「俺はセリアの立場を回復させるために、あらゆる手を使ったつもりだった。だがそれも、所詮は政治の駆け引きでしかなかったんだな。俺のやり方はあまりに現実主義で狡猾に過ぎた。嫌な老獪さが身についてしまったものだ。今だって、ミンツァーの思惑に乗って世界を破壊するか、宗家の跡取りとしての務めを果たすかを、天秤にかけようとしている」
「何が言いたいのかさっぱりわからないのだけど」
「俺にあの青年アーサーほどの無謀さと青臭さがあれば、ということさ。アーサーはただの人間にすぎなかったが、ナリーヤとの逃避行での暴れぶりは見事なものだったぞ。神々の追手を次々と策にはめて翻弄した。あの辺りの描写は、常人がセカイ使い化することを表しているのかもしれん」
引け目を感じるわけではないが、不安は芽生える。特異な才能を持ちながらそれを十全に発揮していない自分は、セカイ使いとして覚醒しきっていないのではないか、と。セリアより優先するものなどないと言いつつ、その想いを抑制している自分に気付かされるのだ。壁守は物語の主役にはなりえず、それを管理する立場にあるのだから、暴走するわけにはいかないのだが。
「俺は、自分や周りが思っているほど、狂ってはいなかったのだなあ」
シャルルが寂しげな笑みを浮かべても、シャロンは死んだような表情のまま、何も言わなかった。
オフィス街の中程まで来て、シャルルはある建物を見上げた。地上七階地下二階のビル丸ごとが、ミンツァー社の本社だ。郊外には広大な演習場まで所有しているという。にわかには信じ難い話だ。特別な身分でもない一個人が、軍隊の代わりとなりうる集団を率い、金次第で仕事を請け負っているなど。
「中も見せてあげたいけれど、それはまたいずれね」
「わかっている」
危険な存在だが、だからこそ手を組む意味がある。どこまで信用できるかは、ミンツァーの行動にかかっているが。明日、彼は新たな一手を打つらしい。自分の今日の役目は、そのさらに先を見据えた下準備であり、信頼を得るための試験でもあった。
また少しばかり歩くと、ミンツァー社よりは一回り小さな雑居ビルが現れた。表向きは、いくつかの企業が入っていることになっている。
「手はず通りにね。私は裏口から行くわ」
シャロンに頷き返し、シャルルは悠々とビルの中へ入っていった。