契約は血の色で・上(5)
話しかける機会をうかがっていたのだろう。セリアは何よりも先に、おずおずと頭を下げた。
「先日はありがとうございました」
「いや……」
どう答えていいのかわからなかった。まともに口を利くのはあの夜以来である。礼を言われるどころか、謝らねばならないくらいだ。あの日の諸々は話をまとめておいたから、今更蒸し返すつもりはないが、最後の最後にとんでもない爆弾を残してきているのである。
「それで、ですね」
「うん」
「自分から肌を晒しておいて、今更言い訳のようですけれど」
慎重に言葉を選ぶように、セリアは切り出した。
「あの時は、その、決して猥りがわしい気持ちだったわけでは」
「わかってる。というかそれはこっちの台詞だ。悪かったな、変なことして」
「いえ、気にしていませんから」
誤解を解いておきたかったのはお互い様だ。カイラルは、セリアの行為に他意などなかったと信じている。しかし、向こうも同じだとは思わないようにした。カイラル自身、自分が何故あんなことをしたのか、いまだにわからないのだから。それが、あの傷に魅入られていたからだと認めるのには、まだ時間が必要だった。
その先は言葉が続かなかった。間が持たない、とはこういう場合を指すのだろう。こんな上辺だけの会話をしたかったわけではない。もっと言わなければならないことがあったはずだろうに。
「あの――」
「もういい」
耐えかねたセリアが口を開くのを、カイラルはほぼ同時に遮った。「何も言うな」
これ以上、あれこれ弁解をするセリアを見たくはなかった。あの夜の彼女は、ひどく冷静に秘密を打ち明けたように見えたが、本当のところは場の勢いもあったのだろう。セリアにとって、あの行為はカイラルへの信頼の証明であり、同時に一種の試金石だったに違いない。この死体の怖い墓守が、どこまで自分を受け入れてくれるかを計るための。
勇み足にもなりかねない、危険な賭けだ。失敗すれば二人の関係は破綻しただろう。しかし、彼女なりの勝算はあったはずだ。
何故なら。
「俺も同じだよ」
こういう答えが返ってくることは、予想がついただろうから。
「俺は死体を埋めることで自分を保ってきた。いつか自分が同じになるのが怖くて、それを視界から消したんだ。俺が壊れないためには必要なことだったんだ。勝手な想像をしたり、後ろ指を指してくるのはいつだって外野にいる連中だ。俺は自分がこうなった原因さえわからないんだぜ」
その手がかりをつかみかけている今、ようやく理解できた気がする。自分の行いは、ただの狂気で説明できるものではなかった。原因も理由も確かに存在していた。正しいことをやってきたとは思っていない。だが、笑い者にされる筋合いはこれっぽっちもなかった。余りに後ろ向きな信条だろうと、自分は必死だったからだ。
「ロゼだってそうだ。あいつの歌を、売女のお遊びだの何だのって笑う奴がいやがる。でもあいつは、遊びでやってるのでもなけりゃ、変に高尚ぶってるわけでもない。自分なりの答えを探した結果が今の姿なんだ。グレースもミーネもレイチェルも、みんな自分にできることを精一杯やってるだけなんだ。どれが高潔でどれが狂気だなんて決めつけられてたまるかよ」
セリアは、針で刺されたような顔を見せた。カイラルはきっぱりと否定していた。セリアの覚悟そのものではなく、それを卑下するかのような彼女の態度を。己に刻んだ傷を、ただの目印だと言った彼女の姿勢を。カイラルには、セリアの覚悟の重さがよくわかった。だからこそ、彼女がロゼッタを持ち上げ、自身を下に見ることは許されないと思われた。
だから、とカイラルはセリアを見据え、決意を込めて言った。
「お前を侮辱する奴がいたら、そいつは俺の敵だ」
ほとんど反射的にセリアは跪いた。顔を伏せて、しばらく一言も発さなかった。目に光るものを悟られまいとしているようだった。
「身に余るお言葉です。やはりあなたは私の見込んだ通りのお人でした。」
「逸るなよ。『あのこと』を引き受けると決めたわけじゃないんだぜ」
「わかっています。この上贅沢なお願いはいたしません。ただ、一つだけ」
セリアは膝をついたまま、顔を上げて言った。
「虎穴に入ると決められた以上、その危険も承知のことと思います」
何が言いたいのか、考えるまでもなかった。虎に食い殺されることではなく、虎を返り討ちにしてしまうことを案じていた。カイラルにとっては、どちらもさして変わりないかもしれないのである。
「セカイ使いとの交戦も増えることでしょう。障壁屑との遭遇も、比較にならないほど多くなりましょう。あなたの力であれば、戦いを可能な限り避けることもできるでしょうが、何事も限界があります。……決断の時は遠くないかと」
死んでも誰も悲しまないであろう男を殺した時でさえ、カイラルは壊れかけた。あれは、怒りと憎悪に飲み込まれた結果だった。次にまた同じ状況が来れば、自らの意志で手を下すべきだと思っている。ややもすると、そこでこの物語は終わるわけだが。
魂が耐えられるかどうかの一か八かだ。目を背けはしないと何故言い切れる。
「その時は、私に命じてください。それを殺せと」
腰のものを体に引き寄せながらセリアが言う。
つべこべ言わずに一度試してみろ、という提案なのだろう。彼女がごろつきの首を落とした時は、黙認した格好だった。それを今度ははっきりと、カイラル自身の口で命じてほしいというのである。今はまだ、正式な主従とならなくてもいい。ただカイラルが求めれば自分は剣を振るうと、最大の譲歩を見せてきている。
カイラルにとっては、まさしく悪魔の囁きだった。それはきっと、麻薬のような中毒性を孕んでいる。一度手を出せばもう終わり、ずるずると地獄へ引きずり込まれてしまう。セリアはむしろ、それを願っているのだろう。
「……まあ、記憶の片隅にでも入れとくさ」
「十分です。あなたさえ命じてくださるなら、神の首であろうと落としてみせましょう」
わかった、とは言わなかった。例えそれが避けられないことなのだとしても、その時が来るまでは考えたくなかった。最悪の事態は、想定こそすれ常に頭の中を漂っていていいものではない。淡い期待が真ん中にあるくらいがちょうどよいのである。
ともあれ、まずは用事だ。
「お前も来るか?」
「はい」
「場所は……ああ、あの細い道入ったところか。通ったことあるはずなんだけど、記憶にねえな……というか何の店なんだよこれ」
地図を頼りに、二人は得体の知れない店へと向かった。
途方もなく厄介な人物との出会いまで、後わずかである。