契約は血の色で・上(4)
ロゼッタを見送ろうと事務所を出たところで、カイラルはふと思い出した。
「キエル」
「何?」
「あいつ、本当にあのザトゥマ=ズーなのか?」
懐から取り出したのは、先日の名刺である。今や知らぬ者はいないほどの企業の社員、その証明書。実態がミンツァー個人の手駒とはいえ、こんなものを持たせているからには、正式な社員として雇用しているということだ。しかし、今なお人々の記憶に残る犯罪者を、事もあろうに民間軍事会社が雇うものだろうか。
「否定はできない、ってところね」
名前のところを指でなぞりながらキエルが言った。
「アルバート=アギオンは実在する人物よ。戸籍にも間違いなく載ってる。生まれも育ちもリバーブルグ。十年前に被災して天涯孤独になり、ずっとスラムで暮らしてたところをミンツァーに拾われた、ってことらしいわ。調べた限りでは、特に問題のない真っ当な人物ね。ただ」
「ただ?」
「実年齢二十歳なのよ」
「それじゃ十年前の時点で十歳ってこと? そんな子供が猟奇殺人犯なわけないじゃん。やっぱりあいつ偽者でしょ?」
「戸籍が本当に『あの男』本人のものならね」
「あー……」
ロゼッタがすぐに納得したのも無理はない。この国では、戸籍の乗っ取りなど珍しくなくなっている。ハーウェイ・カルテルを始め、非合法な手続きを得手とする者達の存在もあるが、最大の原因は十年前の災厄だ。いまだに行方のわからない人間はかなりの数に上る。家族や親戚までまとめて死ぬか行方不明になり、失踪の宣告も出せないとなると、宙に浮いた戸籍は簡単にすくえる。あるいは、行方不明者の戸籍を家族から買い取ってもよい。一から存在を捏造するよりは、遥かに容易かつ安全だ。
「私もあの男がアギオン本人であるとは考えてないわ。当時の目撃情報でも、ザトゥマ=ズーは背の高い男って話だったし、少なくとも子供じゃない。アギオンの家族も十年前に他界してるから、ミンツァーが手を回して戸籍を用意するのは可能だろうし」
「じゃあやっぱり本物?」
「だからわかんないんだってば。可能性はあるってだけ。どっちにしろ、戸籍の洗浄が必要な時点でろくな奴じゃないわ」
書類上の存在がどうであれ、殺人鬼を自称する、そして実際に殺戮を楽しんでいる人間が会社にいて大丈夫なのかと思うが、ミンツァーが上手くやっているのだろう。まったく、まともな人間ではない。それだけわかれば十分だ。破り捨ててやろうか迷ったが、先日の勇み足の結果を思い出し、カイラルは元通り名刺をしまった。
聞くことも聞いたし、今日すべきことは体の快復しかない。部屋で大人しくしていようと踵を返すと、呼び止める声があった。
「さっき話してた『代わりの誰か』の件。あんたが言った通り、調査に同行させるから。全快じゃないとこ悪いけど、今日のうちに顔を合わせときなさい。連絡は私から入れておくわ」
キエルは手帳にさらさらと地図を書き込むと、ページをちぎって渡した。
「東の外れにある『片翼の鳥』っていう店。ちょっとわかりにくいところなんだけど」
「え?」
怪訝な顔をしたのはロゼッタである。
「姉さん、まさか彼女に会わせるつもり?」
「私の代わりが務まるのが他にいないのよ」
「何だ、ロゼも知ってんのか? 一体誰なんだよ」
「いやまあ、会えばわかると思うけど。その、ねえ?」
歯切れの悪い辺りがいかにも怪しいが、今更何が出てこようと化け物や殺人鬼よりはましだろう。しかしロゼッタは「そういうことじゃなくて」と言葉を濁す。
「その『片翼の鳥』って店なんだけどね……あんまり軽い気持ちで行かないほうがいいと思うわよ。そんだけ」
曖昧な助言を放り投げ、ロゼッタは足早に姿を消した。キエルも仕事があるからと去ってしまい、どうにもすっきりしない空気だけが残された。
「何なんだよ一体……」
余計な不安を押し付けられた気がするが、会えというのなら行くしかあるまい。場所もそれほど遠くはないし、顔合わせだけならすぐに済むだろう。
カイラルが足を踏み出しかけた時である。
「あの」
今日、ほとんど気配を発していなかったセリアが背後にいた。