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ある商人の記録・7

「閨事が強すぎるのも考えものだと思いませんか」


 予想していた問いではあった。商人は苦笑しつつ、それはそうだろう、と返した。抑え切れないほどの欲求など、邪魔にしかならないと思う。とはいえ、特に好き者でもなければ淡白でもない自分からすると、まったくの他人事である。妻以外の女性と関係を持ったことさえないのだ。


「まあ、英雄色を好むと言いますし、若いうちから枯れ果てているよりはましなのかもしれませんがね……こればかりは天性のものもありますから。品行方正な方ほど苦労されるでしょう。複数の異性と関係を持つなど論外、必然的に決まった相手に欲求をぶつける他ありませんからね。巨大すぎる愛情を受け止める側もなかなか」


 皮肉交じりの笑みを浮かべる尼僧だったが、商人の目には、そう言う彼女も隅には置けないように思われた。体格はかなり小柄だし、僧服に包まれてわかりにくいが、体の線もそう波打っているようには見えない。少なくとも肉感的な色香とは縁遠い。しかし、どこか艶っぽい声色といい仕草といい、妙に男を刺激するものがある。それがあの語り口と合わさると、誘惑の詩にも聞こえかねないのである。幼さの残る外見との差が、余計にそう感じさせるのかもしれない。それに線の細さは細さで、僧服の襟からのぞく白いうなじが――。


「お前も実は遊んでいる口だろうと言いたげなご様子ですね」


 テーブルががたんと揺れて、半分ほど残っていたグラスが倒れた。盲人の感の鋭さを忘れていた。体に注いでいた視線まで、余すことなく感じ取られてしまったかもしれない。商人はごまかすように、何か拭くものはないかと目をうろうろさせた。


「それはもう、浮いた話の一つや二つはありますよ? 僧である以前に年頃の女ですし、私の仕える仏はそれほど狭量ではありませんので。男性経験があるかどうかは想像にお任せしますが」


 尼僧は腹を立てるどころか、こちらをおちょくる理由ができて喜んでいるようだ。目のやり場に困って店の奥を見ると、聾唖の女給と目が合った。すぐにくるりと背を向けてしまったが、口元に手をやり、ふっと笑ったように思えた。いつも無表情で会話も聞こえない女性に嗤われるほど、滑稽な様子だったのか。赤っ恥をかいてしまった。


「男女の仲というものは複雑です。どちらも相手の望む姿になれるかどうかで必死なんですよ。なれなければ別れてお終いですから。奔放な方や、決まった相手にこだわらない方は特にそうでしょうね。ですが、誰もがそうだとは限らない」


 女給が布巾を持ってやってきた。テーブルを拭き、空になったグラスを盆に乗せて去っていく。ちらちらと表情をうかがってみたが、いつも通りの物憂げな顔だった。


「出会いの少ない方ほど、一度つかんだ機会を逃すまいと食らいつく。相手に不自由しない方でも、『この人しかいない』と確信できるほどの遭遇を果たすこともある。……それほどの相手が、好意は見せてくれるけれど、肝心なところで自分になびいてくれないということは往々にしてあるわけでして」


 そんな場合、どうすればいいのか。


 尼僧はそこで黙った。あえて商人の口から答えを引き出そうとしているようだった。何を期待されているのかはわかっている。先刻までの語りを聞いていたのだから。しかし商人は答えない。それは、口に出すにはあまりに恐ろしく、人として誤っているように感じられた。


 黙秘という反応を楽しむように、尼僧は嫌らしく答えを言った。


「相手を変えてしまえばいいんですよ。自分の望む通りの姿にね」


 それは最早、根本的なところで何かを履き違えているように思えた。運命の相手と確信しているほどならば、魂の根幹に光るものを見たのだろう。だが人間は、それだけで評価が決まるほど単純なものではない。経験とか環境とか、色々なものが積み重なって人の形を成しているのだ。その上っ面が気に入らないから、引き剥がし削り取り、石膏でも塗りつけて己が望むままの姿を形作ろうなど、何とおぞましいことか。


「そう難しい話でもないのですよ。逃げ道を断って、自分の方を向かざるをえないようにすればいいのですから。強引に男女の関係を結んでしまうのは、最も下卑た例の一つですね。既成事実を作るというやつです」


 あなたも気をつけた方がいいですよ、と尼僧が意地悪く言う。洒落にもなっていない。


「あるいは、秘密の共有という手もあります。頼まれてもいないのに己の恥部を晒すわけです。迷惑がる人も多いでしょうが、悪い気はしないでしょうね。それほどまでに自分を信頼してくれているのかと。まったくもって悲喜劇です。外堀を埋められているだけだというのに」


 自分はこの人物のそばにいてやらなければならない。できる限りのことをしてやらねばならない。成すべきを成す力とならねばならない。すべては善意から発されている。知らず知らずのうちに、魂の幹に色の異なる枝葉が接ぎ木されてゆく。


 そして。


「相手がもう逃げられないと――この環境に適応するためには自分が変わらなければいけないと決意するところまで追い込むのです。それが、強要されたのではなく自ら望んでやったのだと得心させるに至れば、もう終わりです。誉れ高き救世主が出現するのです」


 己の『個』を満たすために、他者の『個』を侵食する。


 それがセカイ使いという存在なら、お互いに距離を測り適度に隙間を埋めるように生きている一般人類とは――それらの巨大な集合体として成り立っている社会とは、何があろうと相容れまい。まさしく公共の敵なのだ。


 そんな異物が、世界の覇権を巡ってこの世のどこかで争っているというのなら。蚊帳の外に置かれている我々は、一体何なのか。


「失礼」


 尼僧は残った緑茶を飲み干すと、音を立てて湯のみを置いた。


「脅かしが過ぎました。お許しください。そろそろ時間も時間、今日の語りは次のくだりでお開きになりそうですか。では、再開するとしましょう。……ああ、それと」


 わざとらしく頭をかき、尼僧は付け足した。


「もうそろそろ、あなたもご存知の人物が話に絡んでくるかもしれません。まあ、顔見せは先程すませているのですが。驚きませんよう、先に申し上げておきましょう」

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