魔女の贄(7)
「思えばこの十数年は激動の時代でした」
石段をゆっくりと下りながら、神子が語る。
「彼女の誕生に始まり、ロニとラスターの引責辞任にエレナの追放処分、そして十年前の障壁崩壊。ラスター、ロニ、ダートリ、ハロネ、エレナ、シャーリー。皆逝ってしまった。かつての世代を担った者達が。そして今日」
神子の裁定によって決まるのだ。少女のみならず、一族全体のあり方が。
話し終えると同時に、神子が石段を下りきった。神子と少女の視線が同じ高さに並ぶ。
先に切り出したのは神子であった。
「こんにちは」
少女は答えない。神子は穏やかな口調で「好きな食べ物は?」だの「趣味はおあり?」だのといった適当な質問をぶつける。しかし少女は、答える気配がないばかりでなく、声をかけられるたびに汗を浮かべ、表情を苦しそうに歪めてゆく。返答どころか、戸惑いの声やうめき声さえも上げない。
代わってエルノーに問いかける。
「報告にあったものより随分と重い症状のようですね。普段からこの調子ですか」
「恐れながら」
「いいでしょう。では細かい問答は無粋というもの。どのような方法でも構いません、あなたの望むやり方で、己が成人に値するか否かを示しなさい」
その言葉に、少女の眉がぴくりと動いた。
数秒の沈黙の後、少女の手が襟元にかかり、礼服のローブが宙を舞った。代わって現れたのは簡素な動きやすい服装であり、金具で腰に吊られた長大な物体であった。それが何なのか、誰もが一目で判断をつけられた。
剣である。金属の装飾を持つ木製の鞘に収められたその剣を、少女は今の今までローブの下に隠し持っていたわけである。儀礼用の剣を帯びている者は多くいる。しかし少女の剣は明らかに違った。そして、多くの者達はその正体を悟った。この剣、少女が普段から持ち歩いていたものではないか。
少女は神子を見た。今度は確実に、見えないはずの目が合ったと感じた。お前の修練の賜物とやらを見せてみろ。そのつたない力でせいぜい気張り、成人に足る実力者であることを示してみるがいい。そう煽られていると確信した。不思議と動揺はなかった。あるのは底知れない憎悪だけだ。神子と、その血を引く腐りきった一族に対しての。
神子はどのような方法でも構わないと言った。ならば遠慮など要るものか。
少女の左手が鞘を引き寄せる。左腰に移動した鞘をしっかと支え、長く伸びた柄に右手が添えられる。右腕に力が篭ると、麗しい顔に似つかわしくない筋肉が隆起し、重厚な刀身がゆっくりと引き出される。
誰もが息を呑んだ一瞬の後。
少女は鞘に収められたものを抜き放ち、神子の首筋へと突き付けた。
場の空気が凍った。
まさしく未曾有の事態であった。あろうことか神子に刃を向けるとは。その意図が何であれ許されるわけがない。祭司達も、若者達も、ユニもルネもハイリも、シャルルでさえもが言葉を失った。
しかし当の神子は身じろぎもせず、自身に触れる寸前で静止している刃を横目に見ていた。
長めの柄と短い鍔、幅広の刀身を持ち、鈍い輝きを放つ剣。明らかに両手持ち用であるその剣を、少女は苦もなく片手で振り抜いたのだ。刀身は見事に磨き上げられ、今すぐにでも用途を果たすことができそうである。否、剣自身がそれを待ち望んでいるようですらあった。
神子は右手をそっと刀身に添え、そこに刻まれた文字の上を這わせてみせた。
「この剣を持つ者、躊躇うことなかれ。神はそれを許す」
静かに文字を読み上げる神子。その言葉が何を意味するのか、誰もが理解していた。法に認められた殺人者の証である、その剣の忌まわしさを。そして少女が、この剣で以って己に与えられた役割を果たすことなど、決してないだろうということを。
少女は剣を引いた。跪き、剣を天へ向けた体勢から、ゆっくりと腰を上げる。
剣を前へと伸ばし、腕を両側へと開く。右へ向かって軽快な足取りで流れ、左へ転じて力強く剣を振り抜く。中央へと戻り、足を曲げて後方へと剣を送る。静かで細やかな動きが続いたかと思えば、霧を払うが如き仕草で上下左右に薙ぐ。まさに緩急自在の剣捌きである。その流麗さに、人々は思わず息を呑んだ。先程の祭司達の舞などとは比べ物にならぬ。
そして、人々は引っかかりを覚える。この舞、各所に差異はあれど、大まかな動きは誰もが知っているあれではないのか。葬儀の場などで舞われる、鎮魂の舞。それに剣舞を組み合わせ、独自の舞を披露しているのだ。
では、何故それを。鎮魂の舞を選んだ意図とは何なのか。
それも、あの忌まわしい剣を用いた剣舞と組み合わせるなど。
思惑を察することは容易かった。少女にまつわる人物と出来事を思い浮かべれば、いくらでも想像が付こうというもの。
少女は今、一人の人物への弔いとして、舞を見せているのだ。その人物から受け継いだ、血塗られた剣を用いて。
一族すべてへの皮肉であることは明白であった。
いつの間にか、楽器の音が備わり始めていた。一つ、また一つと音色が増える。祭司達の誰が始めたのかはわからぬ。己を咎める気持ちはあっただろう。一族への、引いては神子への恨みつらみを表した舞に彩りを添えるなど。しかし止める者などいない。どうしてこれに音楽を付けずにいられようか。
神子は少女の舞を眺めつつ、エルノーの元へと歩んだ。老宗主は、変わらず悲しげな目を少女に向けている。
「剣舞士としても一流の域ですね」
「修行を怠った日は一日としてありませぬ。剣舞については当代一かと」
かすれた声でエルノーが答える。
「武術も学問も素晴らしい成績でした。まともな精神を保つのも難しい環境だったでしょうに」
「むしろ逆でしょう。劣等者だったからこそ、その溝を埋めるためにあれほどの修練を」
「すべて徒労に終わるとわかっていても?」
「何もせずに諦めることを知らないのです、あの娘は。芯の強さは母親に良く似ている」
エルノーは遥か遠くを見ていた。その目には、今なお愛し続ける女性の、在りし日の姿が映っている。その顔が少女と重なって見えた。
少女の舞も終わりを迎える。大きく剣を振りかぶり、地へと向かって勢いよく振り下ろす。憎い相手の首を叩き斬るように。
その後、再び直立状態で剣先を天に向け、跪いて静止する少女。剣が鞘に収められ、舞の終焉を示した。
場合が場合なら、大喝采が巻き起こってもよかったろう。だが人々は、舞の美麗さに飲まれてしまったことを否定するかの如く、一切の反応を示さなかった。
そんな中、神子一人だけが小さな拍手を送る。相変わらず表情は読めないが、きっと満面の笑みを浮かべていることだろう。
「よいものを見せていただきました。この村の歴史の中でも、指折りと言っていいでしょう」
「当人に代わってお礼を申し上げます。おい、お前達も何か言うことはないのか」
「ええっ……」
シャルルの振りに、ルネが裏返った声を上げたのも無理はない。何故この土壇場で自分達が担ぎ出されなければならないのか。
「その二人が数少ない友人ということですか」
「私が引き合わせたのです。両名とも、彼女と縁がありました」
顎をしゃくって、お守役の二人を促すシャルル。ルネは渋々従ったが、ハイリは表情を崩すこともなく歩み出た。
「ラナ家のハイリと申します。私の母は、彼女の乳母でした。母親同士も懇意の仲だったと思います」
「ティーオ家の嫡子ルネと申します。僕の、いえ、私の祖母は、彼女の母の主治医でした。出産の時も、祖母が彼女を取り上げました」
「何かと苦労も絶えなかったことでしょうね」
「いえ、それは、その……」
「その通りです」
ハイリの物怖じしない発言に、ルネは瞠目した。そんな無遠慮なことを言って、彼女の点数を下げてみれば、シャルルが怒りの矛先を向けるのは自分達だ。しかし、シャルルは落ち着き払ってハイリを眺めている。
「とにかく生傷の絶えない子でした。森で獣や怪物とやりあって、死にかけたことも一度や二度ではありません。その度にルネが治療し、私はせめてもの足しにと体術を仕込みました。正直、生半可な根気で付き合える相手ではありません」
言いたい放題だったが、少女は怒りを感じるどころか、ハイリに対して感謝した。余計な飾りを付けず、ありのままの自分を表現してくれたことが嬉しかった。
「ですが、人格的には優れた子です。村の雑役に従事し、明け方から日暮れまで働きます。職務に忠実で、決して人を裏切りません。与えられた恩には必ず礼を返します。それらの点に関して言えば、私は彼女を否定しません」
「成人を認めてあげたいとは思わないのですか」
「彼女が望むのであれば、やぶさかではありません。しかし自分の立場を犠牲にしてまで、彼女に入れ込もうとも思いません」
「正直な答えですね」
「嘘が苦手なだけです」
ハイリはそこで礼をして下がった。実に堂々たる受け答えであった。それに付き従って、ちゃっかりとルネも後退する。
「あなたが卓越した技術を持っているのはわかりました。愛すべき人物であることも。なればこそ、あなたの真価を測りたい。……やはり、その剣に聞くしかないようですね」
となれば、斬る対象を用意しなければならない。少女は再び剣を抜き、シャルルもすぐさま動こうとしたが、神子はそれを制止。しばらく考える様子を見せた後、思いついたように言った。
「私で、どうでしょうか。この体で直に味わってみたいのです」
少女は呆気に取られた。悪い冗談だとしか言いようがない。強要されたのだとしても、斬るつもりなどなかった。相手が神子だから、などという理由ではない。少女の剣は、その役目を果たす目的以外で振るわれてはならないのだ。
無論、他の誰も本気になどしていなかった。
神子を除いて。
「そうですか。やはり罪人以外は斬れませんか。では、これでどうでしょう」
突如、神子の体が大きく歪んだ。
元の輪郭を失い、衣服が肉体に溶け込み、粘土のように形を変えてゆく。徐々に体積が減り、肌色の卵のような物体へと変貌。横倒しになった卵から、ぽこぽこと四本の棒が伸び、やがて全体の形状が細かく整えられてゆく。
現れたのは、一頭の豚であった。豚は短い四足を折りたたみ、少女の前で座ってみせる。
「あなたのような職業の方は、動物を使って修練を積むのでしょう。これなら遠慮なく斬れるのではありませんか」
豚の口から神子の声が聞こえた。
確かに、それは事実であった。少女の役職の性質は、戦士のそれとは大幅に異なる。倒すことでも守ることでもなく、殺すことそのものが役目である以上、腕を磨くには人形なり動物なりを相手にする他ない。ハイリを通じて家畜を入手したこともあるし、森の中で野生の獣を捕えたこともある。ただの獣であるのなら、何の躊躇もなく斬り捨ててみせよう。
だが、それがどうしたというのだ。今目の前に座っているのは、神子だ。豚の形を取った神子だ。余興で『人間』は斬れない。例え本人がそれを望むのだとしても。
「どうしました。私が斬れと言っているのです。やりなさい」
神子は自分を試している。少女はそう感じていた。自身の職務に忠実であるべきなら、ここで動いてはならない。この役目に相応しい魂の持ち主かどうかを試されているのだ。
しかしその剣は、徐々に少女の頭上へと持ち上げられてゆく。
「そうですか。本心では斬りたいのですね。私を殺したいのですね」
豚が、半ば笑うようにして言った。神子の声で。
雲行きが怪しくなってきたことを察し、周囲がざわつき始める。エルノーは、少女を挟んで反対側に立つ息子に目配せをした。すぐにでもやめさせたかった。このような乱行は。
だが、シャルルは首を横に振る。これは試練なのだ。ならば、第三者の自分達は、何があろうと介入してはならない。それを破れば、彼女の成人は未来永劫認められないだろう。
「よくこらえますね。ですが考えてもみなさい。本当にこのままでよいのですか? 流れに逆らわず成人を迎えたとして、あなたに待っているのはシャルルの慰み者としての人生ですよ」
言うな。
さも自分に選択肢があるような、そんな甘言は御免だ。
「悪い話ではないでしょう。斬って溜飲を下げ、それを一生の糧として自分を慰めればいい。自分は神子の首をはねた女なのだと」
全身全霊で神子の誘惑を撥ね退けようとする少女。だが、その思考とは裏腹に、掲げられた剣は回転運動を始める。必殺の一撃の前段階として。
ここにきてようやく、シャルルは動いた。叫び声を上げて静止を試みるが、少女の耳はすでに聞こえていなかった。
シャルルが、ハイリが、ルネが、そしてユニまでもが地を蹴る。
「斬りなさい。憎い憎いこの私を。つまらない誇りを掲げて生きるより、そちらの方が楽というものでしょう? 出来損ないの、首斬り役人さん」
罵られた瞬間、少女は我を忘れた。
頭上の剣を高速で三回転させ、一切の加減も躊躇もなく、力の限り振り下ろした。
目の前の豚に向かって。
刃が肉に食い込み、血が吹き出た瞬間、黒い閃光が走った。天井から床へ、落雷のように。黒い稲妻の直撃を受けた少女は弾き飛ばされ、宙を舞う。
薄れゆく意識の中で少女は見た。天井が崩れ落ち、ぽっかりと開いた穴から何色もの光の滝が降り注ぐのを。崩壊する神殿の中で、人々が絶叫し逃げ惑うのを。恐らくは、自分の行いによって、何かとてつもない事態が引き起こされたという事実を。
シャルルが自分の名を叫び、こちらへ走り寄って来るのがわかった。彼も床に走った亀裂に落ち込み、飲まれるように消えた。そこには、無限の深さを持つ黒い穴が口を開けていた。
落ちてゆく。人々がぼたぼたと落ちてゆく。辛うじて何かに掴まった人々も、光の滝によって力ずくで押し流される。
自分はこれから、どこへ行こうとしているのだろう。
しっかと剣を握り締めたまま、少女の意識と体は、闇の中へと落ちていった。