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『奇跡』
「居ないわね」
夜、川上は食事の時間にも現れないので部屋を見に来た咲夜だったがやはり見つからなかった。
今日は夕方まで仕事を任せていたので眠っているのかと思いきや部屋にも居ない、どうにも出かけているらしい。今は川上はオフの時間だから別にいいのだが、食事も取らずに何処にいったのだろうかと咲夜は思った。
やる気無さげにずっと寝ていると思えば、ふらふらと出かける事もある。咲夜にも行動パターンが掴み難い相手だ、わかるのは一人稽古だけは定期的にしている事くらいである。
まぁいいかと咲夜は食堂に戻った。
黒の私服に身を包んだ川上は森の中で佇んでいた。
歌が聞こえたのだ、曲調こそ違えど何処か聞き覚えのある綺麗な歌声だったそしてふらふらと近づいていき気付いたら目が光を失っていた。
「お久しぶり、刀のおにーさん」
頭上から声をかけたのは木の枝に腰掛けた夜雀のミスティア・ローレライであった。屋台で出会った時の和風ではなく禍々しいデザインの茶色のジャンパースカート姿だった。
そう、今夜は彼女は屋台の女将では無く一匹の妖怪だった。
「もう歌は聞こえないよ」
そうミスティアは告げた、こうして今夜妖怪と人間が出会いやる事は一つだ。
「そうだな、もう聞けない」
川上は応じた、彼の夜目が利くはずのそれが像を映さなくなった、失明、はしていないのはわかるが。
川上は腰の刀を抜いた、右手に持ち構えもせずに立ち一見無造作だ。
ミスティアは立ち上がり無音で別の木の枝に飛び移り川上の背後と頭上の優位を取った。
相手を夜盲症にさせる能力。これにミスティアは絶対の自信を置いていた、人間はおろか妖怪相手ですら優位に立てるのだ。
如何に刀を抜いても見えなければどうしようもない、自明の理である。何処から来るかわからぬ相手を機能を失った眼で迎撃出来るはずもない。
機能を失っていればだが。
ミスティアが木上で構えた時川上は剣先を挙げかけて、動きを止めた。ミスティアも少し遅れて頭上を仰ごうとした時にはその人物は川上の背後、ミスティアとの間に降り立った。
その人物は口の中で一節の短い詠唱を唱えると手にした大幣を一払いする。ただそれだけで周囲の空気が豪と唸りを上げ風の束となりミスティアに襲いかかった。
「っ、山の巫女!」
並の人間なら切り刻まれてしまうほどのまるで斧のような暴風に襲われて咄嗟に後ろに飛んだミスティアは浅手ではあったが妖怪の天敵の前に即座に敗退を選択しそのまま飛び去った。
「逃げられましたか」
深追いする様子はないその人物は緑がかったロングの髪に翡翠のような綺麗な丸い眼、水色のスカートと白に青に縁取りがなされた上着。極めて変則的だが巫女服である。霊夢のそれとは全く違うが袖が独立しており肩と腋が出ている所は何故か共通している。
乱入したのは幻想郷のもう一つの神社である守谷神社の風祝である東風谷早苗であった、彼女もまた霊夢と同じ妖怪退治のような事もしている。
出かけていた帰りだったのだろうか、人が妖怪に襲われてるとみてまさに出番とばかりに飛び込んだようだ。
斃すに至らなかったが多少は薬になっただろう、まぁ良しと早苗は考えた。
そして襲われていた様子の男に振り返りつつ声をかける。
「大丈夫です、か」
口にした言葉は川上の姿を見て尻切れになりそうになったが早苗は辛うじて言い切った。
彼女は見た。
夜の薄闇に少し浮く黒い洋装に身にまとい僅かな月光を反射させる白刃を手に冷たくつまらなそうな昏い眼でこちらをみる川上を。
早苗は理論や理屈よりフィーリング、直感などの感覚を大事にしてあまり物事を深く考えないタイプだ、実は理詰めの魔理沙とは間逆であり性格こそ違えど天才肌の霊夢に近い。
故に初対面の相手も一見して、少し話せばもう大体早苗の中で相手のイメージは固まってしまうのだが。
ーーー気持ちが悪い
それが早苗が川上に対して抱いたイメージである。どこがとは明確には言えないだろう、感覚的なものでしかないのだから。
早苗をぼんやり見ていた川上は自身の刀に目を落とし、次にミスティアが逃げ去った方向に視線をやり、最後に早苗の所に眼が戻ってきた。
怖気が背中に走り無意識に早苗は右足を一歩引いてしまった。早苗は川上から眼を離せない、いや離してはいけない。
川上は結局刀を上げるとそれで自身の左手を軽く切り、刃に少し血を付けてそれを拭ってから納刀した。
「礼を言う、助かった」
川上は言った、そう手間が省けた。そんな内心の声が早苗に伝わったかは定かではないが、少なくともその言葉を受けた早苗には感謝がまるで感じられなかった事は確かである。
「いえ、ご無事なら何よりです」
自分が表情を失っていたのに気付いて早苗は慌てて笑顔を取り繕った、自然な笑顔になったかは自信がないが。
早苗は何か続けるべきだと言葉を探す、が何時もならこのような場合相手を気遣い送るのが普通であった。
そう、夜道でか弱い人間が襲われていたのだ。何時ものように夜歩きは危険だと注意し、危ないから送りますの一言を言えばいいだけだ。
なのに、何故それを口に出来ないのか。
元来真面目な所のある早苗である、人を助けたなら最後までやらなければならない。取り繕い送ると言えばいい。そう思う。
一方で関わり合いたくない、早くここから去りたい。相手への嫌悪感からそうも思ってしまい葛藤する。
川上は懐から煙草のソフトパックを取り出し一本咥え、火をつけると目の前の巫女を一瞥だけして無造作に歩き出した。
それを見て無意識の内に早苗はパーソナルスペースに入られるのを嫌い斜めに下がった。
しかし、川上は何も言わない早苗に何の関心もないように横を通り過ぎて歩き去っていった。
早苗は去っていく川上の背中を見据え、口を開きかけたが何も言えなかった。仕方ない、こちらが何かいう前に去ってしまったのだから。そんな欺瞞的な思考が早苗の頭に浮かび、彼女は少し自己嫌悪した。
でも、もう会いたくはない。その考えは早苗は自己否定しなかった。
「よし」
小さく声を出し早苗は切り替える、何もなかった事にしよう。
そう割り切ってしまうと早苗もその場から飛び去り神社へと帰っていった。