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『無垢』
一人の少年がいた
少年はごく普通に出会いごく普通に恋愛しごく普通に結婚したごく普通の両親の元で生まれごく普通の家庭で育った子供だった。
その少年の生まれや環境には特筆すべきところのないどこにでもいる子供だったといえるだろう。
ただ、その少年は子供としては少し周りと違うように見えたのが少年の母親には気がかりだった。
良く言えば落ち着いているのだが、子供らしい豊かな感受性が見えず、あまり自分から何かを訴える事もなかった。
しかし、何かの障害を持っていると判断された訳ではなく、幼稚園でも得に問題が起きる事もない。
少し母親は引っかかりがあったが多少他の子と違ってもそれでいいじゃないかと母親は少年を存分に愛した。
少年が小学校に上がって少し経った頃、少年の家にどこからか子猫が迷いこんできた事があった。
母親はまだ生まれて大して経っていないだろうその子猫と戯れる少年を微笑ましく思った、どこから迷い込んだかわからないが飼い主が見つからなければその子猫を飼うのも情操教育にいいかも知れないなんて思いながら。
母親はすぐに驚愕する事となる。
少年は戯れていた子猫の胴と首を強く掴むと首を思い切り捻った、子猫は死んだ。
母親は子猫の死体を弄り観察している少年を信じられない思いで見て、すぐに烈火の如く怒った。初めて息子に手を挙げた。
少年は初めてみる母親の変わりように殴られても泣くこともなくキョトンとしていたが、すぐに母親に謝った。
暫くして母親は自分が動転して頭ごなしに怒鳴りつけてしまった事を後悔した。まだ子供なのだ、命の尊さをわからなくてもおかしくはない、あのくらいの子供は割と残酷な遊びもすると夫に諭されたのもあった。
母親は少年に怒り過ぎたと、殴った事を謝った。その上で猫の命の大切を言い聞かせた。
しかし少年は母親の話を聞きながら怒られた時とさして変わらない表情だった。
いよいよもって、母親は自分の息子を気味が悪いと感じてしまった。母親として失格だと自己嫌悪に陥りつつも、明確にそう感じてしまったのだ。
夫に相談した。夫はまだ子供なんだからと、成長すれば大丈夫など当たり障りのない事を言ってちゃんと向き合ってくれなかった。
母親は悩んだがその後そのような残酷な所を見せる事もなく、小学校でも友人が出来て良く一緒に遊んでるのを見て安心する。少年の友人は少年とは逆で活発で悪戯好きなやんちゃな子だった。
大丈夫、別に息子はおかしくない。
活発な友人は少年を良く引っ張って遊んだ、様々なものに好奇心を示して自分を連れて行ってくれる友人の事が少年は好きだった。
ある時やんちゃな友人は普段は施錠されて出切り禁止となっている学校の屋上に少年と一緒に忍びこんだ。
初めて出る屋上に友人ははしゃいだ、少年も風が気持ちいいと思った。屋上にはフェンスもなく、縁から簡単に真下をみる事が出来た。
友人は縁から身を乗り出しすげぇ高いと喜び、少年にお前も見てみろよと言った。
少年は友人の背を押した。
友人はあっけなくバランスを崩し縁を越えて消えた。少年は縁から地面を見ると遥か下に友人が倒れているのが見えた。
少年は階段を降りて校舎を出て友人を確認した。
すでに数人の人間が集まり騒ぎになり始めていたが少年は倒れた友人の近くにしゃがみ込みうつ伏せに倒れ伏せ、割れた頭から血と灰色の内容物が溢れているのを観察した。
少年は地面にぶち撒けられたぐずぐすの脳に手を伸ばした辺りで教師に慌てて引き離された。
この事故を受けて学校側は安全管理を問われフェンスを設置することとなる。
少年は呼びだされた母親と共に関係者に悪戯で共に屋上に出た事、縁から身を乗り出した友人が下に落ちた事などを表情を変えずに言葉少なに説明した。
教師達は目の前で友人を亡くしたショックが強いのだろうと解釈して哀れんだ。
しかし少年の母親をその様をみて2つの事を確信した。
友人は息子が落としたのだ。
そしてもう一つ、自分が悪魔を産んでしまった事を…
紅魔館、夕刻
時計台となっている屋上で1人の男が刀を振り上げていた。
特徴的な昏く鋭利な三白眼となったブラウンの眼にかかる程度の黒い髪、顔立ちは整ってはいるが眼のせいで不吉な印象がつきまとう。使用人としての礼服に身を包んでいるがそれも陰性の雰囲気に一役かっている。
紅魔館の下っ端使用人の川上である。
彼は上段に屹立させた刀をゆっくり、ゆっくりと亀ですら欠伸が出そうな速度で呼気と共に斬りおろしていく。
そして時間をかけて下まで降ろすと静かに腹に入れるように息を吸い臍下丹田に力を込める。そしてまた元の上段に戻る。
眠たくなるような素振り、人が見たらこんな事をしてなんの意味があるのかと思うだろう。
しかしスローモーションの如き遅さで真っ向に斬りおろし体幹はもちろんのこと刀も刃筋も地面に対し完全に垂直で1℃たりともブレない。どこまで練り上げればそれが可能となるかわかるものは中々いないだろう。
風が吹き何処からか巻き上げられたのかわからない木の葉が止まっているのとさして変わらぬ刃に当たると2つに分かれて飛んでいった。
彼はそれを暫し続け、辺りが茜色になるころ刀を拭って鞘に納めた。
息は上がっていなかったが前髪から滴るほどには汗が出ていた。さして運動量があったようには見えなかったが何故か?
傍らに置いてあった水筒を取り上げ補給水をゆっくりと飲んだ。
そして川上は上を脱ぎ捨て白シャツになると屋上の端まで歩いていき切り立った縁に腰掛けた。
すぐ足元をみると見ると遥か下に庭園が見える。落ちればひとたまりもないだろう。
川上はポケットから干し肉を取り出し少しずつ齧った。
口の中で肉を噛みつつ視線を上げると、高さ故に景色が一望出来た。赤く染まった空、広い湖に夕陽が反射して宝石のように輝いている。
その絶景を見ながら川上の表情は特に変わることもなく、眠そうな眼で干し肉の最後の一欠片を放り込み咀嚼した。