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『無我』
「おぉぉぉっ!」
幻想郷、地底、旧都にて一人の妖怪の雄叫びが響いた。
叫びとともに妖怪は一人の男へと躍りかかる。男は右手を懐に入れると次の瞬間強い光が妖怪の目を焼いた。男が妖怪の目に向けたのはマグライトであった。
薄暗い旧都では効果が高く、妖怪は一瞬眩みそれが命取りとなる。次の一瞬で上腹部から電撃的な灼熱感が妖怪を襲った。男——川上が左に構えたナイフが妖怪の鳩尾を深々と刺して抉った。
妖怪が前のめりになった瞬間川上は右で逆手に持ったマグライトを相手の左前腕に引っ掛けて捕手。深く入身して足を相手の後ろに入れて左のナイフで喉を切り裂きつつ投げて頭から落とした。
即座に逆手にスイッチしたナイフを振り下ろして、顎の下から頭蓋内の脳幹を破壊して止めを刺した。
ゆらりと体を起こした川上は左手に携えた血脂に濡れたナイフを一振りした。厚く重いハマグリ刃にカミソリの切れ味を両立した刃長約16センチのブラックコーティングされたブレード。シンプルなデザインのファルクニーベン社製のA1。
既に周囲は今し方の相手を入れて三人が死体となって転がっていた。残るは屈強な男の姿をした一人。外見は人間にしか見えないが妖怪である。
勇儀と一戦終えて、三丁も行かない内にこの襲撃であった。勇儀の仇打ちなのか、川上を危険視したのか、あるいは単に強い相手を見て血の猛りが抑えられなかったのか。
残った妖怪は舌打ちした。屈辱であった、鬼の四天王すら斬った男に取ってはただの妖怪など紙切れ同然なのか。背中に背負った刀すら抜きすらしないとは。
自分一人になっても妖怪は敗走を選択はしなかった。死を覚悟して顔に笑みすら浮かんでいた、勝てずともその刀を抜かせてみせる。そう決意した。
追い詰められた、あるいは開き直った相手というのは厄介なものである。その妖怪なら抜かせる事は出来たかも知れない。しかし、現実は彼により残酷な最後を突き付けた。
川上は視た、中空に浮かぶ髑髏の形に黒く沈んだ塊を。それは後ろから川上と対峙していた妖怪に取り憑く。
かくん、と妖怪の膝が折れた。妖怪は震える身体で何とか後ろに向き直る。
「て、めぇ、化け、猫……」
そこにいたのは先程妖怪に取り憑いた黒く沈んだ不定形の髑髏を纏った火焔猫燐であった。
「ごめんね」
お燐は屈託ない笑顔でそういって髑髏——怨霊をもう一つ操り妖怪に取り憑かせた。それで相手は電池が切れたように地に伏せて死んだ。
珍しい事であった。お燐は趣味こそ良いとは言い難いが。穏当で人懐こく、人を殺すことも、妖怪同士で争う事も滅多に無いのだ。
お燐の周囲に漂っていた怨霊は陰のように形を失いお燐の身体に込まれるように消えた。
「助かった、ありがとう」
唐突に介入してきたお燐の真意は川上の知る所では無かった。とりあえず手間が省けたので礼を言う。
「いや、お安い御用さー」
お燐は、お燐は我慢ならなかったのだ。目の前の美しいモノがあの程度の有象無造に侵されることが。
川上はナイフを拭って納めると変わりに両切り煙草を取り出した。一本咥えつつ言った。
「それで、予約のものを回収に来たのか?」
川上は火をつけ一服しつつ、普段より強い目線でお燐を見据えた。
その眼で見据えられると思いの外恐く、お燐は狼狽する。予約という言葉ですっかり忘れていたが確かに勇儀の前でそんな事を言った。本人に悪意は一切無かったが自分が死ぬものとして扱われるのは気分のいいものではないだろう。
「そんなつもりはないよ!お兄さん怒ってるのかい?その、ごめんよ」
お燐は猫耳をペタリと寝かせて、二股の尻尾を自身の体に巻きつけつつ謝った。相手を異様に畏縮させてしまった事に川上は少々驚く。怒っているのかと聞かれても何故自分が怒らなければならないのか川上には理解できない。
しかし改めて自身の心身を見つめ直して気がつく。怒りではない、少し猛っている。先程の鬼との戦闘を終え、ずっと取り組んできた一刀の工夫に進展が見られ、今更のように体が熱くなっていた。
こんな事で昂ぶるなんてまさに未熟さの露呈だと川上は思わず自嘲を浮かべつつ一服して言った。
「いや、怒ってはいない。では何か用だろうか」
「あの、それは!お兄さん、綺麗だったから!」
川上の問いにお燐は今度は顔を上げピンと耳と尻尾を立てて勢い良く言った。言ったはいいが上手くお燐でも整理出来ていないのだ。川上も怪訝な表情を浮かべる。
「だから、あたいは生きてる人間がこんな綺麗に思ったのは初めてで」
ワタワタしつつお燐はいっぱいいっぱいになりつつ言葉を紡ぐ。随分表示豊かだ。川上はとりあえず目の前の相手が自分に好感を抱いているらしい事は分かった。
「そうか、ありがとう。死体のほうは欲しければ死んだ時勝手に持って行って構わない」
ピクリとお燐の耳が反応した。
「死んで欲しくないな…」
ポツリとお燐は言った。何を言うのだとお燐自身も思う。死体を集める、それはお燐のアイデンティティに関わる事だ。
「お兄さんは生きてる方が綺麗だよ。だから死んで欲しくないよ」
死を否定したくはない。否定する気はないが、しかしお燐は確かにそう思ったのだ、自身に嘘はつけなかった。しかし、
「俺は死ぬ」
他でもない川上自身がそれを肯定した。彼は分かっている、人は死ぬのだ。彼に取って死は絶対であり、覆ってはならないものなのだ。
お燐は何かを言おうとして
川上は自分に伸びてきた手を危うい所で掌握して転身した。
「あれ?」
掌握された手首で小手返しの理合でコロンと転がされた第三者の少女がどうしてこうなっているのかわからぬという風に声を出した。
「こいし様!居たんですか?」
お燐は川上に倒されて初めて認識出来たその少女に驚いて声をかけた。
「うん、いたよ。お兄さんはどうして分かったの」
「眼がいいからな」
透明感のある綺麗な声で川上に問いかけた少女は、薄く緑がかったくすんだ癖っ毛をセミロングにして黄色いリボンをあしらった帽子を被っていた。
幼い顔立ちは可愛らしく笑みを浮かべているが、緑の眼はぼんやりとしているような、何を見ているのか分からないような焦点の合わない何処か違和感を感じさせる眼をしている。川上にも似通ったもののある眼だ。
服は上は黄色の生地に手元が見えないくらい袖が広く長めだった。下は緑地に薄く花が意匠されたスカートだった。
特徴的なのは左胸の前の紫がかった握り拳大程度の深い紫色の球体、いやそれは閉じてはいたが瞳だった。そしてその瞳かの伸びる幾つかの管が身体回りに巻きついていた。
覚妖怪である古明地こいしである。覚はその第三の眼で人の心を読む能力を持った妖怪であるが、こいしはその読心能力を厭い自ら瞳を閉じた事により全く別の資質を開花させたレアケース。
自分のアイデンティティである読心能力を捨てた結果。自分自身を失った少女。それを悲劇と呼ぶか、あるいは喜劇と呼ぶべきか。
自我のないこいしは無意識で常に動き、他者の無意識に入り込む。お燐が視界に入っているこいしを認識出来なかったように彼女は例え目の前にいても誰も路傍の石にいちいち気を払う事などないように誰にも気付かれない。
くい、と川上が手首を返すとこいしは自然と起き上がった。川上はこいしを観察するような眼付きをしていた。しかし、こいしを見る川上は小さく、ほんの小さくだが彼が普段浮かべないような厳しい顔つきをしていた。
ス、とさりげない動きで川上は数歩距離を取り、こいしに対して斜に立って短くなった煙草を踏み消した。こいしは柔らかく笑ってお燐に言った。
「お燐が生きてる人に興味を持つなんて珍しいね」
「えっ、はい、まぁ」
こいしにそう言われ戸惑いつつお燐は答える。お燐にとってはこいしは主人の妹に当たるが、同じ死体愛好家として仲は良い。
「それは恋です!」
そしてこいしはいきなりお燐に指を突き付けて声を張り上げて言った。あー、と言いつつお燐は顔を紅潮させて頬をかいた。言われればそうなのだろうと言う気もする。
「よし!じゃあお兄さんを私のペットにしちゃおう!」
「あー、こいし様?」
お燐はまた突拍子も無い事を言い始めてしまったと、困惑した。事実こいし自身に自我がないのでその場のノリで動くような所があり摑みどころがないのだ。川上は2本目の煙草を咥えて火をつけていた。
「そしたら館で二人共一緒だよ、猫のつがいだー」
「つがいって……」
こいしはどうやらお燐の為に言っているようだ、ペットが気に入ったオスが居るから一緒に飼ってあげよう。という単純極まりない思想だが。流石にお燐もこれに赤面しつつも呆れるような微妙な表情を浮かべていた。
「よし、じゃーお姉ちゃんに頼みにいこー!」
こいしは歩きながら唐突に川上の手を取り進みだした。一瞬ピクリと川上の肩が反応したが、結局彼は逆らわず歩きだした。何を思っているのか、どうでもいいのか。
お燐も次いで二人を追い出した。流石に無茶苦茶だろうと思う反面、飼って貰えたら正直嬉しいなと思いながら。
こいしは川上さんの天敵