昭和博多市中洲の奇談 愛しい人へあなたが好きでたまらない
昭和四十年四月博多市中洲。ボーイの募集看板を見てやってきた十七歳の川島勝はクラブ月光の面接を受けた。年齢は採用するのは男だから問題ないが、家族背景が気になる。面接者の桧山を見て川島は相手が自分と同類のよう感じがした。帰る家がない。寮に入ることになる。寮での夜食は出ないが、店の営業終わりに、残り物を集めての夜食が出る。寮に入るのを認められほっとした。総支配人玉川満に紹介。そして調理場に行き初給料まで、賄飯を出してくれるように頼んだ。昼をここで食べればいい。吉塚の寮に行き荷をほどく。夜は雑魚寝、人数分の布団はある。荷物は各自のロッカーに入れる。下着と着替えが二枚、Tシャツと短パン。翌日から仕事、店に行き先輩ウエイターの平松に、仕事を教えてもらった。
昭和五十年、不動興業のホステス採用担当の川島勝は、営業前のクラブ月光で面接をしていた。相手は十八歳と数日出ただけの若い女だ。
採用はするが、その姿はみすぼらしく貧弱だ。訳ありの身の上らしい。本籍地の役場に年齢確認と、存在確認の照会を入れる書類を準備する。幸い寮に空きがある。寮には眠れるくらいの夜具の用意もある。川島は彼女が家出でもなくただ家族から絶縁された若者だと感じた。それは自分も同じ、妙に自分の身の上と重なる。美人でもない。ただの小娘だ。洗練されていかないとこの世界は通用しない。小太りで顔は平たく目鼻立ちも悪い。この中州に来たのは今日が初めて、父親とともに来たと言う。最初はソープに連れていかれた。そこで店の人と話していたら、昔のように、売り飛ばしが出来ないと知り置いていかれた。そこでソープ大奥の支配人平松が、同じ系列のクラブ月光に連絡を入れた。少し話を聞くと父親は本当の父ではなく、母親の浮気で生まれた子で、家で厄介者。中学を出ると家の農業林業の手伝いで、牛馬のようにこき使われ、挙句に中洲での置き去り。川島は言葉が出なかった。母親のことを尋ねると、生まれたばかりの彼女を置いていなくなったと言う。残酷な話だが希望はある。そんな家族と絶縁できる。女は山田名無子と名乗った。母親の浮気の代償を子に払わせる。名無しとつけられた名前、田舎の陰湿さを感じた。吉塚の寮に連れていき、部屋や夜具の用意をする。布団を貰うと喜んだ。この寒空に、まともな布団で寝せてもらえなかったらしい。
川島は同情したがビジネスを忘れてはいない。寮の家賃、と食費、ここにいられる期間を説明する。ここはあくまで、緊急避難の場所なのだ。金が出来たらここを出ていく。それまでの仮の宿だ。寮のミカジメをしている末次さんに紹介して、夕食から出してもらう。夕食と朝食は出るが、昼は自分で食べねばならない。だが一文無しでは仕方がない。クラブの中の従業員食堂と言っても、調理場の横で椅子が二つの場所で、食べることになる。調理場の賄飯が昼食だ。明日から一週間、戸籍照会の返事が来るまで、川辺のところの清掃部門に行く。それでもホステスを希望すれば、ホステス修行をさせる。そのあととりあえず近くの飯屋で、カツ丼を食べさせた。感激しながら食べていた。「あんしゃま、おおけに。」
あとで中洲交番の、石井牧子巡査が来てくれると言う。いろいろ聞きだしてくれるだろう。自分の時もそうだった。冷たい家に耐え切れず家出して、牧子に事情を聴かれた。以来ずっと寄り添ってくれている。自分のせいではないことで、全否定される悲しさを、彼は知っている。それが中洲では珍しい事ではない。中洲は来るものを拒まない。自由がある。その自由に自殺する自由も、殺される自由も含まれる。もちろん飢え死にもある。最悪春吉橋の上で立ちんぼうでも、糊口はしのげる。クラブに帰ると、総支配人オーナーの玉川満に報告する。「美人をスカウトしてこい。」と言われるが、美人がそんじょそこらに転がっているはずもなく、スカウトの競争も激しい。この前ナンバーtwoの菱沼の嫁とは知らずスカウトして、激怒されたので「ストリップにスカウトしました。一人で見物はもったいない。みんなで見るべきでしょう。」と言ったら、殴られそうになったので、嫁をパートに出せない職場ですかと言ったら、玉川から、余計な一言が多いと言われた。その玉川、自分はオニオコゼのような顔をしているのに、姉ちゃんたちは日本人形のような美人、少し年増と既婚者だと言うのに目をつむればこのクラブは美人がそろう。黒服にお前らの女房を、ここに出せと言いたい。出してくれれば、スカウトなんて手間はいらない。
本籍地照会の返事が来た。問題はなかった。山田名無子に希望を聞いた。ホステスになるか、このまま清掃員でもいいと。そうしたら、ソープに行くと言う。初めからそう言うものは珍しい。理由はお金を稼ぎたいから。男の経験はあるのかと聞くと、あると言う。日ごろから家族や、近所の男たちから、日常的な性被害にあっていたらしい。何とも言えない気持ちになる。生まれたときから彼女を守る者は、存在しなかった。ソープの条件と給与の説明をする。いくら稼ぎたいのかと聞くと、二百五十万円。それを稼ぐのにどれくらいかかるかと聞く。本番は禁止されているが、やるのが当たり前。何回ぐらい本番をやるかに寄るが、だいたい半年ほどと目安を言う。愛そうよくして、客を捕まえればの話。やってきた支配人の平松からも、説明した。稼いでみろと送り出すことにした。つぶれるなよ。それがせめてもの餞の言葉だ。業務の戻るとホステスの精査を始めた。傘下のスナックからホステスの要請が来ていた。年配のホステス二人を推薦する。彼女たちはクラブよりスナックの方がいいだろう。一日中傘下のおでん屋からスナック、ソープ、クラブを見周り不都合を見つける。普段の仕事はそれなりに忙しい。彼の直接の上司木下は、外回りの営業をやる。クラブに来る芸能人、系列店を流す流しの歌手、店の前にいる占い師、それらが木下の采配にかかっている。名無子に源氏名が付いた。奈々子だ。なぜ同じにしたと聞いたら、いずれ捨てる名前、捨てる時惜しくないと言う。嫌な思い出は全部おいていけばいい。そういうと笑った。ソープで仕事をやって一か月、平松から電話が入る。奈々子の父親が来て稼ぎを全部出せと言う。仕方がない。白い背広に黒いシャツ黒メガネ、でソープ大奥に出向いた。父親は玄関でごねていた。川島がいくとびくりとした。見るからにヤクザ、「おれが話を聞こうか。」と、ドスの利いた声で言う。ビビっているのはわかる。「あんた何の権利があって俺の女が稼いだ金をとるんだ。」すみませんといって、逃げるように帰った。
クラブ月光に帰るには中洲交番の前を通らねばならない。行きは見つからなかったが、帰りは見つかった。牧子から交番に引き込まれた。訳を話すと解放してくれた。ここでは娘からせびりあげる親は多い。そのため人身売買組織の手に落ちる者も多い。石井牧子巡査は奈々子の顔を思い浮かべた。かわいそうと言って、何か変わるわけではない。変わらせようとするものに、手を貸すだけだ。
川島の中州人生は、ウエイターから始まった。彼は不思議なほど、指名手配犯を見つける。新しい客が来るとフロントが、指名かセットかを聞く。セットと答える客が大半だが、たまにそうしないのがいる。ナンバーワンを呼んでくれとか、一番年上とか、一番若いのとか。変な注文を付ける。そうしたら川島の出番。セットの飲み物を持っていき、客の訛りやしぐさに注目する。だいたいの職業の目安を付けると、交番の指名手配犯の顔写真を思い起こす。指名手配の写真と実際の顔とは違いが大きい。それを頭の中でスーパーインポーズみたいなことをする。そして何か決まれば、交番へ。何もないのが大半だが、一年にすると結構なだけ指名手配を見つけた。クラブの支払いの後に、逮捕されるように、逮捕は道に出てからにしてもらう。初めのうちは表彰された、金一封も出た。何回も重なると「もういいだろう。」と表彰も金一封も無視される。駐車違反したら罰金、牧子のところに行って報奨金との相殺にならないかと言いに行った。ダメだった。母親のような年齢の牧子から、報奨金と罰金は別だと説教を食らうのを、川島と同じ年齢の君島巡査が笑いながら見ていた。歩いて月光の方に行っていると、スナックムーランのママ久木原真子が寄ってきた。ムーランは不動興業の傘下の店、なんでも相談を持ってこられる。真子は中洲でも古株のママで、年を取ってきて細かい法律、経理届け出が面倒になり、それをやってくれる不動興業に、最初に傘下に入ったスナックだ。それから徐々に入る小さな店が増えた。今は裏路地のだご汁屋まで入っている。こんなことは金にはならないが、そのうち大きな波が来るだろう。ムーランのホステスのことで、相談に応じることにする。ムーランのホステス夕香はもう四十代に手が届こうとするホステスだ。真子の話によると客とホテルに行くのを、日常的にしているらしい。これは危険な行為なのだ。管理者のいるところでの売春なら、少なくとも命を奪われる可能性は少ないが、これはある。夕香に話を聞く。稼ぎが必要ならいくつか手はある。彼女の話によると亭主が借金をしていて、その返済で五十万は月に要ると言う。亭主の借金なら亭主に払わせればいいと言うと、彼女の名前で借りているらしい。そのため月づきの返済に追われている。翌日の昼間、その貸金業者数社に行くことにした。業者に行くと川島は不動興業の名刺を出した。相手が見ると名刺を取り返す。変な使い方をする輩がいるからだ。名刺の裏に「この人の会計は私が払います。」などと書き無銭飲食をされたことがある。木下から信用できない奴に名刺は渡すなと言われている。だがチンピラには不動興業の名刺は効き目がある。不動興業の前身は不動会、その前身は不動組。戦後この一帯を取り仕切ったヤクザ。いまだにその名残がある。不動興業の社長玉川は不動組組長の孫、不動会は解散になったけどその構成員はそのまま不動興業の社員になった。川辺が掃除会社をして雇う。飲食店に雇う、あらゆるところに再雇用した。クラブ月光の黒服は腕の立つものが多い。皆剣道の有段者以上の腕を持っているが、誰も段を取らない。何かあって問題になるのが嫌だから。玉川藤田は国体選手だった関係で段を持つが菱沼も川辺も木下も段はない。昔は、箸一本でも持ったら剣道初段は柔道三段に匹敵すると言われたころもあった。そんなわけで相手は少しビビった。借用書の原本を見せてもらう。「これあんたの字かね。」署名欄を指す。「違います。私が書いた覚えはありません。」コピーを貰う。次の業者に行く。同じことを繰り返し五業者ほど回った。月光に帰ると、亭主を呼び出させた。不動興業が、金を用立ててもいいと言ていると言うと、喜んできた。外で待っていた女も捕まえた。数人の黒服で二人を取り押さえていると、金融業者の用心棒が来た。二人を引き渡す。妻に借金を背負わせて、愛人と甘い生活を夢見ていた男は、これからが地獄の生活になる。
これからは借金を支払わなくていいと言うと、夕香はほっとしたような顔をした。そして亭主の心配をする。「亭主が作った借金だろう。亭主が返すよ。署名した女と一緒に。自分を大切にしろ。まだ借金返したいなら別だけど。」大声で怒鳴ると付き物が落ちた顔をした。そして「ありがとうございました。」と深々と頭を下げた。無事に立ち直ってくれたらいい。こんなに簡単なものばかりではない。そのために弁護士もいる。
勤め始めて二年後奈々子は、ソープ大奥をやめた。川島は気にはしていた。二十歳になったばっかりで、身寄りはない。強く生きていて欲しいと思う。
その年の大晦日の前日、川島は面接をしていた。年末の中州は人通りも少ない。年末になると夜逃げなどの事情で、駆け込みで入ろうとする者もいる。目の前の女は若い女だった。年齢は十八歳。接客業が雇っていいぎりぎりの年齢だ。湯島志乃と名乗った。美人だが世慣れてはいない。川島自身まだ二十四歳、若いが十六で家出して、此処のウエイターからしてきたので世馴れている。黒服になって四年になる。自分のアパートを借りているが、小さな部屋だ。女は小さな荷物を持っていた。下着くらいしか持ってはいないのだろう。少し考えて「今日泊まるとこある?」と聞くと、「ここは寮があると聞いたので寮に入れてもらおうかと。」と答えた。寮はいっぱいで、おまけに年末、寮母の末次さんは正月休みを取っていて、年明けにしか帰ってこない。店も大晦日と新年二日まで休みだ。玉川がいつも言う美人なのだ。このままのがしてしまうのは惜しい。今は時期が悪い。そう伝えると、頭を下げて出ていこうとする。呼び止めた。自分の家出の時を思い起こした。「俺の部屋で良ければ、泊めてやるよ。」男の部屋に泊まるのは、さすがに断ると思ったが、安心したような笑顔になった。調理場の横に連れていき、椅子に座らせ、料理長に賄飯を出してくれるように頼んだ。料理長が「持ち帰る気か?」と言う。「もちろん。」と答えた。
クラブが終わるまで、ここで待つように言うと、うなずいた。素直さがかわいい。これなら立ちんぼうをしていても金は稼げる。
今年の営業が終わると、川島は志乃を連れて、部屋に帰った。ストーブを付けて部屋を暖める。小さい部屋はすぐ温まる。風呂を用意して入らせようとすると、着替えが無いと言う。仕方がない、パジャマと男物のトランクスを出してやった。風呂から出た姿を見たときはっとする美しさがあった。布団を出し入らせた。自分も風呂に入った。風呂場に洗濯した女ものの下着があった。しわを伸ばして室内ハンガーにかけ干した。同じ系列のソープにいたこともあるので、女ものには慣れている。よほど疲れていたのか女は寝ていた。押し入れから布団や毛布を出し、ソファで眠った。翌朝朝からたたき起こされた。ドアが激しくたたかれた。支配人の菱沼がいた。
「お前、昨日面接していたよな。」
「ええ、しましたけど何か。」
「まさかと思うが、持ち帰りしていないか。」「いいえ。」とすっとぼけようとしたが、その後ろから菱沼を押しのけ、ずかずかと土足で部屋に踏み込んだのは、川島も見覚えのある三十ぐらいの大柄な男だ。布団を跳ね上げると中にいた志乃を捕まえる。
「おい、自分で服を着て一緒に帰るか、裸でおれから抱えられて帰るかどっちか決めろ。」志乃の着ていた男物のパジャマをはぎ取り、その下の男もののトランクスをはぎ取った。「お兄ちゃん、怒っている。怖いよ。」と半べそで小さく言うと着始めたが、ショーツとシミユーズが半乾き、それを付けるのを諦めてワンピースを着てコートを着た。伝線しているストッキングを、付けるのはあきらめた。抱えられるようにして、下に停まっている黒い高級車に詰め込まれた。川島が言う「ありゃなんですか。」「藤田社長の妾、志乃だよ。」「妾ですか?今時に。あの若さで。」「志乃は十六だよ。」「まだ子供じゃありませんか。十八と言っていたから今日あたり手を付けようかと。」藤田社長は不動興業の柱の一つ。不動産部門を担当していると言うか、担当もしている。玉川の友人だ。
「命拾いをしたな。やっていたら殺されたぞ。」「なぜ結婚しないで妾なんです。」「年齢もそうだが、最大の理由は、親父さんの反対らしい。」「金持ちは大変でーえすね。自由に女も抱けないすね。女より親父が大切だ。」嘲るように言う。
「まあな。お前、一言多い。正月はどうする。」「寝正月です。食料買い込んでです。女と寝正月、そう予定していましたが外れました。」菱沼は、いい正月をと言って帰っていった。
この寒空に志乃を保護してやった。感謝しろと言いたかった。
正月と二月は水商売の売り上げが落ちる月。そんな時は少し物騒になる。中洲交番には金太郎部隊と銘打って警官の警備がきつくなる。でもやはり物騒な空気はある。春吉橋の立ちんぼうが殺された。
中洲はあんまり騒ぎにはならない。ここの治安が悪いとなれば客足にひびく。中洲ではなく春吉の出来事だ。しかし春吉と中州は背中合わせ、同じ場所と言っていい。
川島はその翌日牧子のところに行った。情報が欲しかった。被害者は五十代の女。若いころから春吉娼婦、老いてくれば売れなくなる。おでん屋で稼ぐ気はなかった。ソープの女性たちを思った。牧子は言う。「春吉橋は殺人が珍しい事ではないよ。進駐軍の時からそれなりにあってね。前にも女の死体が出たことがあるよ。同じころだったね。」「同じ犯人でしょうか。」「わからないね。ただ言えるのは被害者にならないように女も気を付けることだよ。立ちんぼうは、危険、あれがあって以降、立ちんぼうは居なくなったね。だけど場所を変えてする人もいるからね。」悲しい話だ。
その年の五月、クラブ月光の面接に来た女がいる。美人だ。化粧もうまい。川島はいつものように面接した。相手は川島をよく知っている。なんか初めて会う気がしない。じっと相手の顔を見る。顔に見覚えはないが、強い九州弁が耳につく。その訛り聞き覚えがある。「もしかして奈々子ちゃん。」言ってみる。「そうよ。見違えたでしょう。採用してくれるの?あんしゃま。」この言葉は名無子の言葉だ。「もちろん。」その夜から出勤となる。寮の必要はなく自分でアパートを借りていると言う。このために2年も頑張ったのかと、ほめてやりたい。源氏名がいる、この店の名前一覧を見る。だいたい百はある。色気のある名も、ない名もあるが、このクラブのナンバーワンからファイブまで限定名前の桔梗を使う。
夕方出勤して全員に紹介する。美容整形はもちろん秘密、体形は脂肪吸引で見事なプロポーション。ドレスは店の貸出物だがきれいに似合っている。新入りを菱沼が見に来る。「あれは、奈々子ですよ。」の言葉にびっくりしていた。極端な美人と醜女は印象に残る。奈々子はそれなりに印象に残っていた。天然美女もいいが人工美女もいいものだ。川島は鼻の下を伸ばしてみている。月光に美人の新人が入った。再雇用なので本籍地照会をしないと思っていたが、いつもの癖で発送した。その夜の営業が終わり、一人帰っていると後ろから声をかけられた。声をかけてきたのはホステスの葵さん、年配のホステスである。進駐軍時代からの中州を知っている。だご汁屋に一緒に入る。葵さんは今独身。彼女がなんで、今の月光にいるのかというとそのダンスの腕前である。少しは聞きかじったくらいで、みんなダンスを踊っているが、彼女は本格派を踊れる。黒服の伊藤は妻の茉莉子が妊娠して相手が出来なくなったので、相手をしてもらっていた。フロアの空いた時、二人で踊ると拍手があった。希望するなら傘下のスナックでもいいのだが、元気なこのホステスに、癒される年配者も多い。茉莉子は玉川の姪で伊藤とはダンススクールの同期、結婚していた。葵は言う。「今日来た子、知り合い?」ああそうか彼女はソープに行った。月光でホステスをしたことはなかった。内営業だからソープの女もスナックの女もみんな知っているが、月光のホステスがソープの嬢の顔を知らないのは、当たり前だろう。言うべきではないのは、わかっているので黙っていると、察したのか黙った。「私が占いをするのは、知っているでしょう。」そう彼女は占いをした。腕前は確かだ。ただ金を受け取れないと言う。プロでやっていくのは、占いをさせる守護霊が許さず、無料でやる時のみ的中すると言う。「私ねえ、今日来た子、不穏なものを感じるのよ。だからそれを伝えたかった。」「今日は僕おごりますよ。」と伝票を取ろうとすると「私が謝礼貰えないのは、知っているでしょう。」と言う。このだご汁屋は不動興業の傘下の店。「おや、川島さん、恋人を連れてきたと思っていました。」ここの親父が通りかかり言う。「悪かったね。恋人で通るでしょう。」葵の反撃に、おやじは苦笑いして通り過ぎた。歩いて吉塚にある自分のアパートに帰ると、風呂に入り寝た。葵の言葉が気にかかった。と同時に思う。あれは本当に奈々子なのか。しかしそうしたところで、何のメリットがあるのだろう。気の回しすぎと思う。次の休日、春野市に行くことにした。場所は休暇村。以前中洲でオカマバーを開いていた中洲の小雪ちゃんがやっている。バイクに乗って休暇村に行く。途中大きな道路から小さな山道に入る。ここに来るといきなり道端の藪から鳥が出てきてバイクの前を走る。バイクのスピードを落として付き合うが、鳥はバイクのタイヤスレスレを走り、カーブにさしかかるとまっすぐ走って藪に消えた。なんだあいつはと思うが数回に一回は会う。
曲がりくねった道を行くと少し視界が開けて休暇村が目に入る。そこの居酒屋風の建物風車に入ると中洲の小雪ちゃんが応対してくれた。小雪ちゃんはオカマバーを引退してからここで居酒屋とコテージをやっている。コテージの部屋を取る。担当の宮部が用意した。近所のヤマメの養殖場の釣り堀や、渓流釣りもあるが、川島の一番の目当ては、ここの夕食。イノシシの丸焼きがある。結構な名物。そのほかには小雪ちゃんはダンス教師でもある。男おばさんのため、いい年をした男が女言葉を使うのに違和感もある。身ぎれいにして髭も剃っている。そんな男おばさんなのだ。クラブ月光とは因縁浅からない関係らしい。詳しくは知らない。ここは中洲に無いほっとする空間なのだ。フロアではダンスのコーチを受けている若いペアが二組いた。コーチが終わると小雪ちゃんがコーヒーを入れてくれた。「最近玉川どう?」と聞いてくる。「元気ですよ。厳しいボスは相変わらずです。」「厳しいボスは彼だけではないでしょう。菱沼だって、隆一だって、もっと言えば川辺だって、ビジネスには厳しい男よ。」「でも、女にはめっぽう弱い。」「そうね。みんな弱みは女ね。」この前の騒ぎを話す。「へー、志乃が逃げたの。珍しいわね。」「知っているんですか。藤田社長の妾。」「詳しくは知らないけど、隆一にとってはかわいくて大事な女よ。」「まだ十六、子供じゃないですか。」「五歳から隆一と暮らしてきた子よ。妾だと自分では言っているけど妹よね。昔からかわいくてたまらない妹よ。あんたは誰かいるの?」
「気になる女はいるんですよ。」と名無子のことを話す。「ふうん。」と聞いていたが、カウンターから水晶玉と虫眼鏡を取り出す。葵さんといい小雪ちゃんといい、水商売のお姐さんたちは、これが好きなのだろう。しばらくじっと水晶玉を見ていたが、やがていう。「この春野市、昔は山だけのところだったのよ。でもね。人が住み、男が来て女が来て家族が出来て。ここは何もないところよ。家族の中の誰かを犠牲にしないとやっていけない。その犠牲になったのは子供たち、特に女の子。若い嫁も。」一息つくようにコーヒーを飲んだ。「そこでお化けが出来たのね。ナリカワリ。ある家の女がいなくなると、その女にそっくりの女がいる。売られた少女、売られた妻。口減らしのため谷底に落とされた年寄り。やがてその家はナリカワリばかりになり、ある日消える。そこには昔の山ばかり、人の住んだ以前の山よ。」「そのナリカワリをまた売ればいいじゃん。」「買いに来た女衒には見えないよ。」「ホラーだね。」「それがあんたに憑りつこうとしているよ。」川島は慌てて椅子から飛び上がった。「心配しなさんな。これをあげる。」とお守りを取り出した。「この先の桐谷神社のお守りよ。二千円ね。」財布を出しながら思う。なんかごまかされた気分がする。桐谷神社は比較的大きい神社。珍しく神主がいる。神主は風車にアルバイトに来ている。
「お祓いもしてもらったらいいよ。」この上俺から金を巻き上げるのかと思ったが、してもらうことにした。料金は五千円。出勤してきた神主にお祓いをしてもらう。テーブルに一式お祓い道具を乗せると、祝詞があげられ払いが行われた。これで妖怪とは縁が切れる。すっきりした気分でイノシシの丸焼きを味わった。ご利益があるのだろうか。そして中州にもナリカワリはいるのだろうか。一泊して帰り際小雪ちゃんに言う。「俺いつも失恋しているだろう。美人のナリカワリが俺に出てきてくれないかな。」「失恋や片思いのエネルギーがナリカワリのエネルギーになるんだろうね。私だって死ぬほど恋した女はいたのよ。死んだけど。それで男の部分の終わり。」小雪ちゃんも所詮男なのだろう。オカマが惚れた女はどんな女だろう。想像する。
そこを出発して約二時間アパートについた。
夜の出勤に出た。事務から戸籍照会の返事を手渡された。そこの返事に驚愕した。
山田名無子は死亡していた。今ここにいるのは誰だ。彼女は妖怪なのか。死亡したのは今年の二月。名無子を名乗る人物が来たのは五月。彼女がソープで二年かけてためた千五百万くらいは有っただろうと思われる預金。警察に相談するべきか。平松なら名無子と桔梗をみわけられるかもしれない。翌日平松に事情を話して会ってみてもらうことにした。菱沼に報告しなければならないだろうか。もう一日待ってみよう。それがいい判断かどうかはわからない。その夜の営業で桔梗の人気はあった。人工美人でも美人は美人、彼女がフロアに降りて、客を相手に踊って目立っていた。
翌日開店前平松が来た。いくつかの署名が必要な書類を用意して、事務室に呼び出した。平松が事務机に座り書類を出す。署名欄に署名を貰う。いろいろ事務的な説明をする。そして最後に言う。「これで書類はそろいました。名無子さん。」平松が言うと桔梗こと名無子は頭を下げて部屋を出た。出て行きしなに川島の耳元で言う。「ソープを思い出させないで。あんしゃま。」残った平松と川島は、平松が持ってきた書類の署名と、比べ言う。「筆跡が似ていない。」中州はあまり他人の過去を詮索しない。だが一人が消え、消えた者の名前を使い、誰かがここに来た。ぞっとした。だが桔梗は名無子の雰囲気を持っていた。川島が面接したとき、確かに彼女名無子の奈々子だった。だがその奈々子は、平松に声をかけなかった。ソープで一番接触した支配人を、見おぼえないもののように扱った。だが川島にはささやいた。それは初めて出会ったあの日、彼女が言った言葉だった。それにしても筆跡がちがう。桔梗は達筆、名無子は金釘流だ。どう見ても同じ人間ではない。同じかもしれない。小雪ちゃんの妖怪話が現実味を帯びてきた。
木下に相談、そして菱沼に話がいく。弁護士相談案件な気がするが、まずは木下が面接をした。戸籍照会で死亡になっているのを告げると、驚いていた。「一つだけ思い当たる。」と言う。東京で整形をしてソープに出たとき、中国人のスタッフに、名義貸しをしてくれと頼まれた。聞くとオーバーステイで、逃げ回っていると言う。貸し賃は五十万、悪くはない金額。そのころ全財産を、整形に使ってしまったため、金が欲しかった。自分の情報を渡した。少し金が出来たのでこちらの戻ったと言う。弁護士に事を任せると一筆を取り、弁護士に任せた。ここまでする店はない。玉川の経営理念があるからこその、そこまでの世話なのだ。不動興業が中洲で傘下を多く持つ理由がこれなのである。厄介ごとを全部引き受けてくれる。経理や届け出の代行をする。細かい事だが年配のオーナーにはありがたい。愚痴は中営業の川島が聞く。行事や芸能は外営業の木下が聞く。経理や税金は菱沼、不動産案件棚代案件は藤田がした。いい仲間なのだ。
相変わらず桔梗は人気がある。その日も指名が五本も同時に入ったが、回れるものではないので、二本は辞退した。欲張れば客が離れる。ヘルプで入って、愛想を振っている。川島は家族からはじき出された自分を取り立てて、修行させてくれる不動興業には感謝している。だが、やめられない癖がある。一言多い性格を改められない。
次の休み春野市から一段と山深い、大石村に行く。いまだに自治体名が村なのはここだけ。三つの村が集まって合併してもまだ村にしかならない。春野市と大石村の境にある龍神滝を通り過ぎると観音堂がある。それを過ぎてしばらく行くと家がまばらになる。畑に出ていた村人に家を聞く。「山田彦四郎さんの家を教えてください。」と言うと教えてくれた。山の中の道のドン詰まり。先なしの彦四郎とその村人は言う。縁起でもない呼び名だなと思う。山の中のそのまた山の中、そんな辺鄙な山の中から山田名無子は出てきた。彼女の母は山の中廻りをする置き薬行商の男と姿を消した。生後間もない名無子を置いていなくなった。父親はわが子と認めず、名無しと名づけた。そして売る時の金を楽しみに育てた。このころ置き薬の行商人と山の中の若い嫁が出ていくのは珍しくなかった。低収入の山里暮らし、希望のない暮らしは外へのあこがれを強くした。名無子の母はどこに行ったのだろう。一緒に逃げた置き薬の商人はどこに行ったのだろう。
山田名無子の家に行く。父親の彦四郎は寝付いていた。まだ六十代、寝付くような年齢ではないが、持病が悪化したらしかった。
長男は山を下り隣の市の工場で働いている。
看病をしていたのは長男の嫁美津子。頑として老人ホームにも病院にも行かないので、このまま置いておこうと思うと言う。寝ている耳元で声高にそれを言う。この嫁ともいろいろあったのだろう。名無子の死亡届に関して知らないかというと、以前そういえば名無子が死亡したと連絡があり、骨壺の引き取りを尋ねられたが拒否したと言う。時期は覚えていない。どうでもいい事なので覚えてもいないらしい。
「このまま置いていくなら、保護責任遺棄になるよ。」と言う。
きけば彦四郎は、頑としてこの家を動かないと言う。役場に言っても身内でどうにかしろと言うだけだろうが、一応言っておくことは悪くない。体は利かないのに口は悪い爺さんで、散々わめき散らかしている。美津子もたまりかねて、この爺さん早く死ねと口汚くののしった。役場に行き手続きをするように言い、ふと思う。なんでここに執着する。かわいげのない爺、関係ない川島ですら、そのまま捨てて行ったらと思う。以前玉川が言う。今これがあるのは原因がある。その原因を知らないで解決はない。思ってみればそうだ。女房の尻に敷かれてペシャンコの菱沼も、玉川が中洲にこだわる理由も、皆女だろう。だから、彦四郎のこの家にこだわる理由も女?彦四郎の寝ている部屋を見る。日当たりの悪い湿気の多い北側納戸。日当たりのいい部屋はある。風通しのいい部屋もある。なにより玄関近くで便利のいい快適な部屋がある。なぜ暗く湿気がたまり、風通しの悪いこの部屋なのか。
恐ろしい考えが浮かぶ。電話機を見た。このころ田舎に多かった有線放送電話。電話機の横の回しハンドルを回す。交換手が出ると駐在所につないでもらった。彦四郎の家に来るように頼む。美津子が帰ってきて、まもなくして駐在さんが来た。役場の車も来た。川島は納戸に行き彦四郎の布団をずらした。彦四郎は抵抗した。暴れて川島が、抱えて移動させた。
「美津子さん、義父さんは判断能力にかけています。ここにいる身内はあなたしかいません。許可してください。」美津子はうなずいた。彦四郎は布団ごと抱えられ、日当たりのいい風通しのいい、座敷に運ばれた。声にならない声で抵抗している。
納戸の畳をめくる。ムッとする瘴気が立ち上る。下に石灰をまいた跡がある。納屋からスコップをもってきて石灰の上の方から泥をよけた。中から骨が見えた。「名無子さんのお母さんでしょう。」駐在さんが有線放送のハンドルを回した。この有線放送電話は、同じ回線五軒の家に筒抜け、村は大騒ぎになった。暇なことが取り柄のこの村で、殺人事件が暴かれた。畳はすべて剥ぎ取られ、彦四郎は市内の病院へ強制的に入院させられた。警察の規制線が張られ、小さな家はごみ一つにまで調べられた。翌日から警官が大勢で、床下を掘った。
納戸の地下からは、二人の遺体が出てきた。女性が一人。男が一人、手荷物から男は、置薬の商人と分かった。女性はおそらく名無子の母だろう。彦四郎の身内、近所の親戚も事情聴取をされた。もちろん“桔梗”こと山田名無子も聴取された。そのころはDNA鑑定も精度が低く捜査に使われてはいない。桔梗の名無子はひどい親だったと証言した。彦四郎と、桔梗の対面はすさまじかったらしい。お前なんか娘じゃないと言う彦四郎にお前なんか親じゃないと言う桔梗。激しい言いあいの末に、彦四郎が言う。「こいつは娘の名無子じゃない。別人だ。」負けじと桔梗が言う「親じゃなくて人でなし。母さんを殺しておいてよくその上で生活できたね。こんな奴親じゃない。」結局彦四郎は逮捕されたものの、病院から出られない。死体について何も言わなくなった。
弁護士は山田名無子の戸籍の復活と、分籍をした。そして名前を変えた。母の苗字を名乗り、佐々川純子にした。名無子の名は悪意ある名付けとして改名が認められた。殺人の時効スレスレだ。彦四郎の犯罪証明は長引くだろう。それまで彼が生きているかわからない。死んで地獄に行くがいい。彼自身が妖怪だったのだ。静かな森があり、絵にかいたような景色がある。そこに暮らしていくのはむつかしい。ナリカワリは、そんな村に住んでいる。
翌日も聴取があるため、小雪ちゃんの風車に行く。泊まるかどうか考えあぐねた。ああそうだ。今日もクラブ月光は営業する。帰らなければ。あそこが自分の家族だ。帰ろうとしたがそのままカウンターに伏せて眠ってしまった。どれくらい眠っただろうか。ふと目が覚めた。小雪ちゃんがカウンターの内側でグラスを磨いていた。「目が覚めた?」と話しかけた。「うん、少しまだぼやけているよ。」「もう遅いからここに泊まっていきなさい。」「えええつ、小雪ちゃんと同室?俺、普通に女がいいんだけど。」「馬鹿ね。誰があんたなんかと同衾するのよ。コテージに部屋を用意しているよ。宮部さんに頼んでおいたから。」ほっとした。言葉はきれいだが、おっさんと同衾する趣味はない。「ついでに、俺と一緒にナニしてくれる美人はいないの。」「俺でよかったら相手するよ。」小雪ちゃんがわざと男声で言う。
コテージで布団に入り眠る。夢の中でいい、名無子に会いたいと思う。夜が明け、日が高くなっていた。目を覚まし風車に行く。警察関係者がいた。みんな朝ご飯を食べていた。ふかふかの棚田米のご飯はオカズが要らないくらいおいしい。ヤマメの塩焼き、山菜の佃煮、みそ汁には豆腐薄揚げ、出来立ての生豆腐、どれをとってもおいしい。ハフハフフウフウと言いながら食べていると、警察関係者の食事が終わったようで、じっと川島の方を見る。「あんた、うまそうにたべるね。」警官が言う。小雪ちゃんがコーヒーを入れて持ってくる。「このコーヒーの水は、今朝龍神滝から汲んできたのよ。あそこの水はコーヒーにぴったり、一味違うのよ。」龍神滝、ふと名無子の何か言ったのを思い出そうとした。思い出せない。コーヒーはよい香りがした。川島は香りを嗅ぎ、口に含んで味わい、舌の上で転がした。えぐみのない香りと奥深い味が口の中に広がる。
龍神滝は春野市と大石村の境にある。福岡県内では一番高い美濃山の中腹にある滝だ。この山には大小の滝があり、その滝にはツボが置かれ、そのツボにビニールホースが差し込まれて、近辺の家につながれて簡易水道になっている。お茶やコーヒーがおいしいのでスナックやカフェが水を欲しがる。そこで業者に頼み龍神地区の住民の同意のもと水を配布する組織を作った。今ではカフェなどに水を入れている。まだウオーターサーバーなどは無かったが、水が注目されてきている。山の中の産業が出来ることはこの地に住む人にとって大事なことだ。これは外営業の木下の仕事だ。そして不動興業の幹部藤田隆一は、九州の山林の大地主なのである。その隆一は水事業を本格的にするか、検討していた。「そういえばあの滝のそばに観音堂があったね。」小雪ちゃんは答えてくれた。「あるわよ、あの山は分水嶺でね。大石村の側に、立っているよ。そばのお寺の龍音寺の管轄よ。」近くの龍神神社は春野市側で桐谷神社の管轄らしい。二日に一回の掃除の日、宮司が水を汲んできてくれると言う。二千円のお守り代がその返礼なのだろう。そっとお守りを見た。宿泊費を払い、店を出る。名無子にはほのかな恋心があった。今はそれが上書きされていく。名無子はどんな顔にしたかったのか。あの平たくて目鼻が小さく頬骨が張る九州にはよくいる顔がそのままでもよかったのではと思えてくる。名無子どこにいるのだろう。
川島は相変わらず忙しく傘下の店を見回りに行く。平松から書類の整理をしたいと言われ手伝いに行く。ずいぶん前の書類からあった。五年は保存義務があるが、不動興業は七年にしている。というのは警察からの問い合わせがある。以前浮浪者の女性の身元照会があり、不動興業に残っていた写真で身元が分かった。五年までの物を店に残しそれ以前は場所を取るので隆一の春野市の居宅の土蔵に入れている。捨てるのを考えてもいいのかもしれない。大半の整理がすんだ頃、平松が一枚の写真を差し出した。ここに来たばかりの山田名無子の写真である。その写真を見ながら今の顔と頭の中でスーパーインポーズをしていた。違う、今の佐々川純子は、昔の山田名無子ではない。山田名無子は消えて、得体のしれないナリカワリがいた。その写真を大切に財布に入れた。裏に山田名無子とあり生年月日本籍地が書いてある。そしてそれは金釘流の彼女の字だった。消えていく前の最後の抵抗のような気がした。これに目を止めさせたのは彼女の意志だったのかもしれない。
営業が終わると、川島は中洲交番に行った。牧子はもう帰っていなかったが、巡査の君島がいた。指名手配犯の分厚いファイルを出してもらう。ポスターになるのは一部で、常時五百人ほどが手配されている。若い女性の指名手配犯。あった。飯島里穂三十二歳写真を見ると今の佐々川とは少し違うが、ここを整形してとか考えると、似ている。なにより骨格が同じ。誰に言っても信用されないだろう。牧子は信用してくれるか。指名手配の理由は殺人、二人の男を殺していた。年配の男に金を貢がせる。ある程度したら自然死事故死に見せかけて殺す。発覚したのは二人だが何人いるかわからない。山田名無子も彼女に殺されたのか。山田名無子は生きていれば二十三歳九歳の開きがある。女はそれくらいごまかせる。かつて月光にもいた。いつまでも二十八歳。本当の歳がばれたときは三十六歳。本籍地照会をしたら一発でばれた。それでも二十八で通した。女はずうずうしい。
川島はその夜、葵にだご汁屋に誘われた。彼女の給料はしれている。その彼女がおごると言う。どういうことかと興味があった。だご汁屋で一杯頼む。そしてとりわけ容器に取り分けて半分こした。それを食べて別れた。別れて吉塚のアパートに帰る道を歩いていた。しばらく歩いていたら、遠くからけたたましい救急車のサイレンの音がした。まさかと思い道を引き返す。救急車の止まったところに、葵が車にひかれて倒れていた。即死だった。救急車に乗って付き添った。彼女は独身、身内はいない。さっきのだご汁を思い出す。あれは今生の別れだったのか。
病院に一応運ばれた。医者が死亡を宣告した。体はつぶれていたが、顔がきれいだったのがせめてもの救いだ。霊安室に安置された。
翌日警察立ち合いで葵のアパートに入る。身内の手掛かりを求めた。整理されていた。本名木村多江、小さな仏壇に遺書があった。これだけ見れば自殺かもと思うが、相手の車は酒酔い運転。普段から何かの覚悟が、あったのかもしれない。遺書には公正証書を、公証役場に預けている旨が書かれていた。そして内容は全財産を川島に譲るとある。直葬で葬儀が行われた。玉川の友人、坊主の立花が葬儀を仕切ってくれた。四十九日に公正証書の開示があり、川島に全財産の譲渡が記されていた。
と言ってもたいしたものはない。一千万円の貯金と不動産としてマンション。ド田舎、今宿の景色のいい山林、と言っても百坪などがある。川島は、借金はないが資産もない。初めてもらった資産だ。完全に手続きが終わって、賃貸アパートから葵のマンションに、引っ越した。このころ博多のマンションは値上がりしていた。しばらくして畳のこすれが気になり、業者を呼んだ。畳をすべて剥いで、新調することにした。畳をはぐと、畳の下に封筒があった。開いてみた。写真が一枚、裏に葵の字が書いてある。
李白蘭、千九百二十年大連生、若い頃の葵だ。一目でわかった。本名はなじみがない。ここに書かれているのは本名だろう。日本人なのか、中国人なのかはわからない。この李白蘭は川島の記憶の中にいない。いるには葵となった中洲のホステス。それで充分。その写真を仏壇に置いている骨箱に入れた。玉川の同級生の坊主、立花の寺に納骨堂の一角を買った。来週そこに納骨をする。なぜ自分に残そうと思ったのか、そこが不思議だった。
川島はその夜夢を見た。飯島里穂の夢だった。暗い中をひたすら自転車をこいでいる。大きなリックを背負いひたすら漕いでいる。前に立ちはだかる女がいる。そしてゆっくり川島に顔を見せる。山田名無子だった。優しく微笑んで消えた。川島は声を出す。「今どこにいる。」声にはならなかった。
休みの日、川島は休暇村にいた。小雪ちゃんと話をした。この前ナリカワリの憑依に対するお守りと、お祓いが利いていないと文句を言う。小雪ちゃんは川島をじっと見た。小雪ちゃんと言うが見方によればおっさんなのだ。いい歳した女ことばのおっさん。そのおっさんの小雪ちゃんが言う。
「あんた、女の本気の情事を知らないでしょう。」「そんなのがあるんか。女なんて一緒だろう。穴に入れてふんふんとやって、出すものだしたら終わり。」
「馬鹿だね。芯から女に惚れる、惚れられるがないなら、男じゃないよ。わたしゃあるよ。」遠いうっとりとした目をする。
「で、それが何の関係がある。」「ナリカワリは女から惚れられない男に憑りつくよ。あんたはね。あんたに惚れた女から守られているよ。多分。ご利益はあったんだよ。」へーそうなんだ。小雪ちゃん、男として女とやったことあるんだ。こっちのほうに興味がいく。小雪ちゃんは、こってりと過ごした夜の後、肝臓がんで衰えていく姿を見せたくないと毒をあおった女を思い出していた。
「川島、あんたいい男だよ。女がいつか惚れるよ。魂抜かれて、もう女に手出しできない男もいるけどね。気を付けな。」そうはいってもまたお守りを売りつけられた。今度は三千円、痛い出費だ。そして思う。名無子しか知らないことを今の名無子の純子は知っている。これは名無子の意志なのだ。名無子はどこかで里穂と会い、自分の情報を渡した。多分金も。里穂に聞くしかない。名無子の行方を。それまでは、警察に知らせることはしない。
雑談をした。その中で葵のことも話した。葵とだご汁半分こしたんだ。若い女なら自慢だけど葵では年配過ぎる。ふうんと小雪ちゃん。炉にイノシシが処理されて、かけられていた。表面を薄くナイフで削って皿に入れてくれた。上から小雪ちゃん特製の、ソースをかけてくれる。沢のクレソンやセリを添えてくれた。季節はいつしか夏になっている。このイノシシは一旦捕って豚の飼料でしばらく肥育している。臭みもなくおいしい。真夏はイノシシがマムシを食べる時期だ。旨くなる。このイノシシはうまかった。マムシを食べてイノシシがうまくなると初めて聞いた時は、食欲が失せたが今は平気だ。
川島は、かねてから予約していた立花寺に葵の骨箱の納骨に行く。いくつ名前を持っていても法名は一つ、寺の納骨堂に収まった。戦後の混乱の中、戸籍屋がいた。戸籍を売る商売だ。何人もの日本人が死に、本人のいない戸籍はたくさんあった。李白蘭がどういう人生を始めたのかはわからない。終わりでは葵として納骨堂に収まった。それでいい。詮索をするときりがない。
川島は身内の葬式も覚えていない。そもそも親戚さえも知らない。親も生きているか死んでいるかさえわからない。そろそろばあさんか、親のどちらかが死んでもおかしくない。それとも死んだことも知らされないほど、縁が切れたのだろうか。あるいは自分のナリカワリがいて自分がいないことに気が付いていないのか。それを悲しいとも思わなかった。川島は小雪ちゃんのことを考えた。
夏の夕方、風車は金鉱山の従業員で、少しずつ込み合ってきている。
風車は不動興業の傘下に入っている。山主の藤田隆一が鉱山会社と交渉、風車は福利厚生を兼ねた社員食堂の役割をしている。時々菱沼が来て帳簿を見ている。放漫になりがちな事業をしっかり支えている。川島は小雪ちゃんの経歴を、思い出していた。川島の知らないこともある。
小雪ちゃんは若い時は炭鉱にいた。福岡市近郊の炭鉱がひとつずつ閉山していき小雪ちゃんの炭鉱も閉山した。元々彼は細マッチョタイプで、力も強い。何をすると言ったとき、オカマバーを開いた。ただのバーでは儲けが少ないと思った。と同時に自分にも、その方面の気配があったのかもしれない。ダンスを勉強した。当時米軍兵相手に踊れないと商売にならなかった。ダンス極めたころ、一人の女に出会う。当時の港湾の実力者の妾矢野アキに恋をした。オカマが女に恋をするのは変かもしれないが、こういうこともある。小雪ちゃんは長年彼女を口説いたが、いつも返事はno。そんなある日アキがホテルに誘った。その一晩が小雪ちゃんを変えた。小雪ちゃんは女を知らないわけではない。ただ商売としてのオカマと生活の男との区別がつかない。ここしばらく女を抱いていない。アキは美しい女だ。旦那から性接待に使われることもある妾。その彼女が小雪ちゃんを自分の意志で選んだ。男を体の中に入れると狂おしい程の蠕動やがて男の精気をすべて吐き出させた。しばらくボーとしていると、体の中に誘い込まれる。その肌の吸い付くような感触に男が反応する。抱きしめて、それでも狂おしい思いが廻る。何回も男の精気が吐き出された。やがて朝が来た。帰ろうとするアキに体をまきつかせベッドに引き倒した。電話を取りもう一晩の承諾を取ると、部屋への食事を頼んだ。アキは自分の病気のことを小雪ちゃんに話した。末期がん、痛みや苦しみは始まっている。それに耐えることはできない。アキは痛み止めや麻酔が効かない体質で、自分のこれからが予想できた。小雪ちゃんへの、今生の別れだ。彼女の腹には、メディユサーの首(肝臓がん肝硬変などで出る静脈留)がうっすらと出ている。肝臓機能が低下している。数日後アキはがん治療を諦め自殺した。痛みで苦しむ期間が短かったのが救いだった。もう女を好きになることはない。小雪ちゃんの心にアキがずっしりと居ついていく。そして月日が過ぎるたび彼女の良いとこばかりしか思い出せない。心の中でいつしか理想の女になって行く。命日には、アキが残した手編みレースのドレスを着た。今日は赤い手編みレースのドレスを小雪ちゃんが着ている。その赤いドレスは男おばさんを優雅に見せた。川島が小雪ちゃんから赤い手編みドレスのいわれを聞いた時、矢野アキを教えてくれた。
川島は仕事をしている間も考える。名無子のことをいつ“桔梗”に、問い詰めようかと思っていた。クラブでは黒服は、決してホステスを恋愛対象にしてはいけないとの決まりがある。ホステスはあくまで商品なのだ。店員が手を付けていい存在ではない。木下に相談するべきか悩んだ。名無子はもはや解決された問題、桔梗から相談に来ない限り川島は手が出せない。時間が解決するかもしれない。時間がうやむやに消すかもしれない。これを牧子に相談はできない。警察が動けば名無子は永久に闇に消える気がする。
名無子の父親、彦四郎が死んだ。白骨になっていた男の情報は出たが、犯人彦四郎の供述は取れなかった。推測しかない。その知らせを牧子から聞いた時、そうだろうなと思う。桔梗は今日も生き生きと月光で働いている。あの影に白骨が眠る。
休日にバイクで龍神滝に行った。菱沼も玉川も隆一も。よくバイクでツーリングを楽しむ。川島もそれに影響されてモトクロスバイクに乗るようになった。二時間ほどバイクを楽しむと龍神滝につく。少しセンチメンタルになっている。涙が出てきた。それは幸せ薄い名無子に対するものであるとは限らない。親兄弟と縁が切れ、天涯孤独の自分に対する涙でもある。
玉川も菱沼も心配してくれる。だが自分の親兄弟は一度でも、心配してくれただろうか。いろいろの感情が混ざり合い悲しい。龍神滝の水が少し少なくなっている。簾の向こうが見えるように滝の裏側が見えた。水量の多い時は見えないものが見える。少し窪みがある、そこに石がある。この情景を名無子が言った気がする。バイクで小雪ちゃんの風車に行く。小雪ちゃんが来て、コーヒーを入れてくれた。センチメンタルになっている川島に、「泣いたらすっきりするよ。」と慰めた。全容が解明されることはないだろう。名無子の行方はわかるだろうか。
夜も更け夏とはいえ山の夜は冷える。コテージに部屋を取って、眠る。相変わらず名無子は夢にも出てきてくれない。夜が明けると風車がにぎやかだ。作業前の腹ごしらえに食事に来ている鉱夫がいた。一通り食事がすむとスーとみんないなくなる。食事つくりに雇われた近所の農家主婦が、皿を片付けていた。セルフだからカウンターまで持ってきてくれるが、それを食洗器や乾燥機やらに入れている。川島も皿を取り食べ始めた。ご飯がふかふか、焼き魚がうまい。みそ汁がと食べていた。しばらくするとおばちゃんが、コーヒーを入れて持ってきてくれた。「ごめんね。マスターみたいにうまくないから、インスタントね。」ふっと気が付いた。「マスターは。」今イノシシ罠を見回っていると言う。地区の猟友会のメンバーと行っている。イノシシは捕っても、簡単に食べるものにはならない。ひと手間も二手間もかかる。食物を得るには手間がかかる。山の中の悠々自適は夢物語。
帰る前に、コテージにある温泉に行く。一応露天風呂はある。一人で入っていると、農家のおばちゃんが入ってくる。ここは混浴、しかもおばちゃんは遠慮が無い。素っ裸で遠慮なく入ってくる。その上ある程度の広さしかない湯船に、いっぺんに十人ほど入ってこられたら狭くなる。男が入っているとは思わないのか、お尻で押してくる。上がるに上がれずにいると、堂々と前も隠さず入ってきた男がいる。小雪ちゃん。見ていると、おばちゃんたちとワーワーキャッキャと仲良く風呂に入っていた。ホウホウの態で逃げ出した。このころ農村では共同風呂での混浴は、珍しくはなかった。帰る準備をして代金払いのため風車に行く。小雪ちゃんはそこにいた。代金を払いコーヒーを貰う。「あんた、恋しているんじゃない。」突然小雪ちゃんが言う。しばらく体が固まった。「桔梗に恋をしているんじゃないと、この間来たウエイターの山口が言っていたよ。」聞くと月光の中でもっぱらの噂だと言う。思い当たる。じっと彼女を見ることが多くなった。それが誤解を生んでいるのだろう。誤解のままにしておくか。バイクにまたがりマンションに向かった。月光に出勤する。ホステスが美しくスタイルを仕上げてフロアに並ぶ。点呼が終わると木下に言ってスナック水車に行く。かねてから売却を頼まれていた。次のオーナーが決まるまでこのまま営業をするが、買い手がつかなければそのまま閉店となる。バーテンダーと二人のホステスがいる。三人をどこかにやらねばならない。女はどこにでも行ける。元気ならばおでん屋でもいい。あとはバーテンダーだがどこかあるだろう。水車に行くとママのキャシーさんと客の岩田がいた。岩田は元県警本部長、副知事の経験もある。家族はいない。しいて言えばキャシーさんが家族のようなものだ。何を考えているかわからない爺さんである。この店は客の入りはそこそこ多い。それはキャシーさんの経歴にある。彼女は進駐軍巡りをしていた実力派のジャズ歌手だ。今もピアノを置いていて歌う。岩田は博多の生き字引みたいなもの人間関係に詳しい。そして一つ朗報がある。岩田がキャシーさんにプロポーズをしたらしい。岩田にしたらさみしい老後を思うのだろうが二人を祝福してやりたい。
岩田に聞く。「藤田さんの妾はなんであんなに美人なんですか。藤田さんとどういう関係?若すぎますよ。」意外という顔をした。
「まあ、徐々にわかってくるだろう。」月光の黒服は、うでが立つが、藤田隆一はケンカにめっぽう強い。触らぬ神のたたりなしなのだろう。名無子のことを聞こうかと思うが躊躇する。それを岩田が察した。「相談があるんやろう。」
名無子のことを言う。ソープで金をためた女が整形をしに関東に行った。
半年後に整形をして帰ってきた。本人ではない気がする。だが本人しかわからないことを多く知っているそして先日、本人ではないことの決定的証拠も持った。名無子のことが気になる。もしかして殺されてはいないか気になる。
「亀の甲より年の功。お前その女の気持ちになって推察してみろ。」言われてみればそうだ。「まずな。他人に成りすますならその他人のことを知らないといけない。全部覚えられるか?覚えきれないものをどうする。成りすますためには九州訛りがいる。二人とも九州なら成り代わっている女の地元はどこだ。そこの訛りが出てくる。九州弁は地方の特性が多くある。川一つはさんでも少し違う。これを見つけるのが一つ。まあそのうちしっぽをだす。」「そのうちでは間に合わないですよ。名無子は無事なのか知りたいです。」「お前だってわかっているだろう。死んでいるからこそ堂々と成り代わっているんだよ。」うすうすはそう思っていた。だが決定的に言われるのは嫌だった。「お前、名無子が好きだったのか?」思いがけない岩田の言葉にドキッとした。そう好きだ。金を貯めたいといった。現状を自分で破る。そのけなげなさが響く。つぶれるなよと行かせたが、死んだのか。死んでいるなら葵の横に骨箱を置いてやりたい。追う川島も考える。追われる里穂も考える。
里穂はたくさんの名前を持った。里穂、桔梗名無子、佐々川純子、奈々子考えればいくつ名前を持っただろうか。詐欺に使った名前は覚えていないほど多い。川島が桔梗を好きなのではともっぱらの噂なのは知っている。この世界では黒服が商売物のホステスに手を出すのは厳禁。少し前なら手足の一本も折られた。その中で川島はじっと桔梗を見てくる。自分は感じていた。恋愛の目ではない。疑念の目だ。彼は桔梗を疑っている。そしてそれは、桔梗も知っている。月光は今日も営業をする。
玉川も、菱沼もクラブ内の噂を知らないわけがない。どうしたものかと考えていたら、藤田隆一が引き取りを申し出る。隆一は水事業を計画しており、春野市の杉谷地区に天然水工場を作る計画だ。工場の設置に関しての総監督をしている藤田不動産の泉に預けることを提案した。このころの藤田不動産は会社の規模としては不動興業をしのぐ勢いがある。藤田隆一は旧華族伯爵家の家系、明治から九州の山林の四十パーセントを持つ家系だ。しばらく泉の小間使いとして走り回らせることにする。個人をこのように扱うことは普通しないが、川島の一言多い性格が、気にかけさせた。その日のうちに、辞令が出て隆一の居宅の部屋の一つに、住むことになる。隣には邸の管理人の大山夫妻が住む。隆一はこの屋敷の主なのだ。泉も川島の部屋の隣にいる。泉の足もやらねばならない。オフロードバイクもランドクルーザーも、駆使しなければならない。中洲が平和だったと思う。一言多い性格が災いした。泉は隆一と同じ歳、妻子はいない。二回結婚したが死に別れたと言う。果たしてどうだかわからない。引っ越した翌日からこき使われた。技術者の食事調達、宿泊調達、ついた資材の検品管理。秋の日はつるべ落とし、薄暗くなって部屋に帰り風呂に入って寝るのがやっとだ。平地しか歩きなれていないのに、山道を普段の倍以上歩き回る。山田名無子のことなど吹っ飛んでしまった。悩み??そんなのあったっけ、の心境だ。工場は来年の春の操業を目指す。鬼監督の泉の采配が光る。そして使い走りは、ただひたすらに走るしかない。休息は寝るときだけ。しばらくするとそれに慣れた。桔梗のことも思い出さない。
里穂の桔梗は忙しく過ごしていた。月光のホステスで上位の売り上げを誇っていた。実年齢を九歳もごまかしていては少し無理も出るが化粧
でごまかした。
彼女の化粧前の肌はシミがびっしりと浮き出ている。下地を塗ってシミをみえないようにする。この化粧で彼女は十代後半のような見た目を出していた。ドレスを着て通路を歩くと客が目を止め、ヘルプでも呼んでくれという。佐々川純子としての生活で銀行口座も作れるようになった。免許は今取りに行っている。川島が転勤になりほっとしていた。彼以外誰も私を疑っていない。
川島がいなくなって、指名手配犯が見つかることが無くなる。石井牧子は少し寂しい。同じように、指名手配犯は来ているのだろうが、見つける人がいない。川島の観察眼は、特別なものだったらしい。年齢が近い君島がさみしそう。あの一言多い性格はケンカ相手としては申し分ないものだ。口げんかでストレス発散が楽しい。その楽しみがなくなってから、君島は暇なとき指名手配犯の写真を見ていた。顔を覚えておいて役立てようとしていた。飯島里穂のページを開けたとき、来客があった。道を聞かれた。交番の壁にかけられた大きな地図を指さし棒で指し示す。「ここの角を曲がって」などと話して説明。来客は帰ろうとしたとき、たまたま広げていた指名手配犯のファイルを見た。そのページに飯島里穂の写真があった。「ああ、この人月光のホステスにそっくり。」声を上げた。「月光のホステスさん、整形したんですよ。そしたらこの人にそっくりになっちゃって。ああこれ秘密だよ。」と説明した。
飯島里穂の写真は月光の桔梗に似ていた。桔梗は整形美人と聞いた。整形したらたまたまよく似たと先入観がある。それを取り払うと、同一人物にしか見えない。君島は思う。川島はこれに、気が付いていたのではないかと。だからあらぬ噂を立てられて、関係ないとこに飛ばされた。君島なりの推理をする。牧子に相談をした。牧子はまさかと笑ったが、内心君島の考えに同調する。天然美人が整形美人を装う。その逆は多い。それに隠れた。年末は中洲も人通りが多い。交番も多忙を極めた。
年末にかけて多忙を極めた川島は、牧子からの電話に出た。「年末に小雪ちゃんのコテージを予約した」というものだ。正月まであと五日、そういえば、クリスマスケーキも食べていない。あと二日で御用納め。マンションに帰ろうかと、思っていた。葵の墓参りもある。骨箱は一つだが三つの人生を生きた女、敬意しかない。牧子が来るという事は、名無子の事で何かあったのか、そうは思うが、体が言う事を聞かない。早々に寝た。こうしていると、何でもちっぽけなものにしか見えない。飯島里穂が名無子に成り代わっていても、それがなんだと言うのか。明日の朝飯の方が大事だ。
菱沼は藤田不動産の経理も見ていた。社長の藤田隆一はボンボンの感じではない。株価や為替差益、原料の先物。何でも手掛けた。菱沼藤田、玉川は不思議な縁で結ばれた友人である。藤田隆一は玉川の人を育てる力を評価している。そして川島の有能さを泉が便利に使うのを見て、感心している。泉は有能な男だが、納得しないと動かない。それを川島が、転がすように扱う。どっちが使うのか使われているのか、それをふんふんと見ている。泉は川島が来て忙しくなったと思っている。川島は泉を人使いが荒いと、この二人アクセルを全開にして走り回る。はたから見るといいコンビだ。
正月の用意に神社は忙しい。龍神神社は小さいとはいえ歴史ある神社。しめ縄や護符の用意お神酒の用意一通り用意する。氏子の人たちが。幕張や、旗立てをして新年の用意ができる。それを川島は牧子とみていた。桐谷神社宮司の滝内は、ここの管理者でもある。時折二人に由来などを説明してくれる。
牧子は正月三日まで小雪ちゃんのコテージに泊まる。兄の代になっている実家に帰っても、居づらいだけだ。母親はいるが兄嫁と犬猿の仲、行けば双方から愚痴を聞かねばならない。牧子は初めて龍神滝を訪れた。川島から案内してもらった。夢のように美しい景色に心が奪われる。そしてこの地の伝説の妖怪ナリカワリを聞く。牧子も同じ春野市だが、初めて聞く妖怪だ。「してみると、桔梗の正体は妖怪ナリカワリかもしれないよね。」牧子がつぶやいた。龍神滝を見ると冬の期間は水が少ない。湧水量が少なくなる。滝の裏側に丸い石がある。ふと思いつく。「あの石の裏側、どうなっているのかな。」川島は石を動かそうとは、考えていなかった。龍神滝はそこから石一つ草一本取っていけば、水は枯れ祟りがおきると、村人から聞いた。「あの石は龍神様の口の中の玉石だそうです。」それにしては違和感がある。もう少し動かせばきれいに収まり、なおかつ丸みがいかにも玉のようになる。自分が潔癖症なのか。じっとその石を見ていたら、手を出したくなった。水の量は多くないが流れている。流水はその玉石の部分が、極端に少なくなっていた。コートを着たまま滝に降りていく。滝の裏側は人が歩けるくらいの空間がある。玉石のところまで行くと、玉石の方向を変えようと石をつかんだ。石がごろりと動いた。裏が空洞で石は不安定になっていた。石の下にビニールが見えた。神社関係のものかもしれない。宮司の滝内を呼んだ。「神主さんちょっときて。これって神社関係の物?」滝内は違うと言う。出してみる。上に有ったものから取り出していく。一番上に黒いビニールに包まれたものが一つ、下にそれより大きい包みが一つ。外に出した。中を開けてみる。小さい包みから、札束が出てきた。大きい包みから出てきたものは、山田名無子の書類関係、はがきなど、アルバムもある。そして川島に宛てた金釘流の手紙があった。肝炎で自分はまもなく死ぬとあった。
近くの家で電話を借りた。駐在さんに連絡した。川島はこれが岩田の言う飯島里穂の隠し荷物かもと思う。川島に宛てた手紙をなぜ捨てなかった。引っ掛かる。
正月も十五日になれば正月気分も少しは落ち着く。クラブ月光は三日から営業している。さすがに正月二月は水商売の売り上げが落ちる時期だ。それをイベントで補う。新春歌謡ショーと銘打って、イベントで十五日から二日間地元出身アイドル男性歌手、三山清のショーをやる。予約席は女性のファンで埋まっている。女性は金にならないが、男を引っ張ってきてくれる。この時期これだけのイベントが出来るのは木下の腕だろう。玉川はこの歌手ファンの家族のために席を用意していた。菱沼の妻恵子の横には桔梗がいた。二人が一斉にフロアの清を見る。興奮して立ち上がる。その時二人の背中が見えた。年齢は背中に出ると言う。一歳しか違わないはずの二人が並んで後姿を見せる。桔梗の後姿は三十代の背中だった。女を扱いなれている菱沼だからこそ、見える背中だ。忙しく得意さん廻りをしている玉川に、二人の様子を手で示した。前から見れば、二人とも二十代の女性、これが着物ならわからない。洋装の背中が開いている服は年齢が出た。
その横に隆一の妾志乃がいた。妊娠している。着物で来ていた。上張りを着ていたから、体の線はわからないが、後ろから見ると、うなじと顎の線がなまめかしい。何人かの男たちが志乃を見ている。その視線を隆一は感じた。
志乃は地味にしていても目立つタイプの美人、恵子は目立つわけではないけど、雰囲気に溶け込むタイプの美人。桔梗はキャバレーで雰囲気を作る。その後ろの陰に、隆一がいた。三人女たちのいるBOXは周りにいる男たちの目を集めた。ショーが終わり、志乃が立ち上がる。外に向かった。隆一は横で支えるように歩く。人をよけながら歩いていた。誰かがよろけてぶつかりそうになる。隆一がさっと志乃を抱え上げお姫様抱っこをした。そのまま外まで行く。周りの客が道を開けた。ドアを開けたタクシーの座席に、差し込むように乗せると、自分も乗って帰っていった。周りのショーを見に来ていた女たちは、隆一のこの行動に、胸をキューンとつかまれた。私もあんなにされたい。隆一の行動は映画のワンシーンのようだ。
恵子は隆一のお姫様抱っこを見ていてポーとしていた。菱沼にお姫様抱っこをせがんだ。仕方がない、やっと抱えられたが、よろよろとした。菱沼と隆一では体格が違う。この手の被害者は何人も出た。男はみんな隆一じゃない。場所考えていい格好しろ。半分怨嗟の声がする。
川島と牧子は中洲の交番にいた。川島は泉に言って休みをもらっている。雪の中では工事は進まない。泉も休んだ。彼をコンサートに招待すると、ホイホイと山の中から出てきた。きれいなお姐さんに囲まれて、鼻の下は伸び放題、ゆるゆる顔の泉を見て和んだ。
ショー二日目、牧子は警察署と合同で飯島里穂の逮捕に向かっていた。三山清のショーはよい逮捕機会だ。ショーが終わると、桔梗が立ち上がる。フロアに降りていく。客から頼まれたサインを貰わねばならない。フロアの広いところに出ると、警備の男たちがいる。こういう有名歌手だと、自前の警備を連れてくる。珍しいことではない。その警備の男たちが桔梗を取り囲む。手錠を出し、男の一人が書類を差し出す。「飯島里穂、殺人容疑で逮捕する。」逃げられない。逮捕され、華麗なドレス姿で連行される。玉川も菱沼もその姿を見送った。その後ろ姿が若くはなかった。
逮捕された飯島里穂は、完全黙秘を貫いた。何を聞いても何も言わない。川島が聞きたかった山田名無子の事も何も言わない。膠着状態だが、老人の殺害でいくつかの証拠が出てきていた。拘留期限は何回も延長された。川島は仕事の合間に龍神滝に行った。玉石は元に戻され、宮司のお祓いも済んでいた。二月の龍神滝は寒かった。ふともう一つの信仰を思い出す。観音堂だ。観音堂は少し下がったとこにある龍音寺の管轄にある。龍音寺の住職が境内を箒で掃いていた。高齢の一人暮らしの住職である。しばらく前に奥さんは亡くなった。山の中の檀家も少ない寺では、生活はままならない。そこを補ったのは彼の教師の職だ。中学校の教師を長年して今は退職していた。寺に行きお御堂に上がった。お御堂に用意された封筒に五百円札を入れて、山田名無子の名前を書いた。彼女のために経を上げてほしかった。お御堂に座ってしばらくすると、住職がお茶を持ってきてくれた。川島は自分と名無子のいきさつを語った。もの固い宗教者らしくお御堂も廊下も、丁寧にふきあげられていた。住職は観音堂のいわれを言う。子供の人身売買が横行していた時代、この村から売られていく子供たちが、最後に手を合わせ、後生を祈る。その場が観音堂だった。あの台座は動く。その下に最後の願いを入れた。字を書けないものは、息を吹きかけた布切れを入れた。その最後の生きた証が観音堂なのだ。帰り道、観音堂に寄った。手を合わせた。名無子もここに祈ったのだろうか。山の二月は寒い。
藤田邸に帰り自分の部屋に行く。
川島が泉に聞いた。「泉さん、藤田さんと同級生ですよね。」「そうだよ。」「志乃さんと藤田さんはどういう関係ですか。」「そうだな。あの志乃は、隆一の妾になるために、藤田家で育てられた女だ。昔の人間は残酷だね。俺も当事者ではないから少ししか知らないけど。」と語ってくれた。
山深い春野市にある藤田邸。旧華族藤田伯爵邸。藤田家は江戸時代から九州の山林の四割を持つと言われた山林主だ。戦後の農地改革にも生き残り、木材需要で儲けた金持ち、息子の隆一が今は宅地開発や都市の賃貸も手掛けていた。戦後を乗り越えられた旧華族ばかりではない。乗り越えられなかったものが多い、志乃の父親もそうだ。戦後の没落は甚だしく、親戚の隆一の父の藤田巌が連絡を受け迎えに行った。バラックに骨壺と五歳の志乃が残されていた。巌にとって志乃の父湯島智は従弟、旧子爵であるが元々資産も少ない貧乏華族。旧満州に肩入れしていた為戦後の窮乏は激しかった。下級貴族で、娘を豪商や豪農大名に妾側室として差し出し、仕送りを受ける家だった。そしていわゆる美人筋。数々の逸話もある。志乃五歳隆一二十歳が初対面だ。志乃は五歳で藤田家に来たが使用人としての扱いとされた。寒い日隆一が食事の為台所の隣の居間に行く途中で、寒さに震える幼女を見つけた。昨日父が連れ帰った志乃だとわかった。満足な冬服ではない服を着てしもやけの手足が痛々しかった。傍に寄り抱きかかえると、そのまま自分の食卓に着いた。旧家は身分の上下に厳しい。巌が高座、次が隆一、隆一の母梅となる。あとは一段下がった板の間に、奉公人が順番に並ぶ。志乃の席は順番で言ったら最下位なのだ。志乃を抱いて自分の席に着いた隆一は父に言う。「この子、俺が貰うけん。よかろ。」巌はちょっと考えたが「好きにしろ。」じぶんの横に膳を置かせ、ご飯を食べさせた。幼いのにきれいな食べ方をした。食後部屋に帰ると女中頭を呼び自分の小さい時の服を出してくるように頼んだ。一緒に風呂に入った。「お兄たん。」まだよくまめらない口で言い、しがみついてきた。頭や体を洗ってやり、歯磨きをさせ、風呂から上がると、自分の小さい時の服を着せた。まだ大きすぎたが綿入れまで着せる。髪をとかしつける。美貌の片鱗が見えた。湯島家の美貌筋が見えてきた。
自分の布団に入れたが二人で寝るには狭すぎる。女中に頼んで布団を出してもらった。「寝小便があるかもしれませんよ。」と言われて古綿入れを下に敷いた。小さい子は面倒だなと思いながら寝ると、布団に入ってきた。「お兄たん。」と言ってしがみつく。かわいいと思った。
そのころ隆一は博多市内に、通学の為下宿していた。下宿に帰る時、女中頭に世話を頼んだ。こうして志乃は中学校卒業まで隆一の部屋で育てられた。自分が甘えることができない身分だと、自覚していた。特に隆一の母は志乃に厳しく当たった。小学生になると美貌が出てきた。一度見知らぬ車に引き込まれそうになり、それ以来使用人の誰かが車で送り迎えをした。それが中学生まで続いた。志乃が十歳になったころ隆一は博多市で事業を始めた。不動産屋。中洲の店舗も扱い始めた。ここで彼は大学の時の剣道仲間玉川満と不動興業にかかわっていく。大學卒業してしばらく東京に出ていたが自分の事業を起こした。
それ以後は川島も知っている。
ソープの経営やスナック、バー、喫茶店、レストランなどの店舗の売買にかかわっていく。クラブ月光の菱沼正夫は、税理、会計に強く不動興業傘下の店の面倒を見ていた。
彼はただのいいとこボンボンではなかった。マンションアパート、儲ける事業を、なんでもした。
泉は言う。志乃は学校では、お嬢様で通っていた。金は一切持たせてもらえず、隆一が帰ってきたとき店に連れていってもらい、服や小物を買ってもらった。隆一の母梅は志乃に厳しかった。使用人は梅の目を恐れて、誰も志乃に優しい言葉をかけない。そして事業が順調に伸びてきたころ、市内に家を構えた。藤田邸に帰った時、志乃に厳しい母を見て、かわいそうになった。「志乃を連れていく。」と言うと、巌が言う。「籍を入れたらいかん。志乃は妾だ。」志乃は美少女になっていく。高校は許されない。巌の中では志乃は妾、学問の必要はない。その志乃が「お兄ちゃん。」と隆一にすがりつく。
人前では旦那様と言わせられていた。ほおっておけなかった。中学を卒業して志乃を博多の家に引き取った。ふっさりとしたまつげの黒目勝ちな目で見つめられると、俺が保護しなければと言う気がした。進学を希望するならと思ったが、そこまではなかった。それにもし手を付けたら、学校に行かせていたら問題になるのが嫌だ。志乃とはまだそういう関係にはなっていない。隆一は女にもてた。女に不自由はしていない。家政婦を雇う。志乃に家事と料理を教えてもらうために、手慣れた人を紹介してもらい、週二回ほど来てもらった。寝室では同衾した。まだ子供だと言う意識がある。手を付ける気はなかったが、あの日魔が差した。ベッドの中でキスをした。ディープなキス。体をまさぐるように抱きしめた。志乃が怖がった。はっとして手を止めた。翌日金も持っていないのに家出した。探し出して家に連れ帰る。帰ってくるとベッドに置く。優しく扱った。「怒っている?」と聞いてくる。「今日は罰だ。少し痛い思いをするかもしれないけど。」と言う。「ごめんなさい。怒らないで。」と言いながらすがりついた。彼女は保護してくれるものが隆一しかいない。痛い思いをするのは殴られると思った。「ごめんなさい。」と言う彼女をやさしく抱き寄せる。「殴らないよ。殴れるわけがないだろう。」志乃がかわいい、年齢とともにその可愛さの意味が違ってくる。今日は少し乱暴でも、しなければならないことがある。服を脱がせた。腰の下に少し大きめのバスタオルをあてた。初めての出血に備えた。足を開かせ体に入れる。逃げようとする体をしっかり押さえた。中に入れるとゆっくりと動かした。少し呻いて「ごめんなさい。」と抱きついてきた。「痛いよ。」泣くように言う。体をしっかりと抑え最後までやった。抑えていた手を緩めると血が出ていた。風呂場で洗い流してやり、風呂に入る。上がって生理用品をあてた。少し落ち着いたところで、後ろから抱きよせ耳元で言う。「逃げようとしたらこれだからね。」そのまままたベッドに横たえる。彼にしがみつきながら「好きよ。」とささやいた。意外だ。
隆一は知らなかった。彼女は隆一の部屋で本を読んでいた。居場所のないこの家で唯一の居場所がこの部屋だ。本棚の本を読んだ。ほとんどの本を読み終わった時、天井裏にまだ本があることに気が付いた。隆一が隠していたエロ本だ。読み漁った。男と女の姿を知った。それを志乃から聞いた時、しまったと思う。あれを始末しなければ。もう遅い。しばらくしたら、隆一は志乃にメロメロになった。そして志乃は妊娠した。
川島は相変わらず忙しい日々を送っていた。水の配送事業は順調だった。最初はコーヒー、次々といろいろの業種が顧客になった。もう第二工場を検討していた。水事業の責任者泉は新しい水源を求めていた。
里穂の逮捕を見て藤田邸に帰って翌日、愚痴を言いに小雪ちゃんの店に行った。あのお守りが効いたのか効かなかったのかはわからない。気分が落ち込んでいた。
小雪ちゃんは静かにグラスをみがく手を休めてコーヒーの準備をした。「ひどい顔しているわね。」小雪ちゃんが言う。「おれ、一生結婚できないかも。」「どうしてそう思うの。」「名無子は死んでいたし、里穂は人殺しだし。俺は一生女が怖い。」「心配しなさんな。あんたもう結婚しているよ。」「だれと。」「葵よ。」「えええつ。そんなわけないよ。」「あんた、依然言ったことあったわよね。だご汁半分こして葵と食べた。」「あれが何か?」「冥婚。あんたをあの世の夫にした。」「そんなの、知らない。知らないよ。」慌てた。しかし葵には感謝している。少なからぬ遺産を、残してくれた。そうかおれは葵の亭主だったのか。小雪ちゃんがコーヒーを出してくれた。「ありがとう。龍神滝の水?」「そうよ。」
そこへ女が顔を出した。さも田舎の芋姉ちゃんのような見た目の、イモイモしい女の子だ。目も鼻も小さめ、頬骨が張っている。どこかで見たような顔。「マスター、お先に失礼します。」と声をかけ消えた。小雪ちゃんが視線に気が付いた。「あの子気になる?今度ここに入ったのよ。」「見たことのある顔だなと思って。紹介してくれる。」「紹介してもいいけど、ひどい目に合わせるのは厳禁。丁寧に扱うのよ。」「そのつもりだけど。」「杉谷地区の山田登美子さん。」「この辺、山田さんが多いの?」「そうね。山田さんばかりね。だから屋号がある。彼女の家はショウケ屋。他に上がり坂、一本松、馬屋、などがある。その場の景色が、名字の代わりをしているよ。昔は竹で農業用のショウケ(笊)を作っていたらしいね。ショウケ屋の勇さんの長女よ.お父さん今は水工場で働いているよ。」そういえば、山田名無子の父彦四郎は、先なしの彦四郎だった。登美子と付き合えるかどうかの確約はない。
そして時が流れた。菱沼から月光に戻ってくるように連絡があった。
川島の代わりに、高野がきた。もう二年は春野市に住んだ。ここに腰を落ち着けないといけないかと思って、マンションの売却も考えていたが、その必要はないようだ。
久しぶりの中洲は古巣に帰ってきた気がした。中洲交番に行くと、君島はいなかった。若い新米ペイペイの姫野がいた。相変わらず石井牧子は出世していない。だがこの町では全幅の信頼を集めていた。君島は大卒採用だったので、いつかどこかの署長だろう。「私は万年平がいいのよ。姫野君も大卒キャリアだから一年で別部署、まあ、此処で人間見物をしていったらいいよ。」姫野を紹介しながらそんなことを言う。川島ももう若手では通用しない。中堅になろうとしていた。中営業兼フロアマネージャーと肩書はついたが、要は何でも屋だ。ホステスの顔ぶれも少し変わっていた。
営業前マネージャー全員がそろうと、営業の木下が問題を持ってくる。「貸し切り案件が来ています。」貸し切りとは珍しい。通常貸し切りはしないが大きな会社とか社会事業とかだったらある。
筑豊、北九州の一部筑後に勢力を持つ国州会。現役やくざだ。国州会は昔のやくざではない。利権と深く結びついた組織である。汚職には表に出ないが関係していると言われる。巧妙な恐喝で利権をあさる。国州会と不動興業は、昔は同業者だった。船や鉄道の荷役をする仲仕の人寄せ周旋業者だった。博打やケンカに明け暮れる彼らに、安定した生活をさせたかった不動組と、数を頼んでごり押しや、政治と結んだ利権あさり、一般人の襲撃などで金を集める国州会とでは、自然と別れて行った。玉川の父、杉山玄太は国州会の山村とは、よく知った仲である。企業としてやっている不動興業を山村は傘下におさめたいと思っていた。散々ちょっかいをかけてきたが、不動興業がそれに乗らない。不動興業もヤクザではないのかと言われればそこはグレーゾーンがたくさんある。一般に迷惑はかけていないつもり。ソープは管理売春すれすれだし、管理下にあるスナックやクラブもすれすれだ。その不動興業を国州会は狙ってきた。最初は貸し切り予約というが、幹部の排除乗っ取りと、後に続くことはわかる。断れない。断ればまたどこかのクラブに行くだろう。国州会を受け止めることができるのは、中洲でもクラブ月光しかない。川島は少し緊張する。
木下は大口の予約や、芸能人の手配をやっている。クラブには専属の歌手、バンド、がいる。そのほかにショーをやる芸能人を連れてこなければならない。木下は有能な営業だ。彼は一般人としてこの会社に就職する。旅行会社で営業をしていたが、玉川にスカウトされる。スカウトされた場所は剣道場、彼もまた段を取らない剣士であった。目的は護身のためだが、ほんとかどうかはわからない。筋がよかったのかめきめき上達した。菱沼のように族狩りはしない。人当たりがよく、愛妻家だ。夜が遅いのが難だがそのころは、猛烈に働かされた時代“二十四時間働けますか?”のコマーシャルもある。
その木下が国州会の事務所に呼ばれた。まあ、珍しい事ではない。彼らも旅行もすればクラブ、ソープの予約を取ることもある。人の生活があった。国州会の総長は、危ない男だ。部下に一般人の襲撃を命じることもある。部屋に行くと会長の山村の後ろに男がいる。山村が紹介した。「若頭の井上だ。見知っておいてくれ。」井上と言われた若い男は木下を見て少しばかり頭を下げる。「あんたも、ヤットウの腕は立つらしいな。」「御冗談を、武道には縁が無くて。」と謙遜した。山村は知っていた。玉川のクラブ月光は、腕の立つ黒服がそろっていた。不動興業はソープやスナックなども持つ歓楽産業だ。そこからやくざのミカジメ料は一銭も払われない。ベトナム戦争で国内に入ってくる銃はある。殺傷力のある銃が本格的に登場するのはもっと後だが、ソ連からトカレフが密輸された。やくざは人殺しを極端に嫌っている。銃による死者が出た場合、組同士の抗争になり、手打ちに十年くらいかかる。刃物や素手ならば、ある程度で手打ちをする。それまでのやくざの持つ銃は殺傷力の低いチャチな銃だった。
銃は当たってもケガするくらいで、今までやって来ている、殺傷力のある銃が出て、山村のような道に外れた者が出始める。ギャング化である。山村はその銃の威力で金を追及していた。利権の独り占め、ミカジメ料を払わない店にいやがらせ。そして数人が殺された。用件は襲名披露を月光でやりたいとのことだった。山村の配下の石田組の組長が亡くなり、若頭井上が組長に就任する。よって山村の配下の組長が、一堂に会し披露目を行うとのことだった。時期は九月の十五日、先代組長の供養と兼ねるものだという。木下は思った。中洲の利権を狙っている。相手はトカレフもって走り回る連中だ。断れない。
廊下に出て、玄関に向かった。「見送りを。」井上が後ろからついてきた。くるなと思ったら自然とすこし避けていた。肩にごみがと井上が手を伸ばした。力量を見るための行動だ。冷や汗が出る。だが木下も対抗できるだけの腕は持っている。
玉川は木下の報告を聞いて、とうとう来たかと思う。木下は助手として川島を指名した。当分木下と川島で対処する。木下は川島に話す。
うまくいくかどうかわからない。九月十五日石田組は完全貸し切りおまけに芸能人のイベントを求めた。ヤクザがらみとなれば芸能人から敬遠される。むつかしい交渉をしに木下は上京した。その間留守を預かるのは川島。石田組と話し合う事になる。ヤクザとは言え交渉事は一般と同じだ。木下は芸能事務所から全部断られたが、最後の頼みの綱があった。先代不動組組長、杉山賢三が一時保護していた野原誠三である。彼はやくざ映画のスターであり、現実のやくざから崇められていた。彼にヤクザとの黒いつながりなどとささやかれないように、玉川は最大限の気使いをしていた。木下は不動興業の名刺で彼に会いに行った。賭けだった。会えた。訳を話した。野原はいう。十代のころ焼け跡で、不動組長に保護された。映画のニューフェイスに応募した。それから今がある。自分は引退していい年になった。引退興行として二日ショーをやったらどうだろうか。そうすると貸し切りがはた目には解からなくなる。引退興行として日本中のキャバレーに行き、そしてほんとに引退する。
木下はびっくりした。そこまでの気使いをしてくれるとは、思わなかった。深く頭を下げ野原邸を後にした。あとは彼のマネージャーと、詰めの話をする。彼のショーは大きな利益を月光にもたらすだろう。
翌日玉川は出勤しに中洲大通りを歩き交番の前に来ると、中から牧子が出てくる。
「ちょっと、ミツル、なんば考えちょるとね。」呼び止められた。「あんた暴力団の襲名披露に店貸ちょるとかね。防犯組合のメンバーじゃろうもん。」言われると思った。人前でいっぱい怒鳴られる方がこの場合都合がいい。中洲の交番に引っ張り込まれ、文句の続きを聞いた。若い警官の姫野が目を丸くして聞いている。生活安全課の課長もそこには来る。「ううんといえばやくざやなかか。」言葉を濁す。「なんでそんなこと請け負ったんか。」この中洲で、泣く子も黙ると恐れられた玉川を、遠慮なく怒鳴る牧子、課長はまあまあとなだめる。この交番に牧子を縛り付けている課長は、この交番に何かと手助けしている。玉川も牧子に頭が上がらない風をしている。長年中洲交番にいる牧子は、ここの住人から絶対の信頼を得ている。
実は牧子も事情は察していた。不動組は暴力団組織とは言えない。港湾の荷役労働者手配から始まり、そしてすさんだ戦後に寄り添っている。玉川の祖父の杉山賢三はそんな男だ。
八月に入ると警察は、頂上作戦を厳しく実施する。組のトップに対しての締め付けが始まる。各店に暴力団お断りのステッカーが貼られた。クラブ月光では石田組と話し合う。代紋を外して客としてなら受け入れると交渉する。当日は大物俳優野原誠三。見てみたいのはやくざも同じ。福岡公演の2日目である。当日券としてボックス五十席分売ることになる。お客様としてマイクを渡す時間が10分ほど確保することになった。石田組としてもいらぬまさつは避けたかった。カッターナイフを持っていても不法所持といったやくざ顔負けの因縁つけられたら、日の丸代紋の組織に勝てるわけはない。そして石田組の組長が逮捕される。事実上石田組は解散した。
九月十四日中州は大騒ぎだった。今日は大スターの野原誠二の引退前興行一日目、前売りがほとんどだが、それでも人が引きも切らない、声も立つ、歌も立つ、トークもうまい。任侠映画で鳴らした男は、男たちの永遠のスターである。
最後のトークで野原は思いがけないことを言う。「戦後ここいらは焼け野原でした。私は中学生、焼け跡をさまよっていると、杉田さんという方に拾われました。それから映画会社のニューフェイスとこれまでやって参りました。」と切々と訴える。「人のためになる人生を歩めとの教え、今も身にしみております。」淡々切々、そのトークにもらい泣きの男たち。
大盛況である。二日目は満員、襲名披露は流れてしまう。階段、通路までびっしり、客に感動を与えた二日間は過ぎていく。
翌日、野原を空港まで送った時「まともになったやくざを、まともに生活できるようにしてくれ。玉川さん、あんたの爺さんだったらそういう。」はいというほかない。これから大勢出てくるだろう。
警察の頂上作戦は浸透し始めている。警察の本気度が試されていた。とともに不思議な現象が起きてきた。ヤクザがいなくなると不良少年がグループを作り始めて厄介だった。トカレフは、誰が持っているかわからない、そんな時代になっている。
山村は自分の逮捕が近い事を感じている。配下の組が一つずつつぶされる。死なばもろとも。このまま玉川を無事ではすまさん。手下の中で銃マニアの。山瀬良太を呼んだ。
玉川は営業が終わると、吉塚の家まで歩く。濡れ衣塚が見えてくる。黒い服を着た男が待っていた。山瀬良太がトカレフとともに現れた。とっさに碑を盾にして身をかがめる。何も言わずに撃つ。体は大きくない。すばしっこくもない。ただ狙いすまして撃ってきた。発射音が4回を数えたとき、犯人の後ろから静かに犯人をけり倒した影がいる。銃を蹴り飛ばし、倒れたその胸に乗り飛び跳ねる。華麗なダンスを決めるように、彼の、のどと言わず顔と言わず、踏みつける。伊藤だった。家に帰る途中、胸騒ぎがして引き返してきた。そしてこの銃撃を見た。前に集中して、後ろはがら空き、後ろから蹴り倒した。近くの人が警察に通報したのか、パトカーが来た。玉川は脇腹を撃たれて瀕死。おびただしい血が流れている。胸に分厚い鉄板を入れていたが、脇腹にはなかった。救急車で病院に運ばれると手術が始まった。川辺が来て、木下が来て、入れ代わり立ち代わり来ても何もできない。ただ祈るだけ。その二日後山村は逮捕される。頂上作戦のだいたいの目的が達成する。ヤクザの時代は終わったかに見えた。
玉川の傷は急所を外れている。彼の強靭な筋肉が、弾の侵入を阻む。運が彼を救う。山瀬はひどいありさまだった。刑事課長から過剰防衛すれすれだと言われる。ふくれっ面で刑事課長に言い返す「なして守らんじゃったつかね。あんたらのミスじゃろうもん。」
病院でICUから出ると個室に入る。しばらく菱沼が社長代行をすることになった。菱沼は従来の自分の業務と玉川の業務を兼ねることになり、忙しさに走り回った。川島に命令が下る。「一年以内に会計士の試験を受けろ。」と言うものだ「俺、高校中退ですよ。」と言うと「そんなの関係ない。」と返された。高校中退のボーイにいたるまで、命令されている。頭を使わない漫然とした職場ではなくなっていく。「お前ら、頭は帽子をかぶるためにあると思うなよ。」
志乃は藤田邸の中で夫婦の部屋になっているところに通じる裏玄関から部屋に入った。三日ほど隆一は東京に行く。今朝出発した。子供たちは保育士の高木さんが寝かせつけてくれていた。今日は従業員作業着の繕い物をしていた。昔ながらの習慣で住み込みの使用人の繕い物は洗濯係りの使用人でしていた。
朝から出されていた物の半分くらい出来た。繕いを全面的にしていた猪飼さんがもう年だと辞めることになり志乃が今日はすることにした。元々裁縫は好きだったし子供物や自分の服も手作りしていた。隆一の母梅には着脱が楽な服を工夫していた。裁縫に一区切りつけて着替えて食事に行かねばならない。食事は台所の横の食堂で食べる。作業着から、部屋着に着替えていた。食堂に行くと皆それぞれに食べている。お盆に皿を乗せ煮物とサラダを取り席に運んだ。席に着くと手を合わせ頂きますと言う。すると横の席に泉が来た。同じように食べ始めた。そして食べ終わると洗い場に皿を置く。住み込みの使用人は十二人、皆で一様に食卓を囲む。食べ終わると後片付けをする。人数がいるのですぐ終わる。隆一が帰ってくるまでの間、一人寝となる。ゆっくりと風呂に入り夜着に着替えた。編み物をした。夜が更けてきたとき、部屋をノックする音がする。誰かと聞く前にドアの鍵が開き高野が入ってきた。志乃に濃厚なキスをする。ベッドに行き明かりを消した。
実は高野がこの屋敷に来て、志乃の様子が変わった。何となく高野を目で追うようになった。そして嬉しそうに話した。隆一はそれに気が付いた。夫であり、兄でもある。志乃の恋を成就させてやりたかった。ちょっと顔がほころびる。恋をする心の成長があったのか。
高野と志乃は年が近い志乃二十一歳。高野二十四歳、青春時代が無かった志乃に、隆一は気を使っている。
隆一のいらぬ気使いがおかしい。高野は年が近いだけに話すだけでときめく。高野も下心が無いわけではない。それは志乃も同じ。志乃はそれなりに隆一を愛していると思う。そして欲望がはじける。
最近隆一は年の差が気になるらしく、気を使っている。それがわかるだけに悲しい。
初めての子供が出来たとき巌が折れた。籍を入れたらどうだと。志乃は拒否した。喜ぶと思った巌はびっくりした。隆一はわかる気がする。この家に縛り付けられ、自由が無かった今までが、嫌なのだろう。子供たちは生まれながらにして藤田家の人、志乃は使用人。三人目が出来たとき志乃が折れた。籍を入れて藤田志乃になった。隆一との関係は兄妹、父親未満、などと思う。隆一は自分の身内もほとんどいない。志乃の身内もいない。何かあった時、志乃に頼れる男を作っておいてやりたかった。
翌日の夕食後、志乃は夫婦の部屋に帰る。部屋に戻ると風呂の準備をする。風呂に湯を張り風呂に入る。湯上りに髪を乾かしていると風呂に行く男がいる。髪を乾かし終えると、明かりを消しベッドに入った。男が風呂から上がり体をふくと、部屋の内カギを確かめベッドに入った。布団をめくり裸で寝ている志乃の横に、裸で横になる。男が志乃を抱きしめた。体をまさぐる。十分に性感を刺激してゆっくりと挿入する。やがて女のため息ともつかない声が漏れる。枕もとのティッシュに手を伸ばす。一晩中、何回も、やがて女が眠ると、愛しむように体を撫で、女が絡みつかせている手足をほどく。その横で眠った。夜明けが近くなると、女が無意識に男に手を伸ばす。そしてその胸にキスマークを付けた。男も負けじとこの首筋にくっきりとキスマークを付けた。もう一度抱き合う。女の中で精気を出し尽くすと、女をいざなって浴室に行く。女から男の匂いを消し去るため、体を洗う。そして自分の準備をする。
この屋敷を建てたのは、戦後この地に流れついた宮大工だ。彼はここに三年逗留した。藤田家中興の祖と言われる、先々代藤田仁左衛門がこの屋敷を作らせた。屋敷には抜け道や、隠し部屋があり、この夫婦の部屋は一見離れだが、隣り合う蔵に、ここを見張れる隠し部屋がある。これはそのころの邸宅では珍しい事ではなく、隠し部屋隠し金庫などを、屋敷内に作ったのは防犯でもあった。
泉はこの様子を一晩中見ていた。彼は技術屋だ。外見を見て、内部を見て、その矛盾に気が付いた。外見の厚みと、内側の壁の矛盾、それはわからないように作られている。風呂は後から作り足してある。洗面所もそう。元のままの建物にはほとんど手が付けられていない。隠し部屋に行く通路は壁がくっ付いている隣の土蔵に有った。それを見つけて侵入する。偽装された小さな節穴を抜くと夫婦の寝室が丸見えになる。そこで高野と志乃の情事を見ていた。心の中に何かの炎が揺らめく。その炎は青かった。
隆一が帰ってきた。「少しは楽しめた。」と言う。目を伏せて抱きついた。「あなたがいい。私を売らないで。」志乃は悲しかった。保護と拘束は似ている。隆一は保護をしているつもりだ。保護が無ければ彼女は生きていけない。その保護が彼女の自立を妨げている。そしてそれに甘える自分がいた。
この年の十月、飯島里穂の裁判は、遅々として進まなかった。完全黙秘は裁判を長引かせた。飯島は裁判所で意外なことを言う「私は不動興業の川島勝さんに、いうことがあります。ここに呼んでもらえませんか。そうしたら何もかもお話しします。」意外な言葉だ。裁判官はそれを認めた。裁判員裁判はまだない。川島は飯島里穂の弁護士から、傍聴に来てくれないかと打診があった。菱沼に相談した。「えええっまだ裁判があってたんかい。」今は世間から忘れられようとしていた。川島は名無子の事がわかるならと了承した。
裁判所に行くと、証人席のすぐ後ろの席が用意されていた。開廷し裁判官が言う。「異例の事ですが被告人が話すことがあるそうです。後ろに川島さんが来ています。」里穂は傍聴席の方に向き、川島に向かい話し始めた。
二年前、飯島里穂は横浜市のアパートに住んでいた。住むと言うより逃亡先で身を隠していた。彼女は常習的なロマンス詐欺師。高齢者を標的にし、金銭をだまし取っていた。そのうちに年寄りの一人が死亡、殺人容疑がかかった。以前に亡くなった一人も不審死扱いされ、とうとう指名手配になった。里穂の生まれた九州の田舎は男尊女卑が激しかった。里穂の生まれた日田市は九州の中では異質の地方。この地は幕府から派遣された代官が治めている。美人が多いのは歴代代官が、京都や江戸から美人の妾を、連れてきたからだと言われていた。言葉も商家は九州には珍しいくらい柔らかい。農家はきつい九州弁だが、その中に柔らかい商家の言葉が混じる。里穂の日田市と名無子の春野市は言葉が似ていた。
中学卒業で家を出る。山田と話が合ったのは同じ九州という事だったからかもしれない。二人は似た境遇だ。頼るべき親はいない。守ってくれる男はいない。その中で背いっぱいの自己防衛が嘘だった。自分を守るための嘘をついた。すぐにばれて折檻されても嘘が身を守る手段だ。嘘で高齢者から金を巻き上げた。それが彼女の生活手段になって行く。そして殺人疑惑。里穂は育った九州に行くことを考えた。そんなころ隣の部屋に若い女性がいるのに気が付いた。ある夜、隣の部屋を隔てる薄い壁越しにうめき声が聞こえる。そっと行ってみるとドアに鍵がかかっていなくて、中に入れた。薄い布団の中で女は呻いていた。とりあえず病院に連れて行こうとすると、女は言う。私助からないと思う。美人になりたくてね。ソープで売春をしてお金をためた。でもそのため肝炎を貰いこのありさまよ。梅毒や淋病などもあるかもしれない。山田名無子は布団の中で呻いていた。なにくれとなく世話をした。男や親への愚痴を聞いた。それは里穂の中のものと同じである。おかゆを作り食べさせようとしたが、もはや体が受けつけなかった。現金にして持っていた二千万円を里穂に差し出した。これで整形して逃げ延びて。そして私の頼みを聞いて欲しい。自分に優しかった川島に伝えて欲しい。おおけにと。そして愛しい。
そうして身の上を話し始めた。お願いよ。話を聞いて。私の生まれたのは九州の福岡県。大石村というところ。母は私が生まれて間もなく薬屋の男と逃げた。小さなノートを託した。追われているでしょう。こんなに悪くなる前、警察が来た。このノートに私のことを書いている。このお金で整形しなさいよ。そして逃げおおせて。女は里穂の状況を理解し知っていた。
私ね。人生で初めて好きになった人がいるのよ。中洲の不動興業というところにいる川島さん。私に初めて人間らしい暮らしを教えてくれた人よ。冬に布団もなく寝ていた私に布団をくれた。ご飯なんてまともに食べていなかったのに、カツ丼を食べさせてくれた。人生で初めてのまともな食事よ。うれしかった。そして恋をした。つぶれるなよ、と言ってくれた。一生懸命ソープでお金を稼いだよ。この見た目でしょう。美人になりたかった。誰からも愛される美人になりたかった。夢よね。身の程知らずの夢よね。私は無縁仏でいい。私に犯罪歴はないから、私になりなさい。私になるんだから、言葉の訛りも覚えていてね。初めて川島さんに言った言葉が「あんしゃま、おおけに。」その言葉を川島が覚えているか賭けだった。言葉の感じもイントネーションも覚えた。闇の美容外科で目の感じを手術した。口元を直した。少し名無子に近づいた。名無子の荷物に有った写真を持った。まだ少し息がある名無子に別れを告げた。大家に彼女の具合が悪いのを告げる。九州に向けて出発した。名無子になる。彼女の身元を証明するものは全部私がいただいた。ありがとう。
九州、それは懐かしい。言葉の九州弁がほっとした安心をくれる。不動産屋に行きアパートを借りる。小さな部屋でいい。目立たないことが大切だ。自転車を買う。少し遠出をしないといけない。地図を買う。春野市、大石村、ともに大分県と熊本県、そして福岡県、三つの県が接する場所だ。県境が複雑に入り込む。こういう場所は警察の目が届かない。逃亡者としての里穂の知恵だ。ここに名無子の荷物を隠す。それは名無子から教えられた場所がある。当座の現金は持っている。それ以外の現金と名無子の写真や日記を隠さねばならない。捨てたらあとで困ることも起きる。あくまで名無子が整形したことにする。身近では危険だ。途中までならバスも鉄道もある、田舎では自分の足で移動できる手段を確保していないと不安だ。名無子として定住したら、免許も取ろう。春野市と大石村の境にある龍神滝につく。龍神滝の水が落ちるその裏に窪みがある。そこにある石をどけると、少し大きな窪みが出てくる。黒いビニール袋に密閉した荷物を置く。上に現金を包んだ黒いビニール袋を置いた。上にまたもとのように石を置くと、完璧な隠し場所が出来た。里穂は名無子に限りなく近づいた。自転車で走って中洲に帰る。翌日月光に電話をかける。川島に連絡した。昔不動興業にいた奈々子というとわかってくれた。川島の二十五という年齢が信じられないくらい彼は世慣れしていた
就職面談を申し込んだ。面接で驚いていた。昔知っている奈々子ではない。今の山田名無子は別人なのだ。詐欺を生業にする女を見抜けない。平松もごまかせた。そして別れ際に「あんしゃま、おおけに。」イントネーションも完璧に再現した。これが決定打になった。川島は彼女を信じた。クラブの客筋はよかった。里穂は銀座のクラブにいたこともある。客あしらいはうまい。人工美人と言われてはいるが、本当は天然部分が多かった。
川島さん、私があなたに初めて会った日、その日のことは、何回も名無子さんと話を予想し、予行演習をしていました。あなたに初めて会った気がしなかった。何回もあなたについて名無子さんから聞いていました。横浜市のアパートの私の部屋の隣に彼女は住んでいました。肝炎で全身黄色くなっていて、自分はもう長くない、二千万円の現金をもっていて、この金をやるから、逃げ延びるように言います。私に成り代わりなさいよ。成変わって私の人生を生きて欲しい。そして川島さんに伝えて。私が初めて恋して愛した人。ずっと愛しくて、愛しくて、あなたのことを考えていたら自分の未来が見えてきた。そうだ、整形しよう、美人になろう、そして川島さんの恋人になろう。でも、もうダメ。もうじき死ぬ。あとはあなたが恋人になって、私の人生を生きていって。九州弁には地域特性が多い。自分の九州弁の特性を教えた。「あんしゃま、おおけに。」は名無子が教えた。
里穂は自分のことを語りだした。昭和20年大分県日田の山深い樫葉村で生まれました。父と母祖父母、叔父叔母大家族でした。小さな家に大家族、息が詰まりました。家は貧しかった。明日の米に困ると言うものじゃないけど、収入は限られていた。村の中心にある大きな邸宅の吉松家から仕事を貰わないと生活できない。それはこの村の産業が林業に偏っていたからです。私は中学を卒業するとこの村を出ました。東京に集団就職、都会に出て行っても夢があるわけではない。金の卵と言われても、若年労働と低賃金、昔の身売りと何ら変わらない。
給料から親への仕送り、強制的な天引き預金。小さな町工場でした。半年もするとここは私のいるべき場所ではないと思いました。そこを出て新宿へ、そこのキャバレーに入った。未成年、年齢を偽った。キャバレーに入ると男が寄ってくる。女の性が目当て、女の金が目当て、甘い言葉で誘ってくる。里穂の隠れた才能が開花する。田舎の家族は困難に会うと家族の一人を攻撃する。あいつのせいだ。家の中で孤立する。それが若い嫁であるときが多いし、若い女性の場合が多い。貧しければいたたまれない。そんな自分の居場所の為、嘘を付くことを覚えた。学校の費用を貰おうとしても金が無い。あっても里穂に使うのは惜しい。祖父母がしっかり家の財布を握っている。明治の人間は全部ではないが固い。自分に甘く家族に厳しい。子供に寄り添おうなんて思わない。それが彼らの生きた社会だったからだ。里穂は家の中での居場所のために、嘘を付くことを覚えた。金の隠し場所をさがして学級費に充てた。給食費を払えない。長く払わない。家人は知らないふりをした。彼女の嘘だけが彼女を守った。そしてその嘘が稼ぎに変わった。キャバレーの客に金の無心をする。家族が病気で金が要ると言う。さみしい老人がなけなしの老後資金から金を差し出す。そしてウソがばれる。躊躇なく茶に夾竹桃の樹液を入れた。老人は心臓発作でかたづけられた。一つのキャバレーである程度稼ぐと、銀座に入った。上品で、競争が激しい。ある程度の教養が求められた。勉強した。銀座で稼げなくなると歌舞伎町、ソープにも入った。彼女は自分が大事だ。その信念がほかの誘惑を断った。男に貢わけではない。ただひたすらに自分のためだ。男からの搾取が無かったのは、気に掛けるものがいない強さだ。老人からしたら自分を気にかけてくれる存在、彼女からしたら金ズル。数えきれない嘘と金。そしてウソがばれると容赦なく夾竹桃を飲ませた。身近な毒の木、柔らかい色の花を咲かせる。排気ガスにも強い。道端にたくさんある。怪しまれることはなかった。慢心していた。ばれないと思っていたが、ばれた。指名手配、逃亡、そして名無子に出会った。
そこまで話すと、里穂は改めて川島に向き直った。
「あんしゃま。」里穂が言う。名無子の口調だ。
「川島さん、名無子はあなたに恋をしました。大好きだったんです。だから考えた、あなたが振り向いてくれる方法を。整形して美人になりたい。そう思ったそうです。だからあなたのつぶれるなよ、の言葉を励みにソープで頑張れた。本番を一日五回はとった。整形して美人になって、あなたの恋人になる。それが人生の目標でした。希望が無かった生活に、目標が出来ました。その希望はあなたがくれたものです。横浜のアパートで整形の準備をしました。予備の診察で、肝炎が発覚しました。劇症肝炎。診断が降りたところで治療法は有りません。アパートで横になっているのがせいぜい。そんな中、私と知り合いました。私は当時老人の殺害にかかわったとして、指名手配されています。名無子が整形したことにして、私と入れ替わると言うものです。すでに命の火は消えかかっていました。あなたへのラブレターを預かりました。読みましたか?苦しい息に中でせいっぱい書きました。読んでいないなら読んでやってください。読んでくれと言う資格が、あるかどうかわかりませんが、名無子の気持ちです。私もわかります。家族なんていないも同然。あなたしかいない。私も名無子の話を聞くうちあなたに恋をしました。笑ってください。私おかしいでしょう。名無子の話を聞くうち私が恋をしました。だから初対面の面接の時、初対面ではありませんでした。私はあなたをよく知っていました。」
初めて聞く名無子の真実。だが今は言ってやれる。俺も名無子に恋をしていた。目も鼻も小さく頬骨が張っている九州にどこでもいる顔、小太りで、足が短いスタイル、それのどこを整形すると言う。あのままでいい。それが九州。文句あるかと言いたい。里穂はつづけた。
「今思えば、私は老人を憎んでいました。嘘だけが私を守る家族の人間関係、名無子もそう。冷たい老人、家族のすべてを握りしめ、欲望ばかりの老人が憎かった。だから罪悪感はなかった。孤独な老人と言いますが、孤独になるのは理由があります。そして最後の家族愛を求めて、私の嘘に酔う。私は彼らに夢を与えました。頂いたお金は正当な報酬です。」すごい詭弁だが自分では納得している。全罪状を認めた。極刑しか判決はないだろう。その日は近い。全部を言い終わると裁判官の方に向きを変えた。川島は名無子が、どういう最期を迎えたのか聞いて涙が出た。そうかつぶれるなよと送り出した名無子は、もういないのか。
懸命に生きたことを褒めてやりたい。そしてその死を悼んでやりたい。
彼女の最期を聞いた時知らずに涙が出ていた。
検察側の反論があっていたが、何も聞こえない。閉廷すると、法廷の外に出た。記者に囲まれた。そうでなくても月光は注目を浴びている。法廷での里穂の告白は注目を集めた。あと数回の裁判でおそらく死刑の判決が下るだろう。里穂はやはり妖怪だった。あの大石村から出てきた妖怪だった。法廷を出ると記者が待ち構えていた。差し出されるマイクを無視して帰った。季節はもう師走になっていた。名無子が面接に来た頃がこのころだった。思い返していると中洲に来ていた。
中洲交番の前を通ると、牧子が外に出て通るのを待っていた。川島を見ると寄ってくる。黙って背中をポンポンする。牧子も名無子の最後は衝撃だった。どこかで元気にやっているのが一番だと思っていた。
黒服に着替え店に入る。何かBOX席がおかしい。こんなとこまで追いかけてきている記者がいた。気が付くと菱沼が黒服を着て玉川の定位置に立っている。「おい、今夜はお前の指名がいくつか入っているよ。」「ここ、いつからホストクラブになったんですか。俺、ホスト?」
「記者さんたちは何を聞きたいんかね。」何となく菱沼が丸くなった気がした。美人の嫁の尻に敷かれてペシャンコになっている。彼は以前気が短かった。
「何をどう説明しても、だれも理解はできないと思いますよ。」
川島は思う、同じ感情を持つ人間なんて一人もいない。里穂だって結局名無子のナリカワリにはなれなかった。彼女の人生を、生きていくしかない。
次の休みの日春野市の龍神滝に行く。竜神神社にお参りをして、龍音寺に行く。お御堂で五百円を封筒に入れ仏壇に置く。しばらく仏壇の前で瞑想をする。しばらくして住職が来た。名無子のことを話した。そして知らずに抱いていた恋心を話した。「一期一会、と思うべきか。来世での再会を思い、また逢う日まで、と思うべきか。」住職はわらった。答えを自分で出している。裁判が最高裁まで争われるなら、あと数年はかかるだろう。住職と雑談をする。茶をふるまわれお御堂を後にする。
今日は小雪ちゃんのところに泊まる予定だ。ついでに泉にも会いたい。
小雪ちゃんの居酒屋風車に行く。カウンターに女の子がいる。山田登美子だ。小雪ちゃんが紹介してくれた。川島はドキドキして話した。見かねて小雪ちゃんが言ってくれる。「付き合いたいんでしょう。はっきり言わないとわからないよ。」あのそのと言い訳をしていたが、「付き合ってください。お願いします。」と言っていた。登美子は驚いて「私でいいんですか。」と言う。これから付き合ってお互いのことを知っていけばいい。とりとめのない話をした。そして自分は家出少年で、今も実家と交流が無いのも話した。最初にこれを言っておかないと、相手に悪い気がする。彼女は美人ではないがどこかほっとさせるものを持っている。と同時に、似ている。山田名無子を思わせる雰囲気を持っていた。登美子は三人姉妹、一番下から嫁に行って今家に残っているのは自分だけ、結婚をあきらめていたと言う。婿に来てくれる人しかダメだろうと言う。入り婿でもいいが職業が問題だ。この辺りでは就職はむつかしい。博多市に住むしかない。
夕方の混雑が始まる前に居酒屋を出てコテージに行く。露天風呂に行った。誰も来てはいないが油断はできない。ゲリラ的におばさん軍団が入ってくる。泉が来た。高野も来た。居酒屋の外のテーブルに座った。いろいろなことを話そうとしたが、何も出ない。ふいに高野が言う。「この春野市にはナリカワリと言う妖怪がいるそうですね。」「ああいるよ。最近それにとっつかれてえらい目にあったよ。」「それにとっつかれないお守りを、小雪ちゃんから買いました。」「値段は?」「五百円。」「ええつ、俺は三千円、ぼったくりだよ。」「おれは買わない。」泉は得意そうにたくさんの動物の爪の付いた房のようなものを出した。「だいたい山の妖怪にお守り。自分が妖怪以上になればいいんだよ。これがキツネの爪、これが狸、これがウサギ、イタチ。」と爪を見せていく。爪は磨かれ、エナメルを塗っているのか光っていた。中には金粉や銀粉を塗っている物もある。「そういえば泉さん、出身は大分県ですよね。」「そう、おれも樫葉村にも一時いた。」「飯島里穂と同じですか。」「そうだよ。だが学年が違うと交流はないからね。顔も知らないよ。学校を終えると走って帰って親の手伝いなり家のことをする。それか自分のおやつ取りだよ。」「おやつ取り?」「たとえば、イバラの実とか、ツバナ、アケビなどを取ったよ。土蜂の巣など、色々食べれるものは知っているが、今取ってきて食べようとは思わないよ。」
高野は大学卒で不動興業に入る。ウエイターをしていたのは、全職種を経験させるため。泉が言う「俺はな、樫葉村には小学生の時ちょっとだけしかいなかった。あの辺りには鉱山や炭鉱がいっぱいあって、それを転々としていたよ。」高校から苦学、そしてやっと大学卒業した。就職したが生まれつきの偏屈、仕事を辞めた。隆一に拾われて不動産の手伝いをしていた。水事業を隆一が思い立ったのは泉が機械関係の専門家だからでもある。粘着気質の彼は、邸内の一角で自分の工作室を持ち、機械の工夫などをしていた。彼は有能な発明家でもあった。
露天風呂に入っているおばちゃんたちを見た。愛される美人になる名無子はそう言っていた。志乃は名無子の理想を、行っているのだろうか。志乃の今は幸せなのだろうか。「俺にも楽しみがある。」ふいに泉が声を上げる。「へーどんな楽しみ?」川島が言う。
調子に乗って追い打ちをかける。「初恋があるでしょう。」と水を向けると、「そうだな。山の中はイモばかり。」と言いながら「初恋か。あったな。うんと小さい時は覚えていないけど、隆一の妻の志乃が初恋かな。」「へー」と高野と二人で思わず同時に言う。「志乃が小学五年生くらいの時かな。初めて見たとき、こんなに美人がいるのかと思ったよ。しかも、藤田邸で育てられている理由が隆一の妾にするため、驚いたよ。そして今では若奥様。二十一歳で三人の子持ち、見た目が今も変わらないのは、あそこにいるおばちゃんたちから見たら、違反だよ。」と露天風呂でキャアキャア言っているおばちゃんを指した。翌日マンションに帰り、出勤準備をする。月光に行くと玉川の退院のめどが立ったと聞く。伊藤が「山瀬の方がまだだそうだ。」と言う。そうだろう。さんざん踏みつけられ顔も上半身もめちゃくちゃだ。一応正当防衛は認められている。クラブの営業が終わって、中洲交番の前を通ると姫野がいた。ちょっとからかってやろうかと中に入る。とりとめのない世間話をしてみた。
季節は秋になった。山の紅葉がきれいな季節になる。平松が例年通り整理した書類を段ボールに詰めている。春野市の藤田邸に持っていく期限切れとは言えない書類の保管に行く。土蔵の大長持ちは頑丈で、いくらでもいろいろのものが詰め込めるが、これも限度がある。その中のものをいくらか処分する。そのための段ボールを持っていく。今まで詰め込むだけだったものを、古いものを取り出して、焼却することを考えている。平松と二人で藤田邸に行く。屋敷の管理をしている大山さんにのカギを開けてもらおうとした。開いていた。「取られるものは何もないからね。」古い焼き物や掛け軸、などの骨とう品は別の蔵に入れている。隣にある隆一と志乃の住む離れは洒落た造りになっている。「大将(隆一の事、農村部では一家の家長をこう呼ぶところがある。)は嫁さんと東京だよ。今週の末に帰ってくる。」大山さんはそういうと蔵の中に入った。大きな米櫃が真ん中にあった。しっかりとした木造で中にトタンが張ってある。まずこの中のものから整理する。段ボールに書いている年を見て、七年経過しているのを出す。これを庭の隅にある焼却炉に入れていく。名簿ばかりではない。まだパソコンが無い時代、紙の資料はすぐ膨大になって行く。大米櫃がかたづくと、かなり重いそれを二人で、壁際に寄せた。次の長持ちも整理した。次々とかたづいたものから、壁際に寄せていく。最後に何本かの農薬や昔の入浴剤が出てきた。これまで始末する必要はなかろうと土蔵を閉めて出た。鍵はバカになっていてかけてもかけなくても変わらない。だがしっかりした土蔵はその役目をまだはたしている。庭の隅をアナグマが行く。それを見ながら川島は、あいつらも冬眠するのかと思う。その日は小雪ちゃんの居酒屋で、お昼を食べ帰った。その年の暮れは冷え込んだ。寒い冬は藤田邸をすっぽりと覆う。
師走に入ったころ、川島は玉川に呼ばれた。泉が行方不明だと言う。荷物は居宅にあるのに帰ってこない。付近の山も捜索している。知らないかと言うものだ。彼は水源探しの為、よく一人で山に入ることはある。それにしても姿を見ない日が長い。
志乃と隆一が住む離れで、異様なにおいが広がる。何となく秋口から異様なにおいがあったが、付近で動物が死んでいるのかもしれないと思った。専門家に依頼して匂いのもとを捜査している。
川島も休みの日に捜索に参加した。離れの近くに行き、離れの隣の土蔵に入る。強いにおいがした。中をよく見ると農薬の中に混じっていた入浴剤のビンが無い。一緒に来た大山さんに聞いてみる。「あそこにあった入浴剤を使いましたか?」「うんにゃ。古いもん使うわきゃなかろうが。」確かにあの時一本あった。そうこう話していると、高野が来た。泉の失踪を心配している。川島は土蔵の中のサイズと、外側のサイズの違いに気が付いた。土蔵は壁が厚い。当たり前だがこの土蔵は変だ。
内部が微妙に歪んでいるが、床はり壁はりで隠されている。離れの壁にくっついている。ふいに死臭がしてきた。温泉の卵が腐ったような匂い。入浴剤かとも思ったがもっと嫌なにおいだ。この間片付けた長持ち、米櫃をどかしてみる。壁から離していく。大山さんは退職した自衛官。匂いを嗅いで言う「警察に知らせた方がいい。」災害救助などで嗅ぐ匂いだと言う。
警官が来て、においのもとを探る。壁と床をみていたら壁が動く仕掛けを見つける。動かした。動いた。強烈なたんぱく質が分解された、匂いがした。警察官が規制線を張る。壁の中には幅八十センチほどの小さな隠し部屋があり、その中に腐乱した死体があった。泉だ。川島たちが米櫃や長持ちを壁に寄せていたから、出口をふさがれてしまって出られなかったらしい。
川島は邸を見て回った。金持ちの屋敷とは、こうなっているのかと感心していた。子供たちを見ている高木さんも見かけた。巌さんや梅さんも見かけた。子供たちも見た。一番小さい子は今年の初めにできた生後九か月。かわいい。そして泉の仕事場にも行った。機械や鉱物の探査分析もやっていたから、薬品もある。そして離れの部屋にも入った。覗きをしていた小部屋からの穴は、紙を張って見えないようにされていた。紙は新しかった。そして彼はある仮説を立てた。証拠はない。時間の経過とともに証拠は消えていく。時間がたてば証拠は残らない。その年は忙しかった。身寄りのない泉の葬式は春野市の斎場で行われた遺体の状態があるので直葬、遺骨は地元の寺に預けられた。蔵や離れは取り壊された。別の場所に隆一たちの部屋と、付随して高野の居室、工房が建てられた。昔ながらの大工仕事ではなく、モダンな現代風、短期間で建った。子供たちを見られるように、渡り廊下もついた。
二月梅の時期に川島は小雪ちゃんのコテージに泊まった。暗くなって高野が来た。川島は露天風呂に入った。高野も露天風呂に入る。高野が言う。「僕に話があったのでしょう。」「どうでもいい話だよ。」「どうでもいい話のためにここに来たのですか。」川島と高野は同じ年齢それでも川島が上に見える。それは人と接触してきた違いか、傷ついてきた数かもしれない。「九州にクマがいなくてよかったな。」「そうですね。クマがいたらこうして夜に露天風呂に入っておけないよ。」少しずつ高野の緊張がほぐれていく。高野は博多市のいい高校に行き、いい大学を出た。川島からしたらうらやましい限りである。愛情深い両親と、兄妹がいる。「どうして不動興業へ。」「自分の周りがみんな手堅い職で、少し外の世界を見てみたかったんです。」「そして志乃に出会った。」「あんなタイプの女性に、会ったことがありませんでした。」「まああまり世間でない環境だからね。」
高野は語り始めた。
高野の大学は工学部機械工学科。それが歓楽企業に就職、そして玉川の指示でボーイからの職場見習い。この業界を覚えていこうとする彼を見守った。そして藤田不動産へ。営林機械の改善をしている泉の下に着く。泉はいい先輩だった。いろいろ教えてくれた。志乃との出会いは、初めて会ったのは来た日の夕食、心をつかまれました。付き合った彼女もいました。女性関係もありました。志乃は十九歳で三人の子を産んでいました。それでも魅力的でした。彼女を見ることが多くなりました。そして彼女も見つめ返してきます。ある日社長から呼ばれました。鍵を渡されました。「五日間用事で東京に行く。志乃が一人寝でさみしいなら添い寝してやってくれ。ただし部屋の中では声を出さないこと。」びっくりしました。社長の顔を見ると真剣でした。鍵を受け取ると社長が出発したその夜、部屋に行きました。あとはあなたの想像通りです。溺れたという言葉がいいと思います。そんな関係をここ三年続けてきました。知りませんでした。あんな隠し部屋があるとは。
志乃が四人目を産んだ時赤子を見て驚きました。私の生まれたときの写真にそっくりでした。社長は夫であり兄であり、そして父親でもあったのです。志乃にとっては唯一の肉親。私はその関係に飲み込まれました。去年あなたと平松さんが、土蔵内を整理しました。その時私は離れにいました。志乃の夜着を抱いてベッドにいました。愛しくても絶対自分のものにならない女、思い切ることもできずこのままずるずると、そう思ったときです。壁の中から声がしました。声をたどっていくと小さなノゾキアナがありました。穴は普段はわからないように向こうから閉められるようですが、その時は開いていました。隠し部屋の出入り口の土蔵内の荷物移動をされて出られないと言う泉の声でした。だいたいこの家は昔の屋敷で、泥棒除けとか、メクラ廊下(どこにも通じない廊下)一見わからない隠し部屋とか、あるのは知っていました。しかし、私の行為が覗かれていたとは驚きです。彼は言いました。俺はみんな知っているからな。
土蔵に行き状態をみました。ドンドンとたたく壁は、米櫃や長持ちが積まれ一人の力ではどうにもなりません。周りを見たとき、入浴剤が目に入りました。泉の工房に行き、薬品ビンとフラスコビニールホースを取ってきました。あとはあなたの推理通り。入浴剤と薬品を混ぜ穴から室内に注ぎ込みました。そのあと壁紙に似た紙で穴をふさぎました。硫化水素の匂いは死臭に混ざるとわからなくなるし、時間がたつと消えてなくなる。あなたが気が付かなければ完全犯罪です。あのまま死体が出てこなければそのまま気が付かれない。でも死臭は強いですね。泉を助けていたら彼は脅迫者になったでしょう。警察に言いますか。証拠はありませんよ。その通り、証拠はない。いつまでその関係を続けると聞くと、「多分一生。志乃か私が死ぬまで。」そういうと風呂から上がる。「今日社長は博多市なんですよ。」嬉しそうに言う。
山の時間は都会の時間とは違う。川島は思う。ナリカワリは女から惚れられない男の悲しみのエネルギーからできているなら泉のエネルギーは大きい。高野に頑張れよと言いたかった。




