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作者: ponto
掲載日:2026/10/04

 第一章 The Lobby


午後八時十七分。


 白石透は、仕事帰りの道を歩いていた。


 駅から自宅までは徒歩で十五分ほど。


 いつも通る道だった。


 イヤホンから流れる音楽を聞きながら、明日の仕事のことをぼんやり考えていた。


 コンビニの前を通り過ぎる。


 交差点を渡る。


 いつもの道を歩く。


 何も変わったことはなかった。


 ただ、一瞬だけ。


 足元に違和感があった。


「……ん?」


 タイルの上に足を置いた瞬間、身体が沈んだ。


 落ちる。


 そう思った。


 しかし、落下した感覚はなかった。


 身体が床をすり抜けた。


 視界が一瞬だけ暗くなり――


 次の瞬間、透は硬い床の上に倒れていた。


「……痛っ」


 ゆっくり身体を起こす。


 最初に聞こえたのは、低い機械音だった。


 ジジジジジ……。


 蛍光灯が鳴っている。


 透は顔を上げた。


 黄色い壁紙。


 薄汚れたカーペット。


 天井には、無数の蛍光灯。


 そして、どこまでも続いているように見える部屋。


「……何だ、ここ」


 立ち上がる。


 周囲を見回す。


 窓はない。


 外も見えない。


 人の気配もない。


 扉すら見当たらない。


 透はスマートフォンを取り出した。


 画面はつく。


 時刻も表示されている。


 しかし、電波は圏外だった。


「最悪……」


 電話をかけようとする。


 当然、つながらない。


 もう一度周囲を見る。


 やはり何もない。


 透は歩き始めた。


 ここにいても仕方がない。


 出口を探すしかない。


 右へ曲がる。


 しばらく進む。


 また右へ曲がる。


 今度は左。


 同じような景色が続く。


 黄色い壁。


 黄色い壁。


 黄色い壁。


 そして蛍光灯。


 ずっと同じ音がしている。


 ジジジジジ……。


 透は歩きながら、何度もスマートフォンを確認した。


 時間だけが進んでいる。


 午後八時三十分。


 八時四十五分。


 九時。


 それなのに、景色は何も変わらない。


「……広すぎるだろ」


 独り言が、静かな空間に消えた。


 返事はない。


 透は歩き続けた。


 少し疲れてきた。


 カーペットの上を歩く音だけが、自分についてくる。


 ふと、後ろを振り返った。


 誰もいない。


 当然だった。


 しかし、振り返らなければよかったと思った。


 さっきまで歩いてきた場所と、今いる場所の違いが分からない。


 どこから来たのか。


 どこへ向かっているのか。


 分からなくなっていた。


 透は壁に手をついた。


 少し湿っている。


「……帰らないと」


 誰に言うでもなく呟く。


 その言葉だけが、妙に現実的だった。


 家に帰る。


 風呂に入る。


 明日の仕事に行く。


 それだけのはずだった。


 透は再び歩き出した。


 何時間歩いたのか分からない。


 疲れている。


 喉も渇いてきた。


 それでも歩くしかなかった。


 そして――


 遠くに、何かが見えた。


 透は立ち止まった。


 黄色い壁の向こう。


 暗い場所がある。


 部屋なのか。


 通路なのか。


 距離感が分からない。


 透は少しだけ迷った。


 それでも進む。


 一歩。


 また一歩。


 近づいていく。


 やがて、その暗がりの前に立った。


 そこには、さらに奥へ続く空間があった。


 透は息を吐いた。


「……行くしかないか」


 そして、暗い通路へ足を踏み入れた。


 背後では、蛍光灯が変わらず鳴っていた。


 ジジジジジ……。


 その音は、透が遠ざかっても消えなかった。


 ————————————


 暗い通路を抜けると、また黄色い部屋に出た。


 透は足を止めた。


 結局、どこへ行っても同じだった。


 黄色い壁。


 湿ったカーペット。


 頭上で鳴り続ける蛍光灯。


 ジジジジジ……。


 もう、何度この景色を見たのか分からない。


 スマートフォンを見る。


 午前一時十二分。


 ここへ来てから、三時間近く経っていた。


「……三時間か」


 時間だけは進んでいる。


 それが妙に安心できた。


 少なくとも、自分の感覚だけがおかしくなっているわけではない。


 透はポケットにスマートフォンを戻した。


 喉が渇いていた。


 空腹も感じ始めている。


 けれど、食べ物も水もない。


 出口もない。


 あるのは、どこまでも続く部屋だけだった。


 透は再び歩き始めた。


 しばらくして、足音が気になった。


 自分の足音だ。


 カーペットを踏むたび、


 ペタ。


 ペタ。


 と、鈍い音がする。


 それ以外には何も聞こえない。


 透は歩く速度を少し落とした。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


 蛍光灯の音だけが、空間全体を埋め尽くしている。


 そのときだった。


 ――カサ。


 透は足を止めた。


「……?」


 今、何か聞こえた。


 振り返る。


 何もない。


 黄色い壁。


 角。


 カーペット。


 それだけだった。


 気のせいかもしれない。


 そう思って、また歩き始める。


 ――カサ、カサ。


 今度ははっきり聞こえた。


 後ろからではない。


 左側。


 壁の向こうからだった。


 透はゆっくりとそちらを見る。


 何もない。


 けれど、音は続いている。


 カサ……。


 カサ……。


 何かを引きずっているような音だった。


 透は壁の角から少しだけ顔を出した。


 そして、動きを止めた。


 遠くに何かがいる。


 最初は、壊れた配線かと思った。


 細くて、黒い。


 何本もの針金を適当に束ねたような形をしている。


 それが、ゆっくりと動いていた。


 人間のようには見えない。


 四つ足でもない。


 形そのものが、うまく理解できなかった。


 透は息を止めた。


 距離はかなりある。


 こちらには気づいていないようだった。


 針金のような身体が、床を擦りながら進んでいる。


 カサ。


 カサ。


 その音だけが聞こえる。


 透は一歩も動かなかった。


 逃げるべきなのか。


 近づいてはいけないのか。


 何も分からない。


 ただ、近づかない方がいい。


 それだけは直感的に分かった。


 透はゆっくりと後ろへ下がった。


 一歩。


 もう一歩。


 その瞬間。


 針金のようなものが止まった。


 透も止まる。


 しばらく動かない。


 蛍光灯の音だけが響く。


 ジジジジジ……。


 そして、それがこちらを向いた。


 顔はない。


 目もない。


 それでも、見られている。


 そんな感覚がした。


 透の心臓が大きく跳ねた。


 逃げよう。


 そう思った瞬間だった。


 蛍光灯が一つ、消えた。


 パチッ。


 視界が暗くなる。


 透は反射的に目を閉じた。


 数秒後。


 蛍光灯が再び点いた。


 透は前を見る。


 そこには、もう何もいなかった。


「……」


 透は動けなかった。


 しばらくして、ようやく息を吐く。


 それから、今まで歩いてきた方向とは反対へ向かって歩き始めた。


 今度は振り返らなかった。


 足音が少し速くなる。


 ペタ。


 ペタ。


 ペタ。


 背後から、何かが追ってくる音はしない。


 それでも透は、歩くのをやめなかった。


 黄色い壁は、どこまでも続いていた。


 ————————————


 透は歩き続けていた。


 もう、どれくらい歩いたのか分からない。


 黄色い壁。


 湿ったカーペット。


 天井を埋め尽くす蛍光灯。


 どこまで行っても、同じような景色が続いている。


 透は何度目か分からない角を曲がった。


 その先にも、また同じような部屋があった。


「……またか」


 思わず足を止める。


 さっきも、ここを通った気がする。


 いや。


 気がするだけなのかもしれない。


 透は周囲を見回した。


 右に曲がれる通路。


 左に曲がれる通路。


 正面には、少しだけ壁紙が剥がれた場所。


 天井には蛍光灯が三本。


 見覚えがある。


 確かに、さっき見た。


 透はポケットの中を探った。


 財布。


 スマートフォン。


 鍵。


 それから、仕事帰りにコンビニでもらった小さなレシート。


 透はレシートを取り出した。


 しばらく眺める。


 そして、床の隅に置いた。


「……これで分かる」


 もし本当に同じ場所を何度も回っているのなら、いずれこのレシートのところへ戻ってくる。


 逆に戻ってこなければ――


 透はそこまで考えて、歩き始めた。


 右。


 左。


 しばらく真っ直ぐ。


 また右。


 似たような景色が続く。


 何度も振り返りたくなった。


 しかし、振り返ることはしなかった。


 どこかで、同じ場所に戻っていることを確かめるのが怖かった。


 しばらくして。


 透はまた、似たような部屋に出た。


 黄色い壁。


 湿ったカーペット。


 蛍光灯が三本。


「……ここだ」


 さっきの場所だ。


 透は少し安心した。


 やっぱり、この場所をぐるぐる回っている。


 そう思いながら、床を見る。


 レシートがあるはずだった。


 しかし――


 何もない。


「……あれ?」


 透はしゃがみ込んだ。


 床を見回す。


 ない。


 壁際にもない。


 カーペットの隙間にもない。


「おかしい……」


 確かに置いた。


 間違いなく、ここに置いた。


 透は立ち上がった。


 もう一度、部屋を見渡す。


 やはり、同じに見える。


 けれど。


 同じ場所ではない。


「……違うのか」


 その言葉が、妙に重く感じられた。


 これまで透は、同じ場所を何度も歩いていると思っていた。


 でも、違った。


 同じように見えるだけだ。


 壁の模様も。


 蛍光灯の並びも。


 部屋の形も。


 どこか似ているだけで、完全に同じではない。


 透は急に、自分がいる場所の広さを想像した。


 この景色が、ずっと続いている。


 同じような部屋が、いくつも、いくつも。


 戻っているのではない。


 進み続けている。


 それなのに、どこへ向かっているのか分からない。


「……出口なんて、あるのか?」


 声が小さくなった。


 返事はない。


 蛍光灯の音だけが、頭上から降ってくる。


 ジジジジジ……。


 透はレシートを置いた場所をもう一度振り返った。


 そこには、何もない。


 それを確認してから、透は歩き出した。


 今度は、同じ景色を見ても立ち止まらなかった。


 同じ場所だと思わないようにした。


 一つ一つ違う。


 そう考えることにした。


 しばらく進んだところで、透は足を止めた。


 前方の壁紙が、今までとは違っていた。


 黄色ではある。


 しかし、その一部分だけ大きく剥がれている。


 その奥から、灰色の壁が見えていた。


 透は近づいた。


 壁紙の隙間から、向こう側を覗く。


 暗い。


 そして、黄色い部屋とは明らかに違う空間が続いている。


 透は少し迷った。


 ここを進んでいいのか。


 それとも、今まで通り歩き続けるべきなのか。


 答えは出なかった。


 ただ。


 初めて、景色に変化があった。


 透は壁紙の剥がれた部分に手をかけた。


 そして、ゆっくりと隙間を広げる。


 その先へ、一歩踏み出した。


 黄色い壁が消える。


 湿ったカーペットも消える。


 代わりに、冷たいコンクリートの床が足の裏に触れた。


 透は顔を上げた。


 そこには、今までとはまったく違う空間が広がっていた。


 薄暗い。


 広い。


 遠くから、機械のような音が聞こえる。


 ブーン……。


 透は後ろを振り返った。


 そこには、まだ黄色い壁がある。


 けれど、もう戻ろうとは思わなかった。


 あの場所に戻ったところで、出口があるとは限らない。


 そもそも――


 戻ることができるのかすら、分からない。


 透はスマートフォンを確認した。


 圏外。


 時刻だけが進んでいる。


 そして、暗い通路の先へ目を向けた。


「……行くか」


 透は一歩、踏み出した。


 その瞬間。


 背後の黄色い空間から、かすかに音が聞こえた。


 ――カサ。


 透は振り返らなかった。


 そのまま、暗い通路の奥へ進んでいった。

 

 

 第二章 The Habitble Zone



 暗い通路を、透は一人で歩いていた。


 足音が、コンクリートの壁に反響している。


 黄色い部屋を抜けてから、しばらく経った。


 黄色い壁は、もう見えない。


 あの蛍光灯の音も聞こえない。


 それだけで、少しだけ身体の力が抜けた。


 透は立ち止まった。


 スマートフォンを確認する。


 午前三時二十九分。


 圏外。


 電池は残り六十二パーセント。


「……まだこんな時間か」


 時間の感覚は、もうほとんどなくなっていた。


 仕事から帰っていたはずなのに。


 今は、仕事のことすら遠い昔のことのように感じる。


 透は再び歩き始めた。


 しばらくすると、前方に明かりが見えた。


 さっきの部屋の蛍光灯とは違う。


 もっと弱く、白っぽい光だった。


 透は目を細める。


 近づいていく。


 やがて、通路の先が開けた。


「……」


 透は言葉を失った。


 そこには、大きな空間が広がっていた。


 コンクリートの壁。


 広い床。


 天井には、いくつもの照明が並んでいる。


 ところどころに柱があり、遠くには別の通路も見える。


 さっきいた場所のような黄色い部屋ではない。


 圧迫されるような狭さもない。


 そして何より――


 空気が違った。


 湿ったカーペットの臭いがしない。


 少なくとも、呼吸をするのが苦しくない。


 透はゆっくりと中へ入った。


「……広い」


 声が反響する。


 その反響すら、どこか安心できた。


 透は少し歩いた。


 壁際に、いくつかの物が置かれている。


 箱。


 容器。


 何かの道具。


 透は慎重に近づいた。


 そして、その中の一つを手に取った。


 水だった。


「……水」


 透はしばらく、それを見つめていた。


 喉が渇いている。


 黄色い部屋にいた間、まともに水を飲んでいない。


 しかし、すぐには口をつけなかった。


 こんな場所で見つけたものを、何も確認せず飲むのは怖い。


 容器を眺める。


 見た目には普通の水に見える。


 透は少しだけ迷った。


 それから、ほんの少し口に含んだ。


 何も起こらない。


 もう一口飲む。


 喉を水が通っていく。


 それだけのことが、妙に嬉しかった。


「……生きてる」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


 透はその場に座り込んだ。


 壁に背中を預ける。


 初めて、少しだけ休める気がした。


 ここなら。


 ここなら、しばらく生きられるかもしれない。


 黄色い部屋では、何をしても出口が見つからなかった。


 同じような部屋が延々と続いていた。


 けれど、ここには違うものがある。


 水。


 物資。


 広い空間。


 そして、どこか人の手が入ったような痕跡。


「……人がいるのか?」


 透は周囲を見回した。


 返事はない。


 遠くから、機械が動くような低い音が聞こえている。


 ブーン……。


 透は耳を澄ました。


 黄色い部屋とは違う音だった。


 規則的な音。


 何かが動いている音。


 もしかしたら、ここには自分以外にも誰かいるのかもしれない。


 そう思った瞬間だった。


 遠くで、何かが落ちる音がした。


 カンッ。


 透は立ち上がった。


 音の方向を見る。


 何も見えない。


 広い空間の向こう側は、薄暗くてよく見えない。


「……誰かいる?」


 返事はなかった。


 透はしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと腰を下ろす。


 今は追いかけない。


 ここが安全なのかどうかも、まだ分からない。


 さっきの部屋で学んだ。


 見えないものを、勝手に安全だと思ってはいけない。


 透は手元の水を見る。


 そして、遠くの暗闇を見る。


 あの黄色い部屋よりは、ずっといい。


 けれど――


 ここも、現実ではない。


 その事実だけは変わらなかった。


 透はスマートフォンを取り出した。


 画面には、圏外の文字。


 その下に、自分の顔が薄く映っている。


 疲れ切った顔だった。


 透は画面を消した。


「……明日になったら」


 そこまで言って、言葉を止める。


 明日になれば。


 その言葉が、この場所では意味を持つのか分からなかった。


 透は壁にもたれた。


 目を閉じる。


 少しだけ休もう。


 そう思った。


 そのとき。


 遠くの暗闇から、また音がした。


 カン。


 今度は、さっきより近かった。


 透は目を開けた。


 暗闇を見る。


 何もいない。


 それでも。


 透は、しばらく眠ることができなかった。


 ————————————


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 透は壁にもたれたまま、浅い眠りについていた。


 完全に眠ることはできなかった。


 知らない場所。


 圏外のスマートフォン。


 そして、遠くから聞こえる機械音。


 何かが起こるたびに目が覚める。


 それでも、さっきまでいた黄色い部屋よりはずっとましだった。


 水がある。


 身を隠せる場所もある。


 少なくとも、今のところ何も襲ってきていない。


 透は目を開けた。


 ぼんやりと天井を見る。


 照明が並んでいる。


 その光を眺めながら、もう一度目を閉じようとした。


 そのときだった。


 ――パチン。


 照明が一つ消えた。


「……?」


 透は目を開けた。


 少し離れた場所の照明が消えている。


 故障だろうか。


 そう思った。


 しかし。


 ――パチン。


 また一つ。


 今度は、さっきより近い。


 透は身体を起こした。


 ――パチン。


 さらに一つ。


 暗闇が、少しずつこちらへ近づいてくる。


「……なんだよ」


 透は立ち上がった。


 照明の下だけが、まだ明るい。


 その境界が、ゆっくりと迫ってくる。


 ――パチン。


 消える。


 ――パチン。


 また消える。


 透は後ずさった。


 そのとき。


 暗闇の中で、何かが動いた。


「……!」


 見えない。


 何も見えない。


 ただ、暗闇の奥で何かが動いたように見えた。


 いや。


 見えたというより――


 そこにいる。


 そう感じた。


 透は息を止めた。


 暗闇の中に、形はない。


 目もない。


 顔もない。


 それなのに、確かに何かがいる。


 そして。


 それはこちらへ近づいている。


 ――パチン。


 最後の照明が消えた。


「っ……!」


 透は走り出した。


 何も見えない。


 ただ前へ。


 足音が響く。


 ドン。


 ドン。


 ドン。


 背後から何かが追ってくる。


 姿は見えない。


 音もほとんどしない。


 それでも、距離が近づいていることだけは分かった。


 透は手探りで壁を探した。


 壁に手が触れる。


 そのまま走る。


「どこだ……!」


 暗闇の中で、いくつもの角を曲がった。


 何度も転びそうになる。


 それでも止まらない。


 後ろを確認する余裕なんてなかった。


 ただ、逃げる。


 そのことだけを考えた。


 しばらく走ったところで――


 遠くに、光が見えた。


「……!」


 透はそちらへ向かった。


 白い光。


 それまでの照明とは違う。


 明らかに、人がいる場所の光だった。


 走る。


 走る。


 そして、通路を抜けた。


「誰か!」


 声を上げた。


 その先には――


 人がいた。


「……え?」


 何人もの人間がいる。


 壁際には簡素な寝床。


 いくつもの箱。


 水や食料。


 小さな照明。


 誰かがこちらを振り返った。


「おい、大丈夫か!」


 男が駆け寄ってくる。


 透はその場に膝をついた。


 息が上がって、言葉が出ない。


「後ろ……」


「後ろ?」


 男が通路を見る。


 しばらくしても、何も現れない。


 透は暗い通路を見つめた。


 あれは、まだそこにいる気がした。


 しかし。


 追ってくる気配はなかった。


「……ここは?」


 ようやく声が出た。


 男は透を見る。


「ここは、人が集まって暮らしてる場所だ」


「人が……?」


「ああ。ここまで来られれば、しばらくは休める」


 透は周囲を見回した。


 十人以上はいる。


 皆、普通の人間だった。


 疲れた顔をしている。


 けれど、誰もがここで生活している。


「ここに……人がいるんですか」


「珍しくない。ここまで来られればな」


 男は透に水を渡した。


「まず飲め」


 透は受け取った。


「……ありがとう」


 水を飲む。


 今度は、さっきより安心して飲めた。


 透は壁際に座った。


 しばらくして、少し落ち着いたところで尋ねる。


「ここは一体、何なんですか」


 男は少し考えてから答えた。


「お前、何も知らないんだな」


「……はい」


「じゃあ、さっきまでいた黄色い部屋のことも?」


 透は首を横に振った。


 男は小さく息を吐いた。


「ここに来る前、黄色い部屋をずっと歩いてただろ」


「……はい」


「あそこは、ここに来るまでに通る場所の一つだ」


 透は黙って聞いていた。


「この先にも、いろんな場所がある。雰囲気も、危険なものも、全部違う」


「……いくつくらいあるんですか?」


「分からない」


 男は即答した。


「俺たちにも、全部は分からない」


 透は言葉を失った。


 あの黄色い部屋だけでも、あれほど広かった。


 それなのに。


 あの先に、さらに別の場所がいくつもある。


「じゃあ……ここにいれば」


 透は言葉を止めた。


 男は何も言わなかった。


「……帰れるんですか?」


 男は透を見る。


 その表情が、少しだけ変わった。


「帰りたいのか?」


「当たり前です」


 透は即答した。


 家がある。


 仕事がある。


 いつもの生活がある。


 まだ、何も終わっていない。


 男はしばらく黙っていた。


「じゃあ、進むしかない」


「……進む?」


「ここから先へ行くんだ」


 男は続けた。


「いくつも場所が続いてる。安全なところもあれば、危険なところもある」


「それを進んでいけば……?」


「現実に戻れる可能性がある」


 可能性。


 その言葉が、透の胸に残った。


「可能性……」


「ああ。必ず戻れるとは言えない」


 男は静かに言った。


「でも、ここで止まっていても、帰ることはできない」


 透は何も言わなかった。


 周囲を見回す。


 ここには人がいる。


 水もある。


 眠る場所もある。


 このままここで暮らすことだって、できるのかもしれない。


 けれど。


 それは「帰る」こととは違う。


 透はスマートフォンを取り出した。


 画面には、圏外の文字。


 その下には、自分が毎日見ていた時間が表示されている。


 現実と繋がっている証拠は、それだけだった。


「……帰る」


 透は小さく呟いた。


「帰らないと」


 男は何も言わなかった。


 ただ、透の前に置かれた水を指差した。


「今日は休め」


 透は頷いた。


 今すぐ進む必要はない。


 まずは身体を休める。


 そして。


 いつか、この場所を出る。


 透は目を閉じた。


 初めて、一人ではない場所で眠りについた。


 ————————————


 朝。


 透は目を覚ました。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 薄暗い天井。


 小さな照明。


 周囲から聞こえる、人の寝息。


 昨日までとは違う。


 一瞬だけ、いつもの部屋に戻ったような気がした。


 けれど。


 スマートフォンを取り出した瞬間、その感覚は消えた。


 圏外。


 画面に表示された時間だけが、淡々と進んでいる。


「……夢じゃなかったか」


 透は小さく呟いた。


 身体を起こす。


 昨日よりは、少し楽になっていた。


 水を飲み、簡単な食事を取る。


 その間も、透は周囲を見ていた。


 昨日ここへ来たときは、何も考える余裕がなかった。


 ただ逃げて。


 ただ助けを求めて。


 そして、ここにたどり着いた。


 でも今は違う。


 帰るために、ここを出なければならない。


 透は立ち上がった。


「もう行くのか?」


 昨日、水を渡してくれた男が声をかけてきた。


「はい」


「そうか」


 男は少し黙った。


「無理はするなよ」


「……ありがとうございます」


 男は小さな袋を差し出した。


「水と、少し食べ物が入ってる」


「いいんですか?」


「ああ」


 透は受け取った。


 思ったより重い。


 これだけの水や食料が、ここでは貴重なのだろう。


「この先は?」


 透が聞くと、男は少し考えた。


「ここから先は、俺も詳しくない」


「……そうですか」


「ただ、しばらく進めば別の場所に出る」


「危険ですか?」


 男は答えるまで少し時間を置いた。


「どこだって危険だよ」


 その言葉に、透は何も言えなかった。


「でも」


 男が続ける。


「昨日みたいに、暗いところをむやみに走るな」


「はい」


「何か見つけても、すぐ近づくな」


「……分かりました」


「それから」


 男は透を見る。


「帰りたいなら、諦めるな」


 透は一瞬、返事ができなかった。


 そして、小さく頷いた。


「はい」


 集落を出る。


 最後に振り返ると、そこには昨日と同じように人がいた。


 誰かが話している。


 誰かが食事をしている。


 誰かが眠っている。


 こんな場所でも、人は生活している。


 透は少しだけ不思議な気持ちになった。


 自分も、いつかここで普通に暮らしてしまうのだろうか。


 そんな考えが頭をよぎる。


 けれど。


 すぐに首を振った。


 帰る。


 そのために進む。


 透は前を向いた。


 集落から続く通路を歩いていく。


 しばらくすると、人の声が聞こえなくなった。


 足音だけになる。


 ペタ。


 ペタ。


 ペタ。


 壁は灰色のコンクリート。


 天井には配管。


 ところどころに、小さな照明が取り付けられている。


 さっきまでいた場所とは違う。


 それでも、まだ同じ空間の中にいるような気がした。


 透は歩き続けた。


 時間の感覚がなくなる。


 スマートフォンを見る。


 午前十一時を過ぎていた。


「……そんなに歩いたのか」


 時計を見て、透は少し驚いた。


 すると。


 前方から、かすかな音が聞こえた。


 ――ポタ。


 水滴の音。


 透は足を止めた。


 ――ポタ。


 もう一度。


 少し先に、水が溜まっているようだった。


 透は近づかず、その場から周囲を見渡した。


 壁。


 天井。


 床。


 特に変わったところはない。


 けれど。


 その奥から、別の音が聞こえてきた。


 ――ゴウン……。


 低い音。


 機械が動いているような音だった。


 透は慎重に進んだ。


 通路の先に、奇妙な場所が見えてくる。


 壁に沿って、太い管が何本も走っている。


 天井にも管がある。


 床の上にも、何本か伸びている。


「……なんだ、ここ」


 透は立ち止まった。


 今までとは明らかに違う。


 コンクリートの壁は続いている。


 けれど、そのほとんどが巨大なパイプに覆われている。


 管の表面には、水滴が付いていた。


 どこかから蒸気のようなものが漏れている。


 シュー……。


 透は一歩だけ後ろへ下がった。


 熱い。


 さっきまでより、明らかに空気が暑い。


 額に汗が浮かぶ。


 それでも、ここには道が続いている。


 そして。


 その先に、出口があるかもしれない。


 透は水の入った袋を確認した。


 まだある。


 大丈夫だ。


 そう自分に言い聞かせる。


 透はパイプの並ぶ通路を見つめた。


 暗い。


 どこまで続いているのか分からない。


 それでも。


 進むしかなかった。


 透はゆっくりと、その通路へ足を踏み入れた。


 背後から、集落の方へ戻る風が吹いた。


 透は振り返らなかった。


 そのまま、パイプの間を進んでいく。


 ――ゴウン。


 ――ゴウン。


 低い機械音が、暗い通路の奥から響いていた。



 第三章 Pipe Dreams



 通路に入った瞬間、空気が変わった。


 暑い。


 さっきまでいた場所とは、明らかに違う。


 透は歩きながら、シャツの襟元を引っ張った。


「……暑すぎるだろ」


 額に汗が浮かぶ。


 それを手の甲で拭う。


 壁には太いパイプが何本も走っている。


 天井にもある。


 床にもある。


 大小様々な管が、通路の奥まで伸びている。


 どこからともなく、低い機械音が響いていた。


 ゴウン……。


 ゴウン……。


 その音に混じって、時々。


 シューッ。


 どこかのパイプから蒸気が漏れる音がする。


 透はなるべくパイプから離れて歩いた。


 近づくと、さらに熱い。


 手を伸ばす気にはなれなかった。


 火傷する。


 そう思えるほどだった。


 しばらく進んだところで、透は立ち止まった。


 壁に、小さな文字が書かれていた。


 誰かが残したものらしい。


 ――二日。


 その下に、乱れた文字で続いている。


 ――長くいるな。


 透は眉をひそめた。


「二日……?」


 意味が分からない。


 その先は、ほとんど消えていた。


 透は文字を見つめた。


 何かの警告なのだろうか。


 そのとき。


 背後から音がした。


 ――ガン。


 透は振り返った。


 何もいない。


 パイプが並んでいるだけだ。


「……?」


 もう一度、前を見る。


 そして。


 ――ガン。


 今度は、すぐ後ろだった。


 透は勢いよく振り返った。


 一本の細いパイプが、わずかに揺れている。


 さっきまで、あんな場所にあっただろうか。


 透は黙って見つめた。


 気のせいだ。


 そう思おうとした。


 けれど。


 数秒後。


 パイプが、ゆっくり動いた。


「……え?」


 金属が擦れる音。


 ギギギ……。


 壁に沿っていたパイプが、少しずつ通路側へ伸びてくる。


 透は後ろへ下がった。


 パイプの先端が、さらに動く。


 ギギ……。


 ギギギ……。


 通路を塞ぐように、少しずつ位置が変わっていく。


「なんだよ……」


 透は急いでその場を離れた。


 歩く。


 今度は少し早く。


 パイプの間を抜けていく。


 すると、前方から別の音が聞こえた。


 ――カサ。


 透は足を止めた。


 まただ。


 あの音。


 黄色い部屋で聞いたものとは違う。


 もっと多い。


 左右から聞こえる。


 カサ。


 カサカサ。


 カサ。


 透は息を潜めた。


 パイプの隙間を見る。


 何かが動いた。


 一瞬だった。


 黒い影が、通路の奥を横切った。


「……!」


 透は動かなかった。


 すると、今度は反対側。


 別の何かが動いた。


 さらに奥。


 また一つ。


 何かがいる。


 一つではない。


 透はゆっくり後退した。


 この場所には、何かが多すぎる。


 足音。


 擦れる音。


 金属音。


 正体の分からない気配。


 どれも、どこから聞こえているのか分からない。


 ――シューッ。


 突然、横のパイプから蒸気が噴き出した。


「うわっ!」


 透は飛び退いた。


 熱気が顔に当たる。


 息をするだけで苦しい。


 喉が乾く。


 汗が一気に出てくる。


 透は水を取り出した。


 一口だけ飲む。


 もう一口飲みたい。


 でも、残しておかなければならない。


 そう思って、蓋を閉めた。


 その瞬間。


 目の前のパイプが動いた。


 ギギギギ……。


「……嘘だろ」


 一本。


 また一本。


 壁から伸びるようにして、通路へ迫ってくる。


 透は走り出した。


 後ろを見ない。


 パイプが擦れる音がする。


 ギギギギギ……。


 まるで追いかけてくるようだった。


 通路が狭くなる。


 透は身体を横にして、パイプの隙間を抜ける。


 肩が金属に触れた。


「熱っ!」


 反射的に離れる。


 それでも止まれない。


 前方に、何かがいる。


 黒い影。


 透は足を止めかけた。


 しかし、その影は一つではなかった。


 さらに奥。


 その横。


 天井。


 いくつもの気配がある。


 透は走った。


 何なのか確認する余裕はなかった。


 ここにいるものが何であろうと関係ない。


 捕まったら終わる。


 そう思った。


 走っているうちに、息が苦しくなってきた。


 暑い。


 さっきより明らかに暑い。


 シャツが汗で身体に張り付く。


 頭がぼんやりする。


 それでも走る。


 ふと、壁に書かれた文字が目に入った。


 ――一日目。


 その下には、別の誰かが書いたらしい文字。


 ――二日目までに出ろ。


 透は足を止めた。


「……二日?」


 その意味を考える。


 すると。


 背後から。


 ギギギギ……。


 パイプが動く音。


 透は振り返った。


 さっきまで通ってきた道が、パイプで少しずつ埋まり始めていた。


 一本。


 二本。


 三本。


 通路を塞ぐように、金属の管が押し出されてくる。


 その向こう側で、何かが動いた。


 透は息を呑んだ。


 ここに長くいること自体が危険なのだ。


 暑さだけじゃない。


 この場所そのものが、少しずつ変化している。


 そして、その変化は――


 自分を逃がさないためのものにさえ見えた。


「……早く出ないと」


 透は前を向いた。


 走る。


 暑さに耐えながら。


 正体の分からない何かから逃げながら。


 迫ってくるパイプから逃げながら。


 暗い通路の先にある、わずかな光だけを目指して。


 この場所に来て、まだ一日も経っていない。


 それなのに透には分かった。


 ここに二日いることは――


 絶対に避けなければならない。


 ————————————


 透は走っていた。


 もう、どれくらい走ったのか分からない。


 喉が焼けるように熱い。


 息を吸うたびに、熱い空気が肺に入ってくる。


 汗が止まらない。


 それでも、止まるわけにはいかなかった。


 後ろから、金属の擦れる音が聞こえている。


 ギギギギ……。


 ギギ……。


 パイプが動いている。


 一本だけではない。


 何本ものパイプが、通路を埋めるように迫ってきている。


 透は振り返らなかった。


 ただ前を見る。


 暗い通路の先。


 そこに、小さな白いものが見えた。


「……何だ?」


 走りながら目を凝らす。


 壁。


 そして、その壁に取り付けられた――


 扉。


 赤い文字が見えた。


 非常口


「……!」


 透は速度を上げた。


 助かる。


 そう思った。


 その瞬間。


 ――ガンッ!


 横のパイプが大きな音を立てて動いた。


「うわっ!」


 透は身体をひねって避ける。


 目の前を、太い金属管が横切った。


 あと少し遅ければ、ぶつかっていた。


 透はそのまま走る。


 扉まで、あと少し。


 しかし。


 今度は前方から音がした。


 カサ。


 カサカサ。


 透は足を止めそうになった。


 前にもいる。


 何かが。


 パイプの隙間から黒い影が出てきた。


 一つ。


 また一つ。


 形はよく見えない。


 ただ、こちらへ向かっていることだけは分かった。


「……くそっ!」


 透は進路を変えた。


 壁際を走る。


 肩がパイプに当たる。


 熱い。


 皮膚が焼けるような感覚がした。


 それでも走る。


 非常口が近づく。


 赤い文字がはっきり見える。


 扉の向こうから――


 音が聞こえた。


 最初は、何かが動いている音だと思った。


 しかし、違う。


 もっと大きい。


 激しい。


 複数の機械が一斉に動いているような音。


 ――ゴガガガガガガガッ!


 ――ウィィィィィン!


 ――ガン! ガン! ガン!


 透は扉の前で立ち止まった。


「……何だよ、これ」


 非常口の向こうから、ものすごい機械音が響いている。


 扉そのものが震えている。


 取っ手も、小さく揺れていた。


 普通なら、開けるのをためらう。


 でも。


 背後から、パイプの音が近づいている。


 ギギギギ……。


 カサカサ……。


 逃げ道は、ここしかない。


 透は取っ手に手をかけた。


 熱い。


 それでも握る。


「……行くしかない」


 透は扉を押した。


 ギィィィ……。


 扉が開く。


 その瞬間。


 凄まじい機械音が一気に押し寄せてきた。


 ――ゴォォォォォン!!


「っ……!」


 透は思わず耳を塞いだ。


 扉の向こうには、暗い空間が広がっている。


 何か巨大な機械が動いている。


 無数の金属音。


 回転する音。


 何かを叩くような音。


 それらが重なり合って、まともに考えることすら難しいほどの轟音になっていた。


 透は一歩、足を踏み入れた。


 その瞬間。


 背後で――


 ガンッ!


 非常口の扉が大きく揺れた。


 透は振り返る。


 扉の向こう側から、何かがぶつかったようだった。


 もう一度。


 ガンッ!


 扉が震える。


 透はすぐに扉を閉めた。


 バタンッ。


 外の音が少し遠くなる。


 けれど。


 中の機械音は、さらに大きかった。


 透は暗闇の中で立ち尽くした。


 耳鳴りがする。


 何も聞き取れない。


 何があるのかも分からない。


 ただ一つだけ分かった。


 ここは、さっきまでいた場所ではない。


 透は暗闇の奥を見つめた。


 そして。


 ゆっくりと歩き始めた。



 第四章 Electrical Station



 透は暗い通路を進んでいた。


 ゴウン……。


 ゴウン……。


 機械の音が、ずっと響いている。


 最初は広かった。


 天井も高く、左右には大きな機械が並んでいた。


 けれど。


 しばらく進むと、少しずつ様子が変わってきた。


 天井が低い。


 透は顔を上げた。


 さっきまで頭上にあった空間が、いつの間にかなくなっている。


「……狭くなってる?」


 気のせいではなかった。


 進むほど、天井が低くなっている。


 透は少し背を曲げた。


 さらに進む。


 今度は、頭上を太い配線が横切っていた。


 黒いケーブル。


 赤いケーブル。


 黄色いケーブル。


 束になった配線が、天井から垂れ下がっている。


 ところどころ、被覆が剥がれている。


 中の金属が露出していた。


 ――ジジジ……。


 微かな電気音がする。


 透は配線に触れないよう、身体を壁に寄せた。


 天井はさらに低くなった。


 もう、普通に立って歩くのが難しい。


 透は身体を屈めた。


 ケーブルの隙間を抜ける。


 そのとき。


 ――バチッ!


「っ!」


 目の前で火花が散った。


 透は反射的に後ろへ下がった。


 配線の一本が激しく震えている。


 火花はすぐに消えた。


 しかし、透の心臓はしばらく落ち着かなかった。


「……早く抜けよう」


 透は先へ進んだ。


 しばらくして、ようやく少し広い場所に出た。


 そこには扉があった。


 金属製の扉。


 その横に、小さな操作盤がある。


 透は近づいた。


 ボタンを押す。


 ――ピッ。


 扉が開いた。


「……」


 透は中を覗く。


 狭い部屋だった。


 何もない。


 ただ、反対側にも扉がある。


 ここを抜ければ、先へ進めそうだった。


 透は中へ入った。


 そして。


 背後で――


 ガチャン。


「……?」


 振り返る。


 扉が閉まっていた。


「おい……」


 透は扉に近づいた。


 取っ手を掴む。


 引く。


 開かない。


「……え?」


 もう一度。


 今度は強く引く。


 ガチャガチャ。


 開かない。


 透の表情が変わった。


「ちょっと待て」


 操作盤を見る。


 さっきまで点いていたランプが消えている。


 扉の横には、小さな表示。


 LOCKED


「……嘘だろ」


 透は何度も取っ手を動かした。


 開かない。


 スマートフォンを取り出す。


 もちろん圏外。


 時計だけが進んでいる。


 狭い。


 天井が低い。


 空気がこもっている。


 透は壁に手をついた。


「落ち着け……」


 自分に言い聞かせる。


 こういう場所では、焦ったら終わる。


 そう思った。


 そのとき。


 ――カツ。


 音がした。


 透は動きを止めた。


 扉の向こうではない。


 部屋の中。


 背後。


 透はゆっくり振り返った。


 誰もいない。


「……」


 気のせいだ。


 そう思った。


 ――カツ。


 また聞こえた。


 今度は、はっきり聞こえた。


 人間の足音に似ている。


 透はゆっくり後ずさった。


 狭い部屋の奥。


 暗闇の中に何かが立っていた。


「……誰?」


 返事はない。


 人の形をしている。


 頭。


 肩。


 腕。


 脚。


 遠くから見れば、人間そのものだった。


 透は息を止めた。


「……人?」


 その影は動かない。


 透は一歩だけ近づいた。


「聞こえますか?」


 返事はない。


 ただ、こちらを向いている。


 顔は暗くて見えない。


 透はさらに一歩下がった。


 その瞬間。


 人影が動いた。


 一歩。


 ――カツ。


 透の背中が扉に当たった。


「……!」


 もう一歩。


 ――カツ。


 近づいてくる。


 歩き方は、人間と変わらない。


 それなのに。


 透には分かった。


 これは人間じゃない。


 影の顔が、少しだけ見えた。


 目があるように見える。


 けれど、その位置がおかしい。


 透は息を呑んだ。


 人影が、もう一歩近づいた。


 ――カツ。


 透は扉を叩いた。


「誰か!」


 返事はない。


「誰かいないのか!」


 人影は止まらない。


 ――カツ。


 ――カツ。


 透は必死に扉を動かした。


 ガチャガチャガチャ。


「開け!」


 そのとき。


 突然。


 扉のロックが外れた。


 ――カチッ。


「……!」


 透は一瞬も迷わなかった。


 扉を開け、通路へ飛び出す。


 振り返る。


 人影が扉の中に立っている。


 追ってくる。


 そう思った。


 しかし。


 人影は動かなかった。


 ただ、暗い部屋の中から透を見ている。


 扉がゆっくり閉まる。


 ガチャン。


 その向こうに、人影が消えた。


 透はその場に立ち尽くした。


 息が荒い。


 手が震えている。


 そして。


 ふと頭上を見る。


 天井は、さらに低くなっていた。


 むき出しの配線が、透のすぐ頭上を通っている。


 ジジジジ……。


 透はゆっくり前を向いた。


 この場所は、まだ続いている。


 そして。


 先へ進むほど、狭くなっている。


 透は配線を避けながら、再び歩き始めた。


 ————————————


 透は、低い天井の下を歩き続けていた。


 頭上では、むき出しの配線が揺れている。


 ジジジジ……。


 時々、どこかで火花が散る。


 ――バチッ。


 そのたびに、透は足を止めた。


 ここへ来てから、ずっとそうだった。


 何かが起こる。


 そして、それが終わる前に、また別の何かが起こる。


 天井は低い。


 通路は狭い。


 機械音は止まらない。


 透は何度も後ろを振り返った。


 さっきの人影は、もう見えない。


 けれど。


 安心はできなかった。


 あの部屋で見たものが、人間ではなかったことだけは分かる。


 透は歩く速度を上げた。


 やがて、通路の先に少し明るい場所が見えてきた。


「……?」


 透は目を細めた。


 明かり。


 今までの赤いランプとは違う。


 白い光だった。


 透は慎重に近づく。


 そこだけ、少し広くなっている。


 壁には古びた表示板。


 その下に――


 エレベーターがあった。


「……エレベーター?」


 透は思わず声に出した。


 こんな場所に。


 しかも、普通の建物にあるようなものではない。


 周囲には機械も配線もある。


 それでも、その扉だけは妙にきれいだった。


 透はしばらく動かなかった。


 罠かもしれない。


 そう思った。


 でも。


 ここに残り続ける方が危険だった。


 透は操作盤に近づいた。


 ボタンが一つだけある。


 押す。


 ――ピッ。


 しばらく何も起こらない。


「……動かない?」


 もう一度押そうとした。


 その瞬間。


 ――ゴウン……。


 遠くから機械が動く音がした。


 エレベーターの扉が震える。


 そして。


 ――チン。


 小さな音が鳴った。


 扉が開く。


 中は暗かった。


 けれど、奥には小さな照明が点いている。


 透は中を覗き込んだ。


 何もない。


 鏡もない。


 ボタンも少ない。


 ただ、奥の壁にいくつかの数字が並んでいる。


 透はその数字を見つめた。


 これまでいた場所には、こんなものはなかった。


 ここから先へ行ける。


 そう思った。


 透は一歩、エレベーターに入った。


 扉が閉まり始める。


 その瞬間。


 遠くから――


 カツ。


 足音が聞こえた。


 透は顔を上げた。


 通路の奥。


 暗闇の中に、人影が立っている。


 さっきのものか。


 分からない。


 ただ。


 こちらを見ている。


 扉が閉じる。


 人影が見えなくなる。


 ――ガタン。


 エレベーターが動き始めた。


 透は壁に手をついた。


 身体が少し浮くような感覚。


 上へ行っているのか。


 下へ行っているのか。


 分からない。


 ただ。


 機械音が遠ざかっていく。


 そして。


 今まで聞いたことのない静かな音が、エレベーターの中に響いた。


 ――チン。


 扉が開く。


 透は顔を上げた。


 目の前に広がっていたのは――


 古びたオフィスだった。


 薄暗い廊下。


 並んだ机。


 壁際のロッカー。


 ところどころ消えかけた照明。


 そして。


 奥から、人の声が聞こえた。


「……人?」


 透は立ち尽くした。


 今度の場所には――


 誰かがいる。


 その声は、確かに人間のものだった。



 第五章 The Abandoned Office



 エレベーターの扉が閉じた。


 透はしばらく、その場から動けなかった。


 目の前には、長い廊下が続いている。


 古びたオフィス。


 並んだ机。


 壁際のロッカー。


 消えかけた照明。


 使われなくなった部屋。


 どこを見ても、人が働いていた頃の名残だけが残っている。


 けれど。


 ここには人がいる。


 廊下の奥から、話し声が聞こえていた。


「……誰かいるんですか?」


 透が声をかける。


 少し間があった。


「おい、誰か来たぞ」


 男の声が返ってきた。


 透は声のする方へ歩いた。


 廊下を曲がる。


 そこには、何人かの人が集まっていた。


 机を並べ、その上に水や食料を置いている。


 壁際には毛布。


 いくつもの段ボール箱。


 小さな照明。


 人がここで生活していることが分かる。


「……人だ」


 透が呟く。


 一人の男が近づいてきた。


「一人か?」


「はい」


「どこから来た?」


「配線がいっぱいある場所から……」


 男は少し驚いた顔をした。


「そこから来たのか」


「はい」


「なら、かなり疲れてるだろ」


 男は透に水を渡した。


「まず飲め」


「ありがとうございます」


 透は水を飲んだ。


 冷たい。


 その感覚に、身体の力が少し抜けた。


 男が椅子を指差す。


「座れ」


 透は椅子に腰を下ろした。


 しばらく水を飲みながら、周囲を見ていた。


 ここには、十人ほどの人がいる。


 誰かが食料を整理している。


 別の誰かが机を直している。


 奥では二人が話をしている。


 慌ただしくはない。


 むしろ、落ち着いている。


 透は少し迷ってから、口を開いた。


「……ここって」


「ん?」


「安全なんですか?」


 男は透を見る。


「安全?」


「はい」


 透はこれまでのことを思い出した。


 黄色い部屋。


 暗闇。


 パイプ。


 電気の施設。


 どこへ行っても、何かがいた。


 少し休むことすら怖かった。


「ここでは……襲われたりしないんですか?」


 男は少し考えた。


「少なくとも、俺たちはここで長く暮らしてる」


「長く?」


「ああ」


 男は周囲を見回した。


「この場所は、他のところと比べればかなり安全だ」


 透は少し驚いた。


「本当に?」


「ああ」


 別の女性が会話に入ってきた。


「ここにいる間に、危険なものに襲われたことはほとんどないよ」


「ほとんど……?」


 透が聞き返す。


「完全に安全ってわけじゃない」


 女性は答えた。


「でも、少なくとも外を歩き回るよりはずっと安全」


 男も頷く。


「だから、人が集まってる」


「……なるほど」


 透はもう一度、周囲を見る。


 物資がある。


 水もある。


 食料もある。


 そして、人がいる。


 今までとは明らかに違う。


「ここにずっといる人もいるんですか?」


「ああ」


「帰らないんですか?」


「帰れるなら帰りたいさ」


 男は少し笑った。


「でも、ここで暮らす方を選んだ人もいる」


 透は黙った。


 その言葉を聞いて、少しだけ安心した。


 少なくとも。


 ここなら眠れる。


 ここなら、目を閉じても何かに襲われる心配をしなくていい。


 そう思えた。


「……じゃあ」


 透は恐る恐る尋ねた。


「ここで少し休んでもいいですか?」


「もちろん」


 男は即答した。


「好きなだけ休めばいい」


「ありがとうございます」


 透は深く頭を下げた。


 これまで何度も一人で進んできた。


 初めてだった。


 ここにいていいと言われたのは。


 透は用意された毛布のところへ向かった。


 その途中で、もう一度だけ振り返る。


 人がいる。


 話し声がする。


 誰かが笑っている。


 それだけで、今までとは全く違う場所に感じた。


 透は毛布に横になった。


 スマートフォンを見る。


 圏外。


 けれど、時間は進んでいる。


 透は画面を消した。


「……少しだけ」


 小さく呟く。


 今は、帰ることを考えなくてもいい。


 ここなら。


 少し眠っても大丈夫だ。


 透は目を閉じた。


 久しぶりに。


 何も警戒せずに眠りについた。


 ————————————


 目を覚ますと、周囲から人の声が聞こえていた。


 透はゆっくりと身体を起こした。


 昨日までなら、目を覚ました瞬間に周囲を確認していた。


 何かいないか。


 音はしないか。


 逃げ道はあるか。


 けれど、ここでは違った。


 誰かが朝食を作っている。


 誰かが水を運んでいる。


 誰かが眠そうに欠伸をしている。


 まるで、普通の朝だった。


「おはよう」


 昨日、水をくれた男が声をかけてきた。


「……おはようございます」


「よく眠れたか?」


「はい」


 透は少し考えてから答えた。


「久しぶりに、ちゃんと眠れました」


 男は笑った。


「それならよかった」


 透は立ち上がった。


 そして、周囲を見渡した。


 ここに来てから、初めて落ち着いて周りを見ることができた。


 机。


 ロッカー。


 段ボール。


 食料。


 水。


 毛布。


 ここで暮らしている人たち。


 それぞれが、自分のやることを持っている。


 透は少しだけ、その光景を眺めていた。


 でも。


 帰ることを忘れたわけではない。


 むしろ、ここで休めたことで、ようやく考える余裕ができた。


「……聞きたいことがあるんですけど」


 透が言った。


「なんだ?」


「ここから先のことを、知りたいです」


 男は透を見る。


「帰るつもりか?」


「はい」


 迷いのない返事だった。


「できるだけ早く、元の場所に戻りたいです」


「そうか」


「でも、何も分からなくて」


 透は少し俯いた。


「どこへ行けばいいのかも、どうすればいいのかも」


 男は黙って透の話を聞いていた。


「だから……知ってることがあるなら、教えてほしいです」


「分かった」


 男は近くの椅子を引いた。


「座れ」


 透も向かいに座った。


「まず、俺から言えるのは一つだ」


 男はゆっくり話し始めた。


「ここから先に進めば、また別の場所に出る」


「どんな場所ですか?」


「それは分からない」


「……そうですか」


「俺はそこまで行ったことがないからな」


 透は頷いた。


「じゃあ、他の人にも聞いてみます」


「ああ。その方がいい」


 透は立ち上がった。


 最初に話を聞いたのは、食料を整理していた女性だった。


「この先のこと?」


「はい。何か知っていますか?」


「私はあまり知らないけど……」


 女性は少し考えた。


「昔、ここを出ていった人から聞いた話ならあるよ」


「どんな話ですか?」


「ホテルみたいな場所があるって」


「ホテル?」


「うん」


 女性は頷いた。


「大きなホテルみたいな建物で、ずっと続いてるらしい」


「そこに行った人は?」


「何人かいるよ」


「戻ってきた人は?」


 女性は少し黙った。


「……戻ってきた人もいる」


 透は少し安心した。


「じゃあ、そこを通れば先に進めるんですか?」


「それは分からない」


「そうですか……」


 女性は透を見る。


「でも、気をつけた方がいいって聞いた」


「何に?」


「変なことが起きるって」


 透は黙って聞いた。


「誰もいないのに、背後から何かに囁かれることがあるとか」


「囁き?」


「何を言ってるのか分からないような声らしい」


 女性は肩をすくめた。


「一人でいると、突然肩を叩かれることもあるって」


「……人じゃなくて?」


「振り返っても、誰もいない」


 透は眉を寄せた。


「他には?」


「色のついたガラスの窓があるらしくてね」


「窓?」


「その向こうを、何かの影が横切ることがあるって」


 透は黙った。


 女性は続けた。


「さっきまで置いてあった物が、見ていない間に落ちてたり、動いてたり、なくなってたりすることもあるらしい」


「……かなり怖いですね」


「だから、そこに行くなら一人にならない方がいいって」


 透は頷いた。


「ありがとうございます」


 次に、透は別の男に話を聞いた。


 その男は長い間ここにいるらしかった。


「ホテルについて聞きたいんですけど」


「ああ」


 男はすぐに答えた。


「テラーホテルのことだな」


 その名前を聞いて、透は少しだけ表情を変えた。


「知ってるんですか?」


「名前くらいはな」


「どんな場所なんですか?」


「普通のホテルに見えるらしい」


「普通……?」


「そう。廊下があって、部屋があって、階段やエレベーターがある」


「じゃあ、危険なのは……」


「ホテルそのものというより、そこにいるものだ」


 男はそう言った。


「動く彫像を見たって話がある」


「彫像……」


「他にも、ハウンド」


 透は聞き慣れない名前に黙った。


「それからデスモス」


「それも……危険なものですか?」


「ああ」


 男は頷いた。


「少なくとも、近づかない方がいい」


 透はスマートフォンを取り出した。


 当然、圏外だった。


 それでもメモを開く。


 そして、一つずつ名前を書いた。


 テラーホテル。


 動く彫像。


 ハウンド。


 デスモス。


 その下に、


 一人にならない。


 と書いた。


「……ありがとうございます」


「行くのか?」


「はい」


 透は答えた。


「怖いですけど」


 一度、画面を見る。


「帰りたいので」


 男はしばらく透を見ていた。


 そして、小さく頷いた。


「なら、できるだけ準備してから行け」


「はい」


 透は立ち上がった。


 すぐに出発するつもりはなかった。


 まだ聞いていない人がいる。


 まだ知らないこともある。


 ここで聞けるだけ聞いておきたかった。


 透は次の人へ向かって歩き出した。


 この場所を出る。


 その決意は変わっていない。


 ただ。


 今度は何も知らないまま進むつもりはなかった。


 ————————————


 透は、廃れたオフィスの中を歩いていた。


 ここに来てから、何人もの人に話を聞いた。


 知っていること。


 聞いたこと。


 実際に見たこと。


 それぞれ違った。


 それでも、少しずつ先のことが分かってきた。


 テラーホテル。


 そこを抜けた先にも、まだいくつもの場所があるらしい。


 ただ。


 その先について詳しく知っている人は、ほとんどいなかった。


 透は一つの机の前で足を止めた。


 そこには、一人の男が座っていた。


 年齢は四十代くらいだろうか。


 古い地図のような紙を机の上に広げている。


 透は少し迷ってから声をかけた。


「すみません」


「ん?」


「テラーホテルについて聞きたいんですけど」


 男は顔を上げた。


「……テラーホテル?」


「はい」


 男の表情が少し変わった。


「行くつもりなのか?」


「はい」


「一人で?」


「そのつもりでした」


 男は紙に目を戻した。


「やめた方がいい」


 透は黙った。


「危険だからですか?」


「ああ」


「でも、帰るためには進まないといけないので」


 男はしばらく透を見た。


「帰りたいのか」


「はい」


「……そうか」


 男は椅子を引いた。


「座れ」


 透は向かいに座った。


「俺は、一度そこまで行ったことがある」


「……!」


 透は身を乗り出した。


「本当ですか?」


「ああ」


「どこまで?」


「ホテルの中を通って、その先まで」


 透の目が変わった。


「その先って……」


「少しだけだ」


 男は紙を指で叩いた。


「俺が覚えている範囲なら、話せる」


「お願いします」


 男はゆっくり説明を始めた。


「ホテルに入ると、最初は普通に見える」


「普通のホテル?」


「ああ」


「でも、長くいるとおかしなことが起きる」


 男は指を折りながら話した。


「背後から声がする」


「どんな声ですか?」


「聞き取れない。言葉みたいではあるが、意味が分からない」


 透は黙って聞いている。


「それと、一人でいると肩を叩かれることがある」


「振り返ると?」


「誰もいない」


「……」


「窓の向こうに影が見えることもある」


「色硝子の窓ですか?」


 男が少し驚いた。


「知ってるのか」


「ここで聞きました」


「そうか」


 男は頷いた。


「他にも、物が勝手に動く」


「落ちたり?」


「ああ」


「消えたりも?」


「ある」


 透はメモを取った。


 そして、最後に聞いた。


「そこにいるものについては?」


 男は少し黙った。


「彫像」


「動くんですよね」


「ああ」


「ハウンドとデスモスも?」


「見た」


 短い返事だった。


「……怖かったですか?」


 男は少し考えた。


「怖くないわけがない」


 透は黙った。


 男は紙を折りたたんだ。


「でも、一番怖いのは」


「……?」


「何がいるか分からないことだ」


 透はその言葉を聞いて、少しだけ俯いた。


 これまで何度も経験してきた。


 音だけ。


 気配だけ。


 暗闇の中の何か。


 姿が分からないものほど、怖かった。


「じゃあ」


 透は顔を上げた。


「一緒に行ってもらえませんか?」


 男が透を見る。


「……俺と?」


「はい」


「俺は帰れなかった」


「でも、行ったことがある」


 透は言った。


「僕は何も知らない」


 少し間を置いて。


「だから、知っている人と一緒に行きたいです」


 男はすぐには答えなかった。


 しばらく机の上の紙を見ていた。


「……名前は?」


「白石透です」


「俺は佐伯」


 それだけ言って、男は立ち上がった。


「準備する」


「……!」


「ただし」


 佐伯は透を見る。


「無理だと思ったら、俺は戻る」


「分かりました」


「お前も無理するな」


「はい」


 透は頷いた。


 初めてだった。


 この場所に来てから、ずっと一人だった。


 助けてもらったことはあっても、一緒に進む人はいなかった。


 佐伯は、透より先を知っている。


 そして。


 透は帰る理由を持っている。


 互いに足りないものを補えるかもしれなかった。


「いつ出ますか?」


「明日」


「明日……」


「ああ」


 佐伯は机の上を片付け始めた。


「今日は準備する」


 透も立ち上がった。


「僕も手伝います」


「頼む」


 二人は並んで歩き始めた。


 廃れたオフィスの中。


 人の話し声。


 小さな笑い声。


 その中を、二人の足音が重なっていく。


 ————————————


 出発は、明日の朝に決まった。


 透と佐伯は、必要なものを集めていた。


 水。


 食料。


 簡単な応急処置用品。


 それから、使えそうなライト。


 ここでは、当たり前のものが貴重だった。


 透は水の入った袋を確認しながら、佐伯に声をかけた。


「佐伯さん」


「ん?」


「テラーホテルの、その先って……何があるんですか?」


 佐伯は少し考えた。


「詳しくは知らない」


「一度行ったんですよね?」


「ああ。でも、全部を見たわけじゃない」


「そうですか」


 透は頷いた。


 しばらく、二人とも黙って作業を続けた。


 段ボールを開ける音。


 袋を動かす音。


 遠くから聞こえる話し声。


 そんな音だけが続いていた。


 ふと、佐伯が口を開いた。


「白石」


「はい?」


「お前、家族はいるのか?」


 透の手が止まった。


「……家族ですか?」


「ああ」


「います」


 透は少し笑った。


「妻と、娘が一人」


「娘か」


「はい」


「何歳?」


「まだ小さいです」


 透はスマートフォンを取り出した。


 圏外の画面を見つめる。


「最後に見たのは……昨日の朝でした」


「そうか」


「いつもなら、仕事から帰ったら娘が寝る前に少し話すんです」


 透は小さく笑った。


「昨日も、普通に帰るつもりだったんですけどね」


「……そうだな」


 佐伯はそれ以上聞かなかった。


 しばらく沈黙が続く。


 そして。


「俺にもいたよ」


 佐伯が言った。


 透が顔を上げる。


「家族?」


「ああ」


 佐伯は少し笑った。


「妻と、息子がいた」


「息子さん……」


「もう大きかったけどな」


 佐伯は段ボールを閉じた。


「家族とは、よく一緒に飯を食った」


「いいですね」


「ああ」


 それだけ言うと、佐伯は少し黙った。


「……でも」


 佐伯の声が少し低くなる。


「もう、俺しかいない」


 透は何も言えなかった。


 佐伯は俯いたまま、袋の中身を確認している。


「ここに来てから、どれくらい経ったんですか?」


「分からない」


「そうですか」


「最初は、帰ることしか考えてなかった」


 佐伯は小さく笑った。


「今も帰りたいけどな」


「……」


「ただ、時間が経つと、何のために帰るのか分からなくなる」


 透は佐伯を見る。


「でも、お前は違う」


「……はい」


「待ってる人がいるんだろ」


 透は頷いた。


「はい」


 佐伯はそれ以上何も言わなかった。


 しばらくして、透が口を開く。


「明日、一緒に行きましょう」


「……ああ」


「テラーホテルまで」


「分かった」


 佐伯は荷物をまとめた。


「ただ、無理だと思ったら戻るぞ」


「はい」


「お前も無理するな」


「分かってます」


 透は頷いた。


 その夜。


 二人は同じ場所で眠った。


 明日の朝。


 ここを出る。


 そして、テラーホテルへ向かう。


 それだけを確認して。


⸻


 翌朝。


 透は目を覚ました。


 いつものように圏外のスマートフォンを確認する。


 時間だけが進んでいる。


 佐伯はすでに起きていた。


「おはようございます」


「ああ。おはよう」


 二人は黙々と準備をした。


 水。


 食料。


 ライト。


 必要なものを一つずつ確認する。


 最後に、透は廃オフィスを見渡した。


 ここへ来てから、いろいろな人に助けてもらった。


 水をもらった。


 食事を分けてもらった。


 話を聞かせてもらった。


 そして。


 今は、一緒に進んでくれる人がいる。


「行くか」


 佐伯が言った。


「はい」


 二人は歩き出した。


 後ろから声が聞こえる。


「気をつけろよ」


「また戻ってこいよ」


 透は振り返った。


「ありがとうございました」


 そう言って、頭を下げる。


 佐伯も軽く手を上げた。


 二人は廃オフィスを出た。


 しばらく、何も話さずに歩いた。


 コンクリートの通路。


 低い照明。


 時折聞こえる、遠くの機械音。


 やがて。


 前方に、見慣れない明かりが見えてきた。


 黄色い光。


 その奥には、大きな建物のようなものがある。


 透は足を止めた。


「……あれですか?」


 佐伯も立ち止まる。


「ああ」


 透は目を凝らした。


 遠くからでも分かる。


 ホテルだった。


 大きな建物。


 長く続く窓。


 入口へ続く道。


 そして。


 どこか不自然な静けさ。


 透は無意識に荷物の紐を握り直した。


「……ここが」


「テラーホテルだ」


 佐伯が答えた。


 二人はしばらく、その建物を見つめていた。


 透は深く息を吸った。


 そして。


 一歩、前へ進んだ。



 第六章 Terror Hotel



 目の前に、ホテルがあった。


 大きい。


 けれど、豪華というわけではない。


 古びた外壁。


 いくつも並んだ窓。


 入口の上には、薄暗い照明が一つだけ点いている。


 それ以外は、ほとんど明かりがなかった。


 透は立ち止まった。


「……本当にホテルなんですね」


「ああ」


 佐伯が答える。


「中に入れば、もっとホテルらしく見える」


「行ったことがあるんですよね」


「一度だけな」


 佐伯は入口を見る。


「ただし、普通のホテルだと思わない方がいい」


「分かってます」


 透はそう答えた。


 けれど。


 自分の声が、少し震えているのが分かった。


 佐伯が先に歩き出す。


「行くぞ」


「はい」


 二人は入口へ向かった。


 大きな扉を開ける。


 ――ギィィ……。


 古い音が響いた。


 中は静かだった。


 広いロビー。


 受付。


 ソファ。


 壁に掛けられた時計。


 そして、天井から吊り下がった照明。


 どこから見ても、ホテルだった。


「……本当に普通ですね」


「最初はな」


 佐伯が答えた。


 二人はロビーを進んだ。


 床には赤い絨毯が敷かれている。


 壁には絵画。


 その隣には、色のついたガラスがはめ込まれた窓。


 赤。


 青。


 緑。


 黄色。


 外の光がガラスを通って、床に奇妙な色を落としている。


 透は足を止めた。


「きれいですね」


「ああ」


 佐伯も窓を見る。


 そのとき。


 色硝子の向こうを。


 何かが横切った。


 黒い影。


 一瞬だった。


「……今」


 透が振り返る。


「どうした?」


「誰か、外を通りませんでした?」


 佐伯は窓を見る。


「……見てない」


 透は窓へ近づいた。


 外には何もない。


 ただ、暗闇が広がっている。


「気のせいか……」


「そうかもしれない」


 佐伯は歩き出した。


「気にしすぎるな」


 透も続いた。


 ロビーの奥には長い廊下があった。


 二人はその廊下を歩く。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 二人の足音だけが響く。


 しばらくして。


「……佐伯さん」


「なんだ?」


「何か聞こえませんか?」


 佐伯が足を止める。


「何が?」


 透も止まった。


 耳を澄ます。


 ――何か言っている。


 小さな声。


 背後から。


「……い……」


「……?」


 透は振り返った。


 誰もいない。


「今、声が……」


 その瞬間。


 耳元で。


「――帰……れ……」


 透の身体が跳ねた。


「っ!」


 反射的に前へ飛び退く。


 佐伯が振り返った。


「どうした!」


「今……後ろから……」


「何が?」


「声がしました」


「何て?」


 透は答えられなかった。


 聞き取れなかった。


 ただ。


 人間の声だった。


 それなのに、言葉として理解できなかった。


 透は背後を見る。


 誰もいない。


 廊下だけが続いている。


「……行きましょう」


「ああ」


 二人は歩き始めた。


 少し進んだところで。


 ――カタン。


 何かが落ちた。


 二人が振り返る。


 廊下の端に置かれていた小さな花瓶が、床に転がっていた。


「……さっき、あれ置いてありましたよね?」


 透が言う。


「ああ」


 佐伯も答えた。


 二人は顔を見合わせる。


 誰も触れていない。


 それなのに。


 花瓶だけが床に落ちていた。


 佐伯は近づかなかった。


「そのままにしておけ」


「はい」


 二人は歩き出した。


 さらに奥へ。


 ホテルの廊下は、どこまでも続いている。


 角を曲がる。


 また廊下。


 左右に扉が並んでいる。


 その一つ。


 ――カチャ。


 突然、扉の取っ手が動いた。


 透と佐伯が同時に止まった。


 ゆっくり。


 取っ手が下がる。


 そして。


 扉が少しだけ開いた。


 中は暗い。


「……誰かいるんでしょうか」


「行くな」


 佐伯が透の腕を掴んだ。


「でも……」


「ここでは、気になるもの全部を確認する必要はない」


 佐伯は扉から目を離さなかった。


「見なかったことにしろ」


 透は頷いた。


 二人は扉の前を通り過ぎた。


 その瞬間。


 透の肩に。


 ――トン。


 何かが触れた。


「……!」


 透は振り返った。


 誰もいない。


 佐伯も振り返る。


「どうした?」


「肩を……」


 透は自分の肩を触った。


「誰かに叩かれました」


 佐伯の顔が険しくなる。


「……始まったな」


「何がですか?」


「ここに来た人間が、一番最初に気づくやつだ」


 佐伯は前を向いた。


「気配がする」


 透も前を見る。


 長い廊下。


 誰もいない。


 それなのに。


 今度は二人とも感じていた。


 誰かが。


 後ろからついてきている。


 足音はない。


 姿もない。


 ただ。


 確かに。


 二人の後ろに、何かがいる。


 透は振り返らなかった。


 佐伯も振り返らない。


 二人はそのまま歩き続けた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 そして。


 少し後ろから。


 ――コツ。


 一つ。


 足音が重なった。


 ————————————


 ――コツ。


 後ろから聞こえた足音が止まった。


 透は振り返らなかった。


 佐伯も同じだった。


「……いるな」


 佐伯が小さな声で言った。


「はい」


「でも、今は見るな」


「どうしてですか?」


「分からない方がいい」


 透は黙って歩いた。


 廊下の両側には、いくつもの扉が並んでいる。


 その先に。


 何かがいる。


 そんな感覚だけが続いていた。


 やがて、廊下の先が少し開けた場所に出た。


 そこには、大きな彫像が置かれていた。


 人間の姿をしている。


 古びた石のような表面。


 両腕は身体の横に下ろされている。


 顔は正面を向いている。


「……」


 透は足を止めた。


「佐伯さん」


「ああ」


「これ……」


「動く」


 佐伯は即答した。


「本当に?」


「ああ」


 佐伯は彫像から目を離さなかった。


「目を離すな」


「……でも、どうやって?」


「二人ならできる」


 佐伯が透を見る。


「俺がこいつを見る」


「はい」


「お前は周りを見る」


「周りを?」


「別のものがいないか確認しろ」


 透は頷いた。


 佐伯は彫像を見つめたまま、ゆっくり後ろへ下がった。


「俺が合図したら交代する」


「分かりました」


 透も彫像から目を離さないようにしながら、周囲を確認した。


 何もいない。


 廊下だけ。


 そのとき。


 佐伯が言った。


「交代」


 透が彫像を見つめる。


 佐伯が周囲を見る。


 そして。


 透は違和感に気づいた。


「……佐伯さん」


「なんだ?」


「今、少し近くなってませんか?」


 佐伯が振り返る。


「……本当だな」


 さっきまで彫像との距離は、もっとあった。


 ほんの少し。


 だが。


 確実に近づいている。


「目を離してないのに……」


「歩いてるのかもしれない」


「でも、今――」


 透は言葉を止めた。


 彫像の足元を見た。


 床に、薄く傷がついている。


 引きずったような跡。


「……動いてます」


「やっぱりな」


 佐伯は冷静だった。


「近づかれる前に抜けるぞ」


「どうやって?」


「交代しながら後ろへ下がる」


 二人はゆっくり後退した。


 佐伯が彫像を見る。


 透が周囲を見る。


「交代」


 透が彫像を見る。


 佐伯が後ろを見る。


「交代」


 佐伯が彫像を見る。


 透が後ろを見る。


 少しずつ。


 少しずつ。


 二人は出口へ近づいていく。


 彫像は動かない。


 少なくとも、目を向けている間は。


「あと少しです」


 透が言った。


「分かってる」


 出口まで、あと数メートル。


 そのときだった。


 廊下の奥から。


 別の音が聞こえた。


 ――ガタン。


 二人が同時にそちらを見る。


 その瞬間。


 佐伯が叫んだ。


「見るな!」


 透が彫像へ視線を戻す。


 ――そこにいた。


 さっきより近い。


「……!」


「走るぞ!」


 二人は一斉に走った。


 透が彫像を見る。


 佐伯が扉を見る。


「開け!」


「今!」


 佐伯が扉を開ける。


 二人は中へ飛び込んだ。


 そして、すぐに扉を閉めた。


 ――バタン。


 透は息を切らしながら壁にもたれた。


「……大丈夫ですか?」


「ああ」


 佐伯も息を整える。


「二人だったから抜けられた」


「一人だったら……」


「ずっと見てるしかない」


 佐伯はそう言った。


「だから、ここでは一人にならない方がいい」


 透は頷いた。


 そのとき。


 廊下の向こうから。


 ――コン。


 扉を叩く音がした。


 二人は黙った。


 もう一度。


 ――コン。


 透は佐伯を見る。


 佐伯は扉を見つめている。


「……あれ、入ってきますか?」


「分からない」


 佐伯は答えた。


「でも、今は開けるな」


 しばらく待つ。


 音はしなくなった。


 透はようやく息を吐いた。


「行きましょう」


「ああ」


 二人は扉の反対側へ進んだ。


 そこには、別の廊下が続いていた。


 さっきまでとは違う。


 照明が少ない。


 壁には色硝子の窓が並んでいる。


 透は窓の向こうを見る。


 何もない。


 そう思った。


 その瞬間。


 赤いガラスの向こうを。


 人影が横切った。


 透は立ち止まった。


「……佐伯さん」


「見るな」


「でも――」


「見るな」


 佐伯は透の腕を引いた。


 二人はそのまま歩き続けた。


 背後から。


 何かが歩いてくるような気配がする。


 けれど。


 今度は、二人とも振り返らなかった。


 ホテルの奥へ。


 さらに奥へ。


 二人は進んでいった。


 ————————————


 廊下の奥から、低い音が聞こえていた。


 ゴウン……。


 ゴウン……。


 一定の間隔で響く、重たい機械音。


 透は足を止めた。


「……何の音だ?」


 佐伯も耳を澄ませる。


「分からない。でも、こっちから聞こえてる」


 二人は音のする方へ進んだ。


 ホテルの廊下は、さっきまでよりも古びていた。


 壁紙は剥がれかけ、床には細かな埃が積もっている。


 照明も少なくなっていた。


 ゴウン……。


 また音が響く。


 そのたびに、床がわずかに震えているように感じた。


「この先に何かある」


 佐伯が呟いた。


 二人は慎重に進んでいく。


 途中、廊下に置かれていた小さな台が倒れていた。


 さっきまで何もなかったはずなのに。


 透が振り返る。


 誰もいない。


「……またか」


「見るな。行くぞ」


 佐伯に促され、透は前を向いた。


 やがて、廊下の突き当たりに一枚の鉄製の扉が現れた。


 扉には古びた文字が書かれている。


 ――BOILER ROOM。


「ボイラー室……」


 透が読む。


 佐伯が扉に手をかけた。


「ここから先は、何がいるか分からない」


「……戻る?」


「いや」


 佐伯は首を横に振った。


「先に進むなら、ここを通るしかない」


 扉が開く。


 熱気が一気に押し寄せてきた。


「暑っ……!」


 透は思わず顔をしかめた。


 中は広い空間になっていた。


 巨大なボイラーがいくつも並んでいる。


 太い配管が天井や壁を這い、いたるところから蒸気が漏れていた。


 ゴウン……。


 さっきまで聞こえていた音が、ここでは何倍にも大きく聞こえる。


 佐伯が周囲を見回した。


「出口を探すぞ」


 二人はボイラーの間を進んだ。


 熱気で息が苦しい。


 床には水が溜まり、足元が滑る。


 透が一歩進んだ、その時だった。


 ゴンッ。


 背後から大きな音がした。


 二人が振り返る。


 さっき入ってきた扉が閉まっていた。


「……閉まった?」


 透が近づこうとする。


「待て!」


 佐伯が叫んだ。


 次の瞬間。


 巨大なボイラー室の一つが、突然激しく揺れた。


 ゴウン……。


 ゴウン……。


 音が変わった。


 機械が動いている。


 そう思った瞬間。


 ボイラーから伸びた太い配管が、勢いよく二人の方へ振り下ろされた。


「走れ!」


 二人は左右に分かれて逃げた。


 配管が床を叩く。


 轟音が響き、蒸気が一気に噴き出した。


「何なんだよ、これ……!」


 透が叫ぶ。


 顔の付いたボイラーが動いていた。


 巨大な機械の一部が、不自然に持ち上がる。


 まるで意思を持っているかのように。


「透!」


 佐伯が叫ぶ。


 透が振り返る。


 目の前に、太い配管が迫っていた。


 避ける時間がない。


 佐伯が走ってきた。


「伏せろ!」


 佐伯が透を突き飛ばした。


 直後、配管が二人の間を叩きつける。


「佐伯!」


 透が起き上がる。


 蒸気の向こうに佐伯の姿が見えた。


「……大丈夫だ!」


 佐伯は立ち上がろうとしていた。


 しかし、すぐ後ろでボイラーが大きく動く。


 もう一度、配管が持ち上がった。


「逃げろ!」


「でも!」


「早く!」


 佐伯が叫んだ。


「出口を探せ!」


 透は動けなかった。


「佐伯を置いていけない!」


「お前、家族がいるんだろ!」


 その言葉に、透の動きが止まった。


「……行けよ!」


 佐伯はボイラーを睨みながら叫ぶ。


「お前には帰る場所がある!」


 透の頭に、妻の顔が浮かんだ。


 娘の顔が浮かんだ。


 昨日の朝。


 家を出る時に見た、いつもの光景。


 あの時は、また帰ってくるのが当たり前だと思っていた。


「佐伯……!」


「行け!」


 佐伯が叫ぶ。


「俺が時間を稼ぐ!」


 透は歯を食いしばった。


 そして、走った。


 ボイラーの間を抜ける。


 蒸気の向こうに、扉が見えた。


 透は扉に飛びついた。


 後ろから、激しい機械音が響く。


 ゴウンッ!


「佐伯!」


 一度だけ振り返る。


 白い蒸気の中で、佐伯がボイラーの前に立っていた。


 透を逃がすために。


「……行け!」


 その声を最後に、透は扉を開けた。


 中へ飛び込む。


 扉が閉まる。


 その瞬間。


 すべての音が消えた。


 静かだった。


 透は息を切らしながら、周囲を見回した。


 そこには、さっきまでのホテルの廊下はなかった。


 何も見えない。


 暗闇だった。


 完全な暗闇。


 透は一歩だけ前へ進んだ。


 足元すら見えない。


 どこまでも続く黒。


 透は小さく息を吐いた。


「……ここは……?」


 遠くで、何かが動いたような気がした。


 暗闇の中で。


 透は一人だった。


 そして、ここから先には――


 光がなかった。



 第七章 Lights Out



 何も見えない。


 透はその場に立ち尽くしていた。


 目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。


「……何も、見えない」


 手を前に伸ばす。


 何もない。


 ポケットを探ると、スマートフォンに触れた。


 画面を点ける。


 小さな光が広がった。


 それだけで、周囲の景色が少しだけ見えるようになった。


 金属製の壁。


 複雑に入り組んだパイプ。


 足元にはレンガ造りの床。


 ホテルとは全く違う場所だった。


 透はスマートフォンのライトを前に向けた。


 狭い通路が続いている。


「……ライトがないと、何も見えないのか」


 透はゆっくり歩き始めた。


 足音が響く。


 カツ。


 カツ。


 カツ。


 周囲のパイプから、時々小さな音がする。


 カン。


 ……カン。


 透はそのたびに足を止めた。


 何かいる。


 そう思ってしまう。


 けれど、ライトを向けても何もいない。


「……気のせいか」


 そう呟いた。


 その時だった。


「……透」


 後ろから声がした。


 透の足が止まった。


 聞き覚えのある声。


「……佐伯?」


 ゆっくり振り返る。


 ライトを向ける。


 誰もいない。


「……」


 透は何も言わず、前を向いた。


 また歩き始める。


 カツ。


 カツ。


 カツ。


「……透」


 また聞こえた。


 今度は、すぐ後ろだった。


 透は勢いよく振り返った。


「佐伯!」


 ライトが暗闇を照らす。


 誰もいない。


 呼吸が荒くなる。


「……違う」


 透は自分に言い聞かせた。


「佐伯は……」


 そこで言葉が止まった。


 置いてきた。


 自分が先に逃げた。


 佐伯を残して。


「……ごめん」


 小さく呟く。


 すると。


「ごめんじゃねえだろ」


 声がした。


 今度ははっきり聞こえた。


 佐伯の声だった。


「……!」


 透は振り返る。


 暗闇の奥に、人影が立っている。


 ライトを向ける。


 佐伯だった。


「……佐伯?」


 透は一歩近づいた。


 しかし、佐伯は動かない。


「俺を置いていったよな」


「違う……」


「俺を置いて逃げた」


「違う!」


 透は叫んだ。


「お前が行けって言ったんだ!」


 佐伯は答えない。


 ただ、こちらを見ている。


「お前だけ帰るのか?」


「……」


「俺を置いて?」


「違う……」


 透は耳を塞いだ。


「違う……違う……」


 それでも声は聞こえてくる。


「お前には家族がいるんだろ」


「帰る場所があるんだろ」


「じゃあ、俺は?」


「俺はどうなる?」


「家族が居なかったら死ねばいいのか?」


「……やめろ」


 透はその場にしゃがみ込んだ。


「やめてくれ……」


 声が重なる。


 右から。


 左から。


 後ろから。


 まるで何人もの佐伯が話しているようだった。


「見捨てた」


「逃げた」


「お前だけ帰る」


「俺を置いて」


「やめろ!」


 透は叫んだ。


 ライトを床に落とした。


 光が横倒しになり、レンガの床を照らす。


 その先に、誰かの足が見えた。


 透は息を止めた。


 ゆっくり顔を上げる。


 佐伯が立っている。


「……佐伯」


 その顔は見えない。


 暗闇に半分隠れている。


「どうして置いていった?」


「……」


「どうして俺を助けなかった?」


「違う……」


「お前は逃げただけだ」


「違う!」


 透は頭を抱えた。


「佐伯は……俺を逃がしてくれたんだ……」


「本当に?」


 声が響く。


「本当にそう思ってるのか?」


 透は答えられなかった。


 頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 目の前にいるのは本当に佐伯なのか。


 それとも、自分が作り出したものなのか。


 分からない。


 どこまでが現実なのかも分からない。


「……帰らなきゃ」


 透は震える手でスマートフォンを拾った。


 ライトを前に向ける。


 そこには誰もいなかった。


 佐伯も。


 人影も。


 何もない。


「……」


 透はその場から動けなくなった。


 静寂の中。


 今度は、遠くから声が聞こえた。


「……透」


 また佐伯だった。


 透は耳を塞ぐ。


「聞こえない……」


「透」


「聞こえない……!」


「お前は俺を見捨てた」


「やめろ!」


「俺はもう――」


「やめろ!」


 透は叫び続けた。


 暗闇の中で。


 誰もいない場所で。


 自分の罪悪感に追い詰められるように。


 ライトの明かりが、震えている。


 そして透は気づかなかった。


 ずっと遠くから。


 別の足音が近づいてきていることに。


 カツ。


 カツ。


 カツ。


 その足音は、少しずつ大きくなっていた。


 ————————————


 カツ。


 カツ。


 カツ。


 足音が近づいてくる。


 透は耳を塞いだ。


「……来るな」


 足音は止まらない。


 暗闇の中から、誰かが近づいてくる。


「佐伯じゃない……」


 そう言い聞かせる。


「佐伯は……もういない」


 けれど。


「……透」


 また声がした。


 透は頭を抱えた。


「やめろ……」


「透」


「もう聞きたくない……」


「俺を置いていったよな」


「違う……!」


 透は叫んだ。


「お前が行けって言ったんだ!」


 声が返ってくる。


「それでも、お前は俺を置いていった」


「違う……」


 何度否定しても、声は消えない。


 透はその場にしゃがみ込んだ。


「……ごめん」


 涙が滲んだ。


「ごめん……佐伯……」


 その時。


「……透」


 今度の声は、すぐ近くから聞こえた。


 透は顔を上げた。


 ライトが暗闇を照らす。


 そこに、人影があった。


「……佐伯?」


 人影がゆっくり近づいてくる。


 透は立ち上がった。


「佐伯……!」


 しかし、相手は返事をしない。


 透がライトを向ける。


 そこにいたのは――


 傷だらけの佐伯だった。


「……本物?」


 佐伯は苦しそうに笑った。


「たぶん、本物だ」


「……生きてた……」


 透は力が抜け、その場に座り込んだ。


「よかった……」


「お前も無事だったか」


 佐伯が壁に手をつく。


 その瞬間、身体が大きく揺れた。


「佐伯!」


 透が支える。


「大丈夫……じゃないだろ」


「まあな」


 佐伯の服は汚れ、身体にはいくつもの傷があった。


 歩くのも辛そうだった。


「ボイラー室で……何があったの?」


「何とか抜けた」


 佐伯は息を整えながら答える。


「でも、こっちに来てからずっとこんな状態だ」


 透は佐伯の傷を見る。


「手当しないと」


「いい」


 佐伯が首を振った。


「この場所には、エンティティはいないみたいだ」


「だから?」


「だから、お前一人で先に行け」


 透は黙った。


「俺を置いていけ」


「……嫌だ」


「透」


「嫌だ」


 透は即答した。


「また置いていくなんて、絶対にしない」


 佐伯が透を見る。


「でも、お前は家族が――」


「分かってる」


 透は佐伯の言葉を遮った。


「帰らなきゃいけない」


 透はスマートフォンのライトを足元に向けた。


「だからこそ、一緒に行く」


 佐伯はしばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑った。


「……そうか」


「うん」


「じゃあ……」


 佐伯は少しだけ顔を上げた。


「一緒に帰れたら、飲みにでも行こうぜ」


 透は一瞬、驚いた。


 こんな場所で。


 そんな普通の約束をすることが、少しだけおかしく感じた。


 でも。


「……いいね」


 透は笑った。


「俺、こういうところから帰ったら、めちゃくちゃ飲みたい」


「俺もだ」


 二人は小さく笑った。


 それだけで。


 暗闇の中に、ほんの少しだけ現実の空気が戻ってきた気がした。


 透はバッグの中を探した。


 廃オフィスでもらった布と、水。


 簡単な応急手当ができそうなものを取り出す。


「何してる?」


「手当する」


「無駄だ」


「無駄でもやる」


 透は佐伯の傷をできる範囲で手当していく。


 佐伯は何も言わなかった。


 しばらくして、透が顔を上げる。


「これで少しは歩ける?」


「……ああ」


 佐伯はゆっくり立ち上がった。


「悪いな」


「いいよ」


 透はライトを前に向けた。


「行こう」


 二人は再び歩き始めた。


 暗闇の中。


 透は何度も後ろを振り返った。


 もう、佐伯の姿が消えていないことを確かめるために。


 しばらく進むと。


 遠くから、かすかな音が聞こえてきた。


 ザア……。


 ザア……。


 透が足を止める。


「……何の音?」


 佐伯も耳を澄ませた。


「水……か?」


 音は少しずつ大きくなる。


 暗闇の先に、青白い光が見えた。


 二人はそこへ向かって歩いた。


 そして。


 扉を開けた。


 冷たい風が吹き込んでくる。


 その向こうに広がっていたのは――


 どこまでも続く、水。


 暗い海だった。


「……海?」


 透が呟く。


 水面は静かに揺れている。


 ザア……。


 ザア……。


 ライトを向けても、海の先は見えない。


 水の底も見えない。


 佐伯が海を見つめる。


「……ここから先か」


 透は黙って頷いた。


 二人は並んで、暗い海を見つめていた。


 その場所には。


 まだ、何も見えなかった。


 ただ。


 深すぎる海だけが、二人の前に広がっていた。



 第八章 Thalassophobia



 海を前にして、二人はしばらく立ち尽くしていた。


 目の前には、暗い水面がどこまでも広がっている。


 波はほとんどない。


 ただ、時々小さく揺れる水面だけが、かすかな音を立てていた。


「……行くしかないな」


 佐伯が言った。


「うん」


 透は頷いた。


 二人はゆっくりと海へ入っていった。


 足元から冷たい水が身体を包む。


 膝まで。


 腰まで。


 胸まで。


 やがて、二人の身体は完全に水の中へ沈んだ。


 透は反射的に息を止めた。


 次の瞬間。


「……?」


 苦しくない。


 透は目を開けた。


 見える。


 水の中なのに、普通に目を開けていられる。


 周囲には青黒い水が広がっている。


「佐伯……」


 声を出してみる。


 水の中なのに、声が聞こえた。


「……俺もだ」


 佐伯が答えた。


 二人は顔を見合わせた。


「息もできる」


 透がゆっくり息を吸う。


 水の中なのに、呼吸ができた。


「水圧も……」


 深く潜っているはずなのに、身体に苦しさがない。


「この場所に入った瞬間、身体の方が変わったのか」


 佐伯が呟いた。


「……分からない」


 透は周囲を見回した。


「でも、進めそうだ」


 二人は泳ぎ始めた。


 海の中は静かだった。


 水面の音も聞こえない。


 自分たちの動く音だけが、かすかに響いている。


 どこまでも暗い。


 ライトを前に向けても、その先は闇に飲み込まれていた。


 透は慎重に泳いだ。


 海底には岩がいくつも転がっている。


 ところどころに海藻のようなものが揺れていた。


 しかし、生き物の姿はない。


「……何もいないな」


 佐伯が言った。


「静かすぎる」


 透が答える。


 しばらく進んだ。


 水深は少しずつ深くなっていった。


 海底が遠ざかる。


 ライトを下へ向けても、底が見えなくなった。


「……どこまで深いんだ」


 透が呟く。


 その時だった。


 佐伯が急に止まった。


「透」


「何?」


「動くな」


 声が低い。


 透も動きを止めた。


「……何かいる」


 二人は前を見た。


 何もない。


 ただの暗闇。


 しかし。


 水の流れが変わった。


 それまで静かだった海水が、ゆっくりと横へ動き始める。


 海藻が一斉に同じ方向へ揺れた。


「……風?」


「水の中だぞ」


 佐伯が答えた。


 その瞬間。


 遠くの暗闇が、ゆっくりと黒くなった。


 最初は、ただの影に見えた。


 しかし。


 影は大きくなっていく。


 こちらへ近づいている。


「……何だよ、あれ」


 透の声が震えた。


 影の輪郭が少しずつ見えてくる。


 巨大だった。


 あまりにも大きい。


 ライトを向けても、全体を照らすことができない。


 身体なのか。


 何なのか。


 それすら分からない。


 ただ、巨大な何かがこちらへ向かっている。


「逃げるな」


 佐伯が小さな声で言った。


「動いたら気づかれるかもしれない」


 二人はその場に留まった。


 影が近づく。


 海水が大きく揺れる。


 透の身体が流されそうになる。


 それでも、佐伯が手を伸ばして透の腕を掴んだ。


「離れるな」


「うん……」


 影がさらに近づく。


 ライトの先を、何かが横切った。


 巨大な表面。


 黒く、濁っている。


 そこには目のようなものは見えない。


 口も見えない。


 ただ、異常なほど長い何かが闇の中を進んでいく。


 その一部だけで、二人の視界を埋め尽くした。


 透は息を呑んだ。


 いや。


 息をする必要はない。


 それでも、身体が勝手に息を止めようとした。


 巨大な何かが二人の横を通り過ぎる。


 その瞬間。


 周囲の水が一気に引っ張られた。


「うわっ!」


 透の身体が流される。


 佐伯が腕を掴む。


「透!」


「佐伯!」


 二人は岩に手をかけた。


 巨大な影は、まだ進んでいる。


 どこまで行っても終わらない。


 その身体の一部が、闇の向こうへ消えていく。


 やがて。


 最後まで姿を見せることなく。


 影は暗闇の奥へ消えた。


 水の流れが止まる。


 静寂が戻った。


「……行った?」


 透が呟く。


 佐伯は答えなかった。


 ただ、暗闇を見つめている。


「……何だったんだ?」


「分からない」


 佐伯が言った。


「でも、あれには近づくな」


「……うん」


 二人はしばらく動かなかった。


 そして。


 透がゆっくり前を向く。


「……進もう」


「ああ」


 二人は泳ぎ始めた。


 もう、後ろは見なかった。


 それでも。


 しばらく進んだところで。


 透は、背後の暗闇に小さな違和感を感じた。


 何かがいる。


 そんな気がした。


 ライトを後ろへ向ける。


 何もいない。


 ただの暗闇だった。


「……気のせいか」


 透は前を向いた。


 その直後。


 遠くの暗闇の中で。


 何かがゆっくり動いた。


 二人は、それに気づかなかった。


 ————————————


 二人は黙って泳ぎ続けていた。


 さっき見たものについて、どちらも話そうとはしなかった。


 話したところで、何かが分かるわけではない。


 ただ。


 あの影がまだ遠くにいるような気がしていた。


 透は何度も後ろを確認した。


 何もいない。


 それでも、不安は消えなかった。


「……佐伯」


「ん?」


「少し急ごう」


「分かった」


 二人は泳ぐ速度を上げた。


 しかし、しばらくすると佐伯の動きが遅くなっていった。


「……悪い」


 佐伯が息を整える。


「やっぱり、怪我が響いてる」


 ボイラー室で負った傷。


 水の中では思うように身体を動かせないらしい。


「俺が引っ張る」


「いや、大丈夫だ」


「大丈夫じゃないだろ」


 透は佐伯の手を掴んだ。


「俺、泳ぐの得意だから」


「……そうだったな」


 佐伯が小さく笑った。


「頼む」


 透は佐伯の手を握ったまま、前へ進んだ。


 水の中を泳ぐ。


 一人なら簡単だった。


 けれど、佐伯を連れていると速度が落ちる。


 それでも、透は手を離さなかった。


「……まだ痛む?」


「ああ」


「無理しないで」


「お前こそな」


 佐伯が少し笑った。


「俺を引っ張ってるんだから」


「今さらでしょ」


 透も笑った。


 二人はそのまま進んだ。


 しばらくすると、海底が少しずつ浅くなってきた。


 岩が増えている。


 その奥に、大きな岩壁が見えた。


「……あれ」


 透がライトを向ける。


 岩壁の中央に、大きな裂け目があった。


「洞窟だ」


 佐伯が言った。


 透は洞窟の周囲を照らした。


 入口はかなり大きい。


 中から水が流れ出している。


「この先、何かに繋がってるのかも」


「入ってみるか」


「うん」


 二人は洞窟の中へ入った。


 入口を抜けると、周囲が一気に暗くなった。


 ライトが岩壁を照らす。


 濡れた岩が光を反射している。


 天井から水滴が落ちる。


 ポタ。


 ポタ。


 その音だけが響いていた。


 洞窟は徐々に狭くなっていった。


 透は佐伯の手を引く。


 時々、身体を横にして進まなければならない場所もあった。


「ここ、どこまで続いてるんだ?」


 透が言う。


「分からない」


 佐伯が答えた。


「でも、海から離れられるだけでもいい」


 二人はさらに奥へ進んだ。


 しばらくすると。


 前方に、かすかな青白い光が見えた。


「……光?」


 透が止まる。


 佐伯も見る。


「行ってみよう」


 二人は光へ向かった。


 近づくにつれて、周囲の岩が少なくなっていく。


 そして。


 洞窟の先が突然開けた。


「……え?」


 透は立ち止まった。


 そこには。


 海とは全く違う空間が広がっていた。


 白い壁。


 高い天井。


 青白い照明。


 そして。


 床の大部分を占める巨大なプール。


 その先にも。


 またプールがある。


 さらにその先にも。


 同じような景色が続いている。


「……何だ、ここ」


 透が呟いた。


 佐伯はしばらく黙っていた。


 そして。


「……Pool Room」


「知ってるの?」


「名前だけ聞いたことがある」


 佐伯が答えた。


「こんな場所があるって話を、廃オフィスで聞いた」


 透は目の前を見つめた。


 海の暗闇。


 巨大な影。


 洞窟。


 その先にあった、人工的なプール。


「……海の先に、こんな場所があるなんて」


「俺も思わなかった」


 佐伯が答えた。


 透はゆっくりと一歩進んだ。


 足元に水がある。


 静かに揺れている。


 チャプ。


 その音が、巨大な空間に響いた。


 二人は顔を見合わせた。


「行こう」


 佐伯が言う。


「うん」


 二人は洞窟を抜けた。


 その瞬間。


 背後から。


 遠くの海の方から。


 ゴゴゴゴゴ……。


 低い音が響いた。


 透が振り返る。


 洞窟の向こう。


 暗闇の中で。


 何か巨大なものが動いたように見えた。


「……佐伯」


「見るな」


 佐伯が言った。


「もう行こう」


 二人は前を向いた。


 そして。


 無数のプールが続く空間へと、ゆっくり足を踏み入れた。



 第九章 Pool Room



 二人は、無数のプールが続く空間に立っていた。


 白い壁。


 青白い照明。


 そして、どこまでも続く水。


 さっきまでいた暗い海とは、あまりにも雰囲気が違っていた。


「……本当に、同じ場所の中なのか?」


 透が呟く。


「俺にも分からない」


 佐伯は周囲を見回した。


「でも、ここなら少し休めそうだ」


 二人は近くのプールの縁に腰を下ろした。


 透は大きく息を吐いた。


「……疲れた」


「そりゃそうだ」


 佐伯が苦笑する。


「海の中をあれだけ泳いだんだからな」


 透は自分の腕を見る。


 さっきまでの緊張が、少しずつ抜けていく。


「佐伯、傷は?」


「まだ痛い」


「見せて」


「大丈夫だって」


「いいから」


 透が佐伯の腕を見る。


 ボイラー室で負った傷は、まだ残っていた。


 海を泳いだせいで、服も身体もかなり濡れている。


「……一回、水に入ってみる?」


「水に?」


「ここなら、何か変わるかもしれない」


 佐伯は少し考えた。


「まあ……やってみるか」


 二人はプールの中へ入った。


 水は冷たくない。


 むしろ、少し温かい。


「……気持ちいいな」


 佐伯が呟いた。


 透も肩まで水に浸かる。


 身体に溜まっていた疲れが、少しずつ抜けていくようだった。


 しばらくして。


 佐伯が自分の腕を見た。


「……透」


「ん?」


「これ」


 透が見る。


 さっきまで残っていた傷が、少し薄くなっている。


「……え?」


 二人とも黙った。


 佐伯が腕を動かす。


「痛みも……ほとんどない」


「本当に?」


「ああ」


 透も自分の身体を確認する。


 ボイラー室から逃げてきた時の疲労も、少しずつ軽くなっている。


「この水……」


「何かあるんだろうな」


 佐伯が水面を見る。


 青白い光が、水の中で揺れている。


「ここに来た人が、休めるようになってるのかもしれない」


「だったら……」


 透は水の中で目を閉じた。


「少しだけ、ここにいたい」


「ああ」


 二人はしばらく何も話さなかった。


 ただ、水の中にいた。


 静かだった。


 今までずっと聞こえていた機械音もない。


 何かが追ってくる気配もない。


 初めて。


 本当に何も起こらない時間だった。


「……なあ、透」


「ん?」


「お前、帰ったら何する?」


 透は少し考えた。


「家に帰る」


「それは分かってる」


 佐伯が笑う。


「その後だよ」


「……娘を抱きしめるかな」


 透は少し笑った。


「たぶん、何も言わずに」


「そっか」


「佐伯は?」


 佐伯は水面を見つめた。


「俺は……」


 少し間があった。


「もう、考えたことなかったな」


「……」


「帰ったら何をするかなんて」


 透は何も言わなかった。


「でも」


 佐伯が続ける。


「お前と約束したからな」


「約束?」


「一緒に帰るって」


 透は小さく笑った。


「そうだったな」


「ああ」


 二人はまた黙った。


 しばらくして、佐伯がプールから上がった。


「そろそろ行くか」


「もう?」


「ここにずっといるわけにもいかないだろ」


 透も立ち上がった。


「そうだな」


 二人は水から上がった。


 身体が軽い。


 佐伯も腕を動かしている。


「……本当に治ってる」


「すごいな」


 透は周囲を見回した。


 同じようなプールが、どこまでも続いている。


「でも」


「ん?」


「どこから来たか、分からなくなってきた」


 佐伯が後ろを見る。


 洞窟はもう見えない。


「……確かに」


 二人は歩き始めた。


 プールとプールの間にある細い通路を進んでいく。


 どこを見ても同じ景色。


 白い壁。


 青い照明。


 水。


 時々、曲がり角がある。


 そのたびに進む方向を変えた。


「これ、迷ったら戻れないな」


 透が言う。


「だから目印をつけるか」


 佐伯が壁に小さな傷をつけた。


「これで戻れる」


「なるほど」


 二人はさらに進んだ。


 すると。


 遠くから、かすかな音が聞こえた。


 カタ……。


「……何の音?」


 透が足を止める。


 佐伯も耳を澄ませる。


 カタ。


 カタ。


 何かが動いているような音。


 二人は音のする方向へ進んだ。


 やがて。


 プールの奥に、一つの小さな部屋を見つけた。


 扉は半分開いている。


「入る?」


 透が聞く。


「慎重にな」


 二人はゆっくり中へ入った。


 そこには。


 古い機械が置かれていた。


 壁には配管。


 床には何本ものケーブル。


 そして、その奥に。


 一枚の鉄の扉があった。


 扉には何も書かれていない。


 ただ。


 向こう側から。


 低い音が聞こえている。


 ゴウン……。


 透と佐伯は顔を見合わせた。


「……また機械か?」


「分からない」


 佐伯が扉に近づく。


 取っ手に手をかける。


「開けるぞ」


 透は頷いた。


 佐伯がゆっくりと取っ手を下げる。


 カチッ。


 扉が少しだけ開いた。


 その隙間から。


 冷たい風が吹き込んできた。


 二人はその先を見つめた。


 Pool Roomの先に。


 まだ見たことのない場所が待っていた。



 第十章 The Suburbs



 扉が開いた。


 冷たい風が、透の顔に当たった。


「……外?」


 透は目を細めた。


 目の前には道路がある。


 その両側には、家が並んでいた。


 街灯。


 電柱。


 駐車場。


 庭。


 どこにでもありそうな住宅街だった。


 透は一歩、外へ出た。


「……普通の街に見える」


 佐伯も扉の向こうへ出てくる。


「そう見えるだけだ」


「え?」


「ここは危ない」


 佐伯の声は低かった。


「この場所には、ネイバーフッドウォッチがいる」


「……ネイバーフッドウォッチ?」


「人間じゃない」


 佐伯は周囲を見回した。


「見つからないように進むぞ」


 透は頷いた。


 二人は道路の端を歩き始めた。


 できるだけ音を立てない。


 家の影を使いながら進む。


 しばらく歩いた。


 何も起こらない。


 家の窓には明かりがついている。


 カーテンが閉まっている家もある。


 まるで、誰かが普通に暮らしているようだった。


「……本当に危険なのか?」


 透が小声で言う。


「だから怖いんだ」


 佐伯が答えた。


「何も起きない時ほど気をつけろ」


 その時。


 佐伯が急に足を止めた。


「……伏せろ」


 二人は近くの塀の影に身を隠した。


 透は顔だけを出して道路を見る。


 何もいない。


「何が――」


 佐伯が透の口元に指を当てた。


 静かに。


 待つ。


 数秒後。


 街灯の向こうから。


 何かが現れた。


 巨大な目だった。


「……!」


 透は息を止めた。


 人間の身体ではない。


 大きな眼球のようなものが、道路の上を静かに浮かんでいる。


 その周囲には、細い血管のようなものが伸びている。


 音がしない。


 歩いているわけでもない。


 ただ。


 ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 透は身体を動かせなかった。


「見るな」


 佐伯が小さく囁く。


「目を合わせるな」


 透は視線を落とした。


 巨大な目が、二人の隠れている塀の前を通り過ぎる。


 ゆっくり。


 ゆっくりと。


 そして。


 何事もなかったように、道路の先へ消えていった。


「……行った?」


 透が囁く。


「ああ」


 佐伯が顔を上げる。


「今のがWatcherだ」


 透は小さく息を吐いた。


「……あれに見つかったら?」


 佐伯は答えなかった。


「聞かない方がいい」


 その言葉だけで十分だった。


 二人は再び歩き始めた。


 今度はさらに慎重に。


 住宅の間を抜ける。


 角を曲がる。


 道路を渡る。


 しかし。


「……おかしい」


 佐伯が呟いた。


「どうした?」


「さっきから同じ場所を回ってる」


 透も周囲を見る。


 白い家。


 小さな植木。


 青い郵便受け。


「……さっき見た」


「ああ」


 佐伯が頷く。


「ここは道が複雑すぎる」


 その時。


 家の裏から。


 ガサッ。


 二人が振り返った。


「……何?」


 植え込みが揺れている。


 佐伯が透の腕を掴む。


「走るぞ」


「え?」


「今すぐ!」


 二人は道路へ飛び出した。


 背後から。


 ガサガサッ!


 何かが植え込みを抜けてくる音がする。


 透は振り返った。


 家の屋根の上。


 何かが動いた。


 人間のような形。


 しかし、人間よりはるかに大きい。


「佐伯!」


「見るな! 走れ!」


 二人は住宅街を走った。


 角を曲がる。


 さらに曲がる。


 しかし。


 前方の道路に、巨大な目が浮かんでいた。


「……!」


 二人は急停止した。


 Watcherだ。


 こちらを向いている。


 透の心臓が跳ねる。


「戻れ!」


 佐伯が叫んだ。


 二人は来た道を引き返す。


 後ろからも気配がする。


 前にもいる。


 逃げ道がない。


「囲まれた……?」


 透が呟く。


「まだだ」


 佐伯が周囲を見る。


「家の間!」


 二人は細い路地へ飛び込んだ。


 家と家の隙間。


 身体を横にしないと通れないほど狭い。


 後ろから何かが追ってくる音がする。


 ドンッ。


 壁が揺れた。


「急げ!」


 二人は必死に進んだ。


 やがて路地を抜ける。


 そこには広い道路があった。


「……出られた」


 透が息を切らす。


 しかし。


 道路の先に。


 また巨大な目が浮かんでいた。


「嘘だろ……」


 透が後退する。


 その瞬間。


 スマートフォンが震えた。


 ブブッ。


「……?」


 透がポケットを押さえる。


 画面が勝手に点いた。


 圏外。


 そして。


 画面が激しく乱れ始めた。


「何だこれ……」


 文字が消える。


 画面が黒くなる。


 そしてスマートフォンの電源が落ちた。


「電子機器も危ない」


 佐伯が言った。


「しまえ!」


 透は慌ててポケットへ戻した。


 その時。


 遠くから車の音が聞こえた。


 ブロロロ……。


 二人が振り返る。


 道路の向こうから、一台の車が近づいてくる。


 ライトが二人を照らす。


「こっち!」


 佐伯が住宅の間へ走る。


 透も続いた。


 車は二人を追うように道路を曲がった。


「なんで……!」


「止まるな!」


 二人は走り続けた。


 住宅街がどんどん暗くなっていく。


 街灯が一つ。


 また一つ。


 消えていく。


 その先に。


 公園が見えた。


「公園!」


 透が叫ぶ。


「入るな!」


 佐伯が止める。


「何で?」


「開けすぎてる!」


 しかし。


 背後から気配が迫っていた。


 家の屋根。


 道路。


 植え込み。


 どこにでも何かがいる。


「じゃあ、どこへ行けばいいんだよ!」


 透が叫ぶ。


 佐伯は周囲を見回した。


 そして。


「あそこだ!」


 公園の奥を指差した。


 そこには小さな建物があった。


「何だ?」


「分からない!」


 二人は建物へ走った。


 扉を開ける。


 中へ飛び込む。


 バタン!


 扉を閉める。


 透と佐伯はその場に座り込んだ。


 外から。


 足音が聞こえる。


 ザッ。


 ザッ。


 ザッ。


 しかし。


 扉は開かなかった。


「……助かった?」


 透が息を整える。


「まだだ」


 佐伯が答える。


「静かに」


 二人は息を潜めた。


 外を何かが通り過ぎる気配。


 しばらくして。


 足音が消えた。


 透はゆっくり立ち上がった。


 建物の中を照らす。


「……何だ、ここ」


 そこは小さな物置のような部屋だった。


 棚。


 古い机。


 何もない床。


 そして。


 壁の奥に。


 もう一つ扉があった。


「佐伯」


「ああ」


 二人は扉へ近づいた。


 普通の扉ではない。


 古い鉄製の扉。


 その向こうから。


 風の音が聞こえている。


「……外?」


 透が取っ手に手をかける。


 佐伯が止めた。


「待て」


「何?」


「この先が、次の場所かもしれない」


 二人は顔を見合わせた。


 透はゆっくり頷く。


「……開けよう」


 佐伯が周囲を確認する。


「行くぞ」


 透が取っ手を下げる。


 カチッ。


 扉が開く。


 その向こうには。


 住宅街とは全く違う。


 暗い空間が広がっていた。


 風が吹いている。


 そして。


 遠くに。


 見たことのない景色が見えた。


「……ここを抜ければ」


 透が呟く。


 佐伯も、その先を見つめていた。


「次の場所だ」


 二人は扉の前に立った。


 背後では。


 再び、何かが動く音がした。


 透は振り返らなかった。


 佐伯も振り返らない。


 二人は。


 次の場所へ続く扉を見つめていた。



 第十一章 The Threshold



 扉の向こうには、暗闇が広がっていた。


 透は足を止めた。


「……何も見えない」


 スマートフォンを取り出す。


 しかし、電源は入らない。


 佐伯が先に一歩進んだ。


「行くぞ」


「……うん」


 二人は扉を抜けた。


 その瞬間だった。


 背後の音が、すべて消えた。


 住宅街の気配も。


 ネイバーフッドウォッチの気配も。


 風の音さえも。


 何もない。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


「……佐伯」


「分かってる」


 二人は暗闇の中を歩いた。


 床はある。


 けれど、どこまで続いているのか分からない。


 壁も見えない。


 天井も見えない。


 ただ、どこまでも広い暗い空間が広がっている。


「……変だな」


 透が呟いた。


「何が?」


「今までの場所なら、何かがあった」


 黄色い部屋。


 電気の施設。


 廃オフィス。


 ホテル。


 海。


 プール。


 住宅街。


「どこへ行っても、何かしら音がしてた」


 透は暗闇を見る。


「でも、ここには何もない」


 佐伯も黙っていた。


 二人はさらに歩いた。


 しばらくして。


 透が足を止めた。


「……何かある」


 遠く。


 暗闇の中に。


 小さな光が見えた。


「……光?」


 佐伯が目を細める。


 光は、ゆっくりと大きくなっていく。


 二人が近づいているのか。


 それとも。


 向こうから近づいているのか。


 分からない。


 ただ。


 その光だけが、暗闇の中に浮かんでいた。


 二人は無言で歩いた。


 少しずつ。


 少しずつ。


 光の形が見えてくる。


 そして。


 透は立ち止まった。


「……門?」


 そこにあったのは。


 大きなアーチ状の門だった。


 暗い広い部屋の中央に。


 ただ一つ。


 静かに浮かぶように立っている。


 門そのものが光を放っているわけではない。


 淡い白と青の光が、その輪郭を包んでいる。


 まるで。


 暗闇の中に、そこだけ別の世界が存在しているようだった。


「……綺麗だ」


 透が呟いた。


 これまで見てきたものとは、何もかも違う。


 不気味ではない。


 恐ろしくもない。


 ただ。


 静かだった。


 そして。


 不思議なほど、懐かしい。


 透は門を見つめた。


 その瞬間。


 胸の奥に、言葉では説明できない感覚が広がった。


 佐伯も同じように門を見つめている。


「……分かるか?」


 佐伯が言った。


「うん」


 透は頷いた。


 なぜか分からない。


 誰かに教えられたわけでもない。


 どこかに書いてあったわけでもない。


 けれど。


 こんなにも長く。


 この謎の世界を旅してきた二人には。


 もう分かっていた。


 ここが。


 現実へ戻るための場所なのだと。


「……帰れる」


 透が呟いた。


 その言葉が、暗い部屋の中に小さく響いた。


 佐伯は門を見つめたまま答えた。


「ああ」


「本当に……帰れるんだ」


「ああ」


 佐伯の声が少し震えていた。


 二人はゆっくりと門へ近づいた。


 門の向こう側は見えない。


 光だけが広がっている。


 透は手を伸ばしかけた。


 しかし。


 そこで止めた。


「……佐伯」


「ん?」


「一緒に帰ろう」


 佐伯は透を見る。


「約束しただろ」


「……ああ」


 佐伯が笑った。


「約束したな」


 二人は並んで門の前に立った。


 ここまで来た。


 長かった。


 何度も逃げた。


 何度も死ぬかもしれないと思った。


 それでも。


 二人はここまで歩いてきた。


 透はもう一度、門を見上げた。


 暗闇の中で。


 その門だけが。


 静かに輝いていた。


 そして二人は。


 帰るための場所を前にして。


 初めて。


 本当の意味で、現実へ戻れるかもしれないと思った。


 ————————————


 二人は、光るアーチの前まで歩いた。


 近くで見ると、その門はさらに大きかった。


 淡い光が輪郭を包み、暗い部屋の中で静かに輝いている。


 透は門の向こうを見つめた。


 何も見えない。


 ただ、そこに「向こう側」があることだけは分かった。


「……本当に帰れるのかな」


 透が呟く。


「ここまで来たんだ」


 佐伯が答える。


「たぶん、そういうことだろ」


 二人は門の周囲を調べた。


 すると。


 門のすぐ横に、小さな石碑のようなものがあることに気づいた。


「……何か書いてある」


 透が近づく。


 表面には、白い文字が浮かんでいた。


 ――ここで休息するか。


 ――現実へ戻るか。


 透は文字を読み上げた。


「休息するか……現実に戻るか……」


 佐伯も隣から見る。


 その下には、さらに文章が続いていた。


 ――選択は、それぞれが行うこと。


 ――互いの選択を知られてはならない。


「……どういう意味だ?」


 透が首を傾げる。


「分からない」


 佐伯も答えた。


 さらに下を見る。


 左右に二つの場所がある。


 一方には、静かな椅子。


 もう一方には、光る門。


「休むか、帰るか……」


 透が呟く。


「俺は帰る」


 佐伯が言った。


「俺も」


 透は即答した。


 その言葉を聞いて。


 佐伯は少しだけ笑った。


「だよな」


「ああ」


 透は門を見る。


 妻。


 娘。


 自分がいなくなったあと、どうなっているのか。


 どれだけ心配しているのか。


 それを考えると、一刻も早く帰りたかった。


「帰ろう」


「……ああ」


 二人はそれぞれの選択場所へ向かおうとした。


 その時。


 佐伯の足が止まった。


「……佐伯?」


「いや」


 佐伯は首を振った。


「何でもない」


 透は先へ進んだ。


 その背中を見ながら。


 佐伯はもう一度、石碑を見た。


 透からは見えない位置。


 文字の一番下に。


 さっきまでは見えていなかった文章が浮かんでいた。


 ――なお。


 ――帰還できるのは一名のみ。


「…………」


 佐伯の表情が止まった。


 しばらく。


 何も言えなかった。


「……一人?」


 小さく呟く。


 透はまだ気づいていない。


 門の前で待っている。


「佐伯?」


「ああ」


 佐伯は顔を上げた。


「今行く」


 そして。


 石碑に書かれた文字をもう一度見た。


 ――帰還できるのは一名のみ。


 佐伯は静かに目を閉じた。


 頭の中に、あの言葉が浮かぶ。


 一緒に帰れたら、飲みにでも行こうぜ。


 あの暗闇の中で交わした約束。


 あの時は。


 本当に二人で帰れると思っていた。


「……そうか」


 佐伯は小さく笑った。


 そして。


 透には何も言わず。


 石碑から離れた。


「どうした?」


 透が聞く。


「何でもない」


「本当に?」


「ああ」


 佐伯は門を見る。


 その光は。


 何も知らない透には、ただ帰るための光に見えている。


 けれど。


 佐伯には違って見えた。


 これは。


 二人のうち一人しか帰れない門だった。


 それでも佐伯は。


 何も言わなかった。


「行こう」


 透が言う。


「ああ」


 二人は並んで。


 The Thresholdの光へ向かって歩き始めた。


 ————————————


 二人は、光るアーチの前に立っていた。


 暗い部屋の中で。


 その門だけが、静かに輝いている。


 透は門を見上げた。


「……やっとだな」


「ああ」


 佐伯が答える。


「長かった」


 本当に長かった。


 黄色い部屋から始まった。


 暗い場所を歩いた。


 パイプに囲まれた場所。


 電気の施設。


 廃オフィス。


 テラーホテル。


 ボイラー室。


 暗闇。


 深い海。


 プール。


 そして。


 危険な住宅街。


 何度も帰りたいと思った。


 何度も、もう無理だと思った。


 それでも。


 二人はここまで来た。


「……透」


「ん?」


「家族、待ってるんだろ」


「ああ」


 透は笑った。


「妻と娘がいる」


「そっか」


 佐伯は門を見つめた。


「じゃあ、帰らないとな」


「うん」


 透は頷いた。


「一緒に帰ろう」


「……ああ」


 佐伯も笑った。


 二人は門へ近づいた。


 光が少しずつ強くなる。


 その光の中へ入るための場所が、二つに分かれていた。


 一つは。


 静かに休める場所。


 もう一つは。


 光る門へ続く場所。


 透は迷わなかった。


「俺は帰る」


 佐伯も頷く。


「俺もだ」


 二人はそれぞれの場所へ進んだ。


 透が振り返る。


 佐伯は少し離れたところに立っていた。


「佐伯」


「ん?」


「帰ったらさ」


「うん」


「……飲みに行こうな」


 透が笑う。


 あの暗闇の中で交わした約束。


 佐伯も笑った。


「ああ」


「約束だからな」


「分かってる」


 佐伯はそう言った。


 けれど。


 透には見えない場所で。


 佐伯はもう一度、あの文章を思い出していた。


 ――帰還できるのは一名のみ。


 佐伯は目を閉じた。


 そして。


 ゆっくりと息を吐いた。


「……透」


「何?」


「お前」


 佐伯は少しだけ笑った。


「家族と楽しくやれよ」


「……え?」


 透は振り返った。


「何だよ、急に」


「別に」


 佐伯は笑っている。


「ただ、言いたかっただけだ」


「……変なの」


 透は笑った。


「佐伯も帰るんだろ?」


「ああ」


「じゃあ、また会えるな」


「……そうだな」


 佐伯は答えた。


 透は何も疑わなかった。


 ただ。


 門の光だけを見つめた。


「じゃあ……行くぞ」


「ああ」


 二人は同時に歩き出した。


 透の身体が、光の中へ入る。


 一瞬。


 すべてが白くなった。


 音が消えた。


 身体が浮いたような感覚。


 そして。


 ――世界が戻った。


 * * *


 透は目を開けた。


「……」


 そこは。


 見慣れた場所だった。


 道路。


 建物。


 街灯。


 車の音。


 人の話し声。


 現実の世界。


 透はしばらく動けなかった。


「……帰ってきた」


 小さく呟く。


 本当に。


 帰ってきた。


 スマートフォンを取り出す。


 画面がつく。


 電波もある。


 透は周囲を見回した。


 佐伯の姿はない。


「……佐伯?」


 返事はない。


 けれど。


 透は、少しだけ笑った。


「……きっと、違う場所に戻ったんだ」


 どこかは分からない。


 いつ会えるのかも分からない。


 それでも。


 現実にいるのなら。


「……きっと、また会えるよな」


 透はそう呟いた。


 そして。


 家族の待つ場所へ向かって歩き始めた。


 振り返らずに。


 ただ。


 あの約束だけを胸に残して。


 ――一緒に帰れたら、飲みにでも行こうぜ。


 透の姿が、夜の街へ消えていく。



 終章 Backrooms



 朝。


 透は目を覚ました。


 しばらく天井を見つめる。


 白い天井。


 見慣れた部屋。


 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


 外を走る車の音。


 どこかの家から聞こえる生活音。


 透はゆっくり身体を起こした。


「……帰ってきたんだな」


 小さく呟く。


 その時。


「パパ?」


 扉の向こうから声がした。


「起きてる?」


「ああ」


 扉が開く。


 娘が顔を出した。


「朝ご飯できてるよ」


「分かった」


 透は立ち上がった。


 娘と一緒に部屋を出る。


 キッチンには、妻がいた。


「おはよう」


「おはよう」


 妻が笑う。


 透も笑った。


 何も変わらない。


 いつもの朝だった。


 朝食を食べながら、娘が学校の話をする。


 妻が今日の予定を話す。


 透はそれを聞きながら、何度も頷いた。


 普通の会話。


 普通の朝。


 それだけでよかった。


 しばらくして。


「ねえ、パパ」


「ん?」


 娘が透を見る。


「パパ、長い間どこまで行ってたの?」


 透の手が止まった。


 ほんの一瞬。


 頭の中に、あの場所が浮かんだ。


 黄色い壁。


 暗い廊下。


 無数のパイプ。


 ホテル。


 深い海。


 そして。


 佐伯。


 透は小さく息を吐いた。


「親友と遊んでたんだよ」


「親友?」


「ああ」


「どこで?」


「ちょっと遠いところ」


 娘は首を傾げた。


「楽しかった?」


 透は少しだけ考える。


「……うん」


 そして笑った。


「大変だったけどな」


「また行く?」


 透は一瞬だけ黙った。


「どうだろうな」


 娘はそれ以上聞かなかった。


 また朝食に戻る。


 透はそんな娘を見ながら、静かに笑った。


 もう大丈夫だ。


 ここが現実だ。


 そう思った。


 ————————————


 夜。


 家族が眠ったあと。


 透は一人でリビングにいた。


 窓の外には、いつもの街が広がっている。


 車のライト。


 信号。


 遠くの建物。


 どこにでもある夜の景色。


 透はソファに座り、スマートフォンを眺めていた。


 写真を開く。


 妻と娘。


 何気ない日常の写真。


 それを見ているうちに、自然と笑みがこぼれた。


「……帰ってきてよかった」


 スマートフォンを置く。


 立ち上がる。


 寝室へ向かおうとした、その時だった。


 透は足を止めた。


「……」


 何か。


 ほんの一瞬だけ。


 おかしい気がした。


 足を動かす。


 もう一度、床を踏む。


 何もない。


 いつもの床。


 透は少しだけ眉をひそめた。


「……気のせいか」


 そう呟いて、歩き出そうとする。


 そして。


 もう一度、足を踏み出した。


 ――その瞬間。


 透は。


 足元の床に、違和感を感じた。

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