遺跡が目を覚ました日
その日、谷には誰もいなかった。
少なくとも、
そう記録されている。
朝、風向きが変わった。
いつもは谷を抜けていく風が、
その日は、底へと沈んだ。
昼、鳥が近づかなかった。
上空を旋回するだけで、
降りてこなかった。
夕刻、
遺跡の影が、
初めて“逆に”伸びた。
それに気づいたのは、
遠くの街道を歩いていた行商人だった。
「……今、光った?」
彼は足を止め、谷を見た。
距離がありすぎて、
何が起きたかは分からない。
だが、
見間違いではない確信だけが残った。
同じ頃、
山を越えてきた旅人が言う。
「風が、歌ってた」
誰も信じなかった。
風は音を立てる。
だが、歌は――。
夜、谷の近くで野営していた狩人が、
眠りの中で目を覚ました。
地面が揺れたわけではない。
獣の気配でもない。
ただ、
深く息を吸うような感覚があった。
彼は翌朝、
仲間にこう伝えた。
「遺跡が……
起き上がった気がする」
翌日から、
谷の様子は少しずつ変わる。
水が戻った。
枯れていた流れに、
細い筋が走る。
苔が、
人の背丈ほどに伸びた。
だが、
門は開かない。
声も、聞こえない。
誰かが言う。
「目覚めた、らしいぞ」
別の誰かが言い返す。
「いや、
前から起きてたんだ」
噂が、先に走る。
“歌った者がいた”
“名もない二人だ”
“子どもだった”
“もう老人だった”
一致する話は、ひとつもない。
ただ、
起きた日だけが、共有された。
その日、谷に人がいなかったこと。
それだけが、
奇妙な確かさを持って語られる。
学者は記す。
起動条件不明。
外的刺激なし。
内発的変化の可能性。
冒険者は笑う。
「勝手に起きる遺跡なんて、
危なくて近づけないな」
子どもたちは、
谷の方角に向かって歌う。
何も起きない。
それでも、歌う。
なぜなら、
起きたと聞いたからだ。
遺跡は、何も宣言しなかった。
目覚めたとも、
招いたとも、
拒んだとも言わない。
ただ、
以前と同じように在り続ける。
だが、人々は知っている。
「あの日」を境に、
谷は“行き先”になった。
地図に載らないまま。
名も刻まれないまま。
そして誰も、
その日にそこにいたはずの
二人の名を、知らない。
遺跡が目を覚ました日、
物語は、
当事者の手を離れた。
ここから先は、
目撃と噂の時代だ。
真実よりも速く、
確信よりも遠くへ。
静かに、
だが止めようもなく。




