アイレックスは応えなかった
遺跡に戻ったとき、
最初に気づいたのは、変化が止まっていることだった。
苔は増えていない。
蔦も伸びていない。
石の色も、昨日のまま。
それは後退ではなかった。
衰えでも、失敗でもない。
ただ、時間がそこで立ち止まっているように見えた。
少年は足を止め、無意識に呼吸を整えた。
声を出すための準備だったが、すぐには出さない。
喉の奥に残るわずかな緊張を、ゆっくりと解く。
少女も同じように、歌わずに立っている。
風に揺れる髪を押さえることもせず、
ただ、遺跡の中心を見つめていた。
二人とも分かっていた。
今日は“呼ぶ日”だと。
ここ数日の観察で、
変化は確かに積み重なっていた。
緑は石を選ぶように覆い、
音は以前より深く響くようになっている。
それらは偶然ではない。
だが、決定的な何かには、まだ届いていない。
距離は測ってある。
立つ位置も、声を重ねる順番も、沈黙の長さも。
準備は、これ以上ないほど整っていた。
それでも、なぜ呼ぶのか――
その理由だけが、完全な言葉にならない。
少年は、それを無理に言語化しないことにした。
理由を先に定めれば、
応答があった場合も、なかった場合も、
解釈が狭まってしまう気がしたからだ。
「……やってみる?」
少女の声には、迷いがあった。
だが、恐れはなかった。
それは、結果を受け入れる準備ができている声だった。
少年は頷き、円形劇場の中央手前まで降りる。
足音が、石に吸い込まれていく。
影は昨日と同じ位置で止まり、
石の縁は何も語らない。
少年は声を出した。
今までで一番、はっきりとした声だった。
植物に向ける声ではない。
記録のためでもない。
空間に向けた、短く明確な呼びかけ。
そこへ、少女の歌が重なる。
旋律は長く、谷全体をなぞるように広がっていく。
音が円を描き、
遺跡そのものを包み込む。
声と歌が、初めて“呼びかけ”として重なった。
風が動いた。
遺跡の内側だけを、一周する。
少年は一瞬、息を止めた。
だが、それだけだった。
石は動かない。
光も集まらない。
緑も、目に見える反応を示さない。
時間が、静かに流れる。
期待が膨らむことも、崩れることもなく、
ただ、過ぎていく。
やがて歌が止み、
少年の声も消える。
沈黙が、落ちた。
その沈黙は重くない。
空白でもない。
結果として、そこに在る。
少年は、すぐには何も言わなかった。
期待が裏切られた、という感覚はなかった。
ただ、確認が終わった、という静かな実感だけが残る。
「……応えないね」
少女の言葉は、事実の報告だった。
「うん」
少年の返事は短い。
それ以上、付け加える必要がなかった。
失敗ではない。
拒絶でもない。
遺跡は、まだ応答という段階にない。
少年はノートを開き、
今日のページに一行だけ記した。
《反応なし》
余白の多いページだったが、
それ以上の言葉は、不要だった。
少女は、遺跡を見つめながら、
歌うことを完全にやめた。
歌わないことで、
彼女はここにいる。
二人はしばらく留まり、
何も起こらないまま、段を上がった。
帰り道、誰も振り返らない。
それが、今日の約束だった。
遺跡は沈黙している。
眠っているとも、死んでいるとも違う。
ただ、まだ答えを持っていない。
あるいは――
答える相手を、決めていない。
谷を抜ける風が、遺跡の中を通り、
どこかへ流れていく。
その風は、今日のことを記録していない。
だが、忘れてもいない。
アイレックスは、応えなかった。
それだけが、
確かな事実だった。




