緑が石を覆い始めるとき
翌朝、谷は霧に包まれていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、音をすべて柔らかくする。
少年は、昨日と同じ場所に立っているはずなのに、
風景が少し違って見えることに気づいた。
石の色が、深くなっている。
遺跡の輪郭は依然として曖昧だったが、
苔の緑が、昨日よりも濃く、はっきりしていた。
蔦の葉は一枚増え、地面には新しい芽が点々と顔を出している。
成長の速度としては、不自然だった。
だが、少年は「異常だ」とは思わない。
ただ、変化が起きている、と理解する。
少女は、遺跡の縁に立ち、風を確かめていた。
歌う前の仕草だが、すぐには声を出さない。
「……呼んでないのに、動いてる」
その言葉には、驚きよりも、少しの敬意が混じっていた。
少年は膝をつき、苔を指で押す。
柔らかい。
昨日より、水分を含んでいる。
「夜の間に、何かが巡ったんだ」
何が、と問われれば、言葉はない。
水かもしれないし、風かもしれない。
あるいは、もっと曖昧なもの。
少年の中の“博士”は、仮説を立て始めていた。
声や歌が直接作用したわけではない。
だが、昨日、ここで「何もしなかった」ことが、
結果として、遺跡に余白を与えたのではないか。
少女は、静かに歩き始めた。
石の段差を選ぶように、慎重に。
足音は、驚くほど響かなかった。
苔が、音を吸っている。
「……起きる準備、してるのかも」
歌う者の感覚は、いつも言葉より先に動く。
少女は、遺跡を“場所”としてではなく、
“状態”として捉えていた。
少年は、ノートを開きかけて、やめた。
今、書いてしまうと、
この変化を「説明できるもの」にしてしまう気がしたからだ。
代わりに、息を吸い、
昨日よりも、少しだけ長く声を出した。
低く、持続する音。
植物に向ける声。
苔が、即座に反応することはない。
だが、風の流れが変わった。
蔦の先端が、わずかに持ち上がり、
石の縁に沿って伸びる。
少女は、その変化を見て、
今度は歌を重ねた。
旋律は、昨日よりも短い。
だが、音程が少し高い。
声と歌が、重なる。
互いに干渉せず、ぶつからず、
ただ、同じ場所に存在する。
遺跡は、まだ応えない。
だが、拒まない。
少年はその状態を、
「半覚醒」とでも呼びたくなった。
だが、言葉にするのは、まだ早い。
昼が近づき、霧が晴れていく。
石の円が、はっきりと見え始める。
段差は、確かに人の足を想定して作られている。
中央に向かって、緩やかに下る構造。
「……円形劇場」
少女が、昨日と同じ言葉を、
今度は少し確信を込めて口にした。
少年は頷いた。
だが、その視線は、舞台ではなく、
周囲を取り囲む植物に向けられている。
石を覆う緑は、
遺跡を隠すためではなく、
守るために存在しているように見えた。
「ここは……」
少年は言いかけて、やめた。
名前を与えるには、まだ早い。
二人は、遺跡の中心へは降りなかった。
今日も、起こさない。
だが、確実に、
昨日とは違う距離に、立っていた。
緑が石を覆い始めるとき、
それは目覚めの合図ではない。
準備が、始まっただけだ。




