遺跡はまだ眠っている
谷の奥へ進むにつれて、風の流れが変わった。
それまで一定だった湿り気が途切れ、空気にわずかな冷たさが混じる。
少年は足を止め、地面の感触を確かめるように靴底を踏みしめた。
土ではない。
石だ。
露出しているわけではないが、土の下に連続した硬さがある。
踏み抜く心配はなく、むしろ整いすぎている感触だった。
「……ここからだね」
少女が小さく言った。
断定でも、期待でもない。
ただ、歌を止めた人間が発する、静かな確認だった。
少年は頷き、ノートを開く。
ページをめくる指が、いつもより慎重になる。
植物の記録は減り、代わりに、石と苔、影の形が増えていた。
遺跡は、すぐには姿を現さなかった。
巨大な構造物を想像していたわけではない。
むしろ、何もないように見えることを、少年は予想していた。
石は、土と同じ色をしていた。
角は削れ、輪郭は曖昧で、苔と蔦に覆われている。
意識して見なければ、それはただの地形にしか見えない。
だが、少女は立ち止まった。
歌を口ずさむ前の、あの沈黙。
少年はそれを感じ取り、視線を上げる。
「……眠ってる」
少女の声は、確信に近かった。
だが、それは知識から出た言葉ではない。
彼女はいつも、そうした言い方をする。
眠っている。
生きている、とも、死んでいる、とも違う。
少年は遺跡に近づき、指で石の表面をなぞった。
冷たい。
だが、拒絶する冷たさではない。
「反応しないね」
声を落とし、短く発音する。
植物に使う声だ。
何も起こらない。
苔は揺れず、蔦も動かない。
少年は少しだけ眉を寄せた。
効かない、というより――
届いていない。
少女は、歌わなかった。
歌えば、何かが起こるかもしれない。
だが彼女は、あえて声を出さない。
「……今は、起こさない方がいい気がする」
そう言って、遺跡から一歩、距離を取った。
少年は、その判断に逆らわない。
彼もまた、同じ感覚を抱いていた。
この遺跡は、
呼べば応えるものではない。
声を使うことに慣れてきた少年は、
初めて「使わない」という選択を意識した。
記録することも、働きかけることもできる。
だが、待つこともまた、行為なのだと、
彼の中の“博士”が、静かに理解し始めていた。
二人は遺跡の縁に腰を下ろした。
風が、石の間を抜けていく。
その音は、どこか深く、空洞を含んでいる。
少女は、歌の代わりに、息を整えた。
少年は、ノートに何も書かず、ページを閉じる。
記録しないことも、記録だ。
太陽が傾き、遺跡の影が長く伸びる。
石の輪郭が、少しずつ浮かび上がっていく。
円の一部。
段差。
人の手による配置。
「……劇場みたいだね」
少女が言った。
少年は、はっきりとは答えなかった。
だが、その言葉が、胸の奥で何かと結びつくのを感じていた。
声。
歌。
聞くための場所。
遺跡は、まだ眠っている。
だが、目覚める理由を、すでに内側に持っている。
二人は、何も起こさないまま、そこを離れた。
だが、風だけは、遺跡の中に残り、
何度も同じ場所を巡っていた。
それは、待つことを知っている風だった。




