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地図にない緑の唄を求めて ― 植物博士と歌う冒険者、眠れる遺跡を辿る ―  作者: ゆうぎり
唄に呼ばれる前

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3/14

声を道具にする少年

少年は、自分の声を「歌」だとは思っていなかった。

それは誰かに聞かせるためのものではなく、ましてや感情を表すためのものでもない。

声は、使うものだった。


谷に入ってからというもの、少年は植物の前で立ち止まる時間が増えていた。

芽吹いたばかりの若葉、石の割れ目に根を張った蔦、湿った土に半ば沈み込んだ苔。

それらを前にすると、彼は無意識に呼吸を整え、喉の奥に残る空気の量を測る。


低く、短く。

あるいは、ほとんど音にならないほど微かに。


声を出した直後、植物がすぐに変化することはない。

だが、数分後、あるいは翌朝になると、葉の向きがわずかに変わっていたり、

昨日まで見えなかった新しい芽が、土の表面に影を落としていたりする。


偶然だ、と言われれば、それまでだった。

少年自身も、それを否定しない。

ただ――

そうした声を出した場所では、変化が起こる確率が高かった。


少年は腰を下ろし、古びたノートを開いた。

ページの大半は植物名と採取日、簡単な環境条件で埋まっている。

だが、その余白には、言葉にならない線や点が残されていた。


一定の間隔で引かれた線。

途中で途切れ、再び重なる印。

それは楽譜にも、図表にも似ていない。


少年はそれを「記録」と呼んでいた。

だが、何を記録しているのかと問われれば、答えに詰まるだろう。


少女は、少し離れたところでその様子を見ていた。

覗き込むでもなく、声をかけるでもない。

ただ、少年の背中と、彼の前にある植物を、同じ視線で見ている。


やがて少女は、静かに息を吸った。

風に紛れるような、ごく自然な呼吸だ。


そして、歌った。


旋律は単純だった。

繰り返しが多く、装飾もない。

だが、谷の空気に溶けると、不思議と消えずに残る。


少年は振り返らない。

少女も、彼の方を見ない。


それでも、二つの行為は、同じ場所で重なっていた。


少年の声は、植物に向けられている。

少女の歌は、空間に向けられている。

そのどちらもが、互いを邪魔しない。


歌が強すぎれば、少年は声を止める。

少年の声が長引けば、少女は一度、息を切る。

言葉を交わさなくても、そうした調整は自然に行われた。


少年はそれを不思議だとは思わない。

ただ、そうした方が、うまくいくからだ。


ノートを閉じると、彼は立ち上がった。

その視線は、植物から、谷全体へと移っていく。

地形の傾き、風の通り道、湿度の溜まりやすい場所。


それらを見つめる少年の目は、

いつの間にか、遊びに来た子どものものではなくなっていた。


自分が何者になりつつあるのか。

その問いは、まだ形を持たない。


だが、確かなことが一つだけある。

彼はもう、

ただ歩いているだけでは満足できなくなっていた。


少女の歌が、ふと止んだ。

二人の間に、短い沈黙が落ちる。


その沈黙は、不安ではない。

次に進むための、だった。


少年は顔を上げ、

谷の奥――

まだ名前のない遺跡の方向を見た。


そこに、何かがある。

理由は分からない。

だが、声と歌が、まだ届いていない場所が、確かに残っている。


少年はノートを抱え直し、

少女は、もう一度息を吸った。


二人は、歩き出した。

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